人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神のものは神に...

2020-12-15 12:12:31 | 
最近の私はいつも神の愛について書かされておりますが、宗教信者というのは、神を恐れている人がとても多いんですね。
特にクリスチャンなんかは、口では"神は愛です"などと言っておりながら、内心は神の裁きなんかを恐れてて、分裂しない方がおかしく思えてくるほどです。
罪の裁き、地獄に落とされる...恐れから信仰と関わっている...又信仰と関わったがために恐怖のトリコになってしまう...神を恐怖の対象にしてしまっては誰も救われないし、精神的目覚め、本心が開かれることもないでしょう。
これ、私自身がかつてそういう信者だったから言えるのです。
宗教には狂信というものが付きものですが、"この教えに従わないと救われないi"、という宗我根性も恐れから来るのは言うまでもありません。
私の経験では、一度こうした観念に呪縛されると、自分の力でそこから脱出するのは困難になります。
よしんば、その信奉する教団の在り方に疑問を感じ、信仰がグラツくことはあっても、"辞めたら救われなくなる、バチが当たる"といった観念が根強く心根に張り付いていて、中々離教に踏み切れなかったりするのです。余程の勇気、意志力が必要なのです。
私の場合、数人の人のアドバイスによって、そのハードルを越えることが出来たのですが、それは別の教団の青年部の人たちなのでした(笑)...五井先生の白光会の人たちだったのですが、たとえ、それが浅い観念的理解によるものだとしても、"神はバチを当てなどしない、いつも愛し、守って下さるもの"、という教えに触れたことは、返す返すも大きいことだったのですi 
さらにそれで忘れてはならないのは、"自分を愛し、信じる"ことです。
何故恐れを、特に神を恐れてしまうのか? それはこの自己信頼の欠如からということに尽きるでしょう。ここから教団や教祖への依存信仰が助長され、恐れも強固になります。
この心根に横たわる自らを閉ざしてしまう、罪の意識...これも私自身の力では克服することは出来なかったし、これだけはおそらく他の何人の力によっても不可能だったでしょう。神御自らによらずば...
どんな宗教、教師に帰依しても、それがいつ本来の在り方から逸脱し、変質するとも限りません。どうしてもこのものがモノを言わねばならないでしょう。
それが私が"見えない導き"と呼んでいる、人の思いを超えた力、即ち神直々の力ですi
"生まれて初めて神に捉えられたi...人伝に聞いた神でも、自分の観念で信じている神でもない、いやこれは神なのか、悪魔なのか?...ハッキリ示されていることは抵抗しようとしても、どうにもこうにも、そのまっ中心に惹き付けられてしまう...それはそのもののまっ中心なのか、私のなのか...こうして自ずからそれに赴かされるものは...愛なのだi
神の愛、これは全く驚きだi...神は私が、人間が信じ、考えていることの全くの裏返しだった...そしてあれほどまでに呪縛されていた神への恐れ、罪の意識が解かれたi"
長年私の精神を苛み続けた神への恐れ、罪意識からの解放、精神的目覚め、自己の開示...これは全て同時に起きたことだったのですi つまり、それはオールマイティなのです。人間が考えたような、何段階もの階段など登った試しなどありませんi
神信仰においてもっとも残念なことは、その信仰生活によってかえって精神に苦難を抱えてしまい、その宗教の在り方の問題に帰されるべきものを、神そのもののことと結び付けて受け取ってしまうことでしょう。
"神のものは神に、宗教のものは宗教に返せi"
コ難しい理屈は要らないi どうか、あなたが直接神にぶつかって、直接そこで何かを示され、与るまで、神のことを分かったようなこと言って、決めつけないで下さいi そしてこれほど自分自身の問題と相即したものは無いのです。
もし、あなたが本当に死にたいほど苦しいのなら、他人事でなく、あなたの神を求め、叫べばいいi
このことを私は神かけて叫びたいi
コメント
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