人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

技法を超えたもの

2020-12-05 09:54:23 | 祈りと瞑想
"神の愛はオールマイティだi、じゃあ、それにつながればいいのだi"
...と言ったって、どうやったらそうなるのか?、とは誰しもそう思うのでしょうが...それは..."教えないi"
だって、教えたら無くなったり、減ったり、薄まったりするかもしれないし、勿体ないでしょ?
な~んて、ホントは、そういうセコイ気持ちも全然無い訳じゃないのですが...それは実際にそういう所謂技法、メソッドにほとんど依拠したことは無かった、という根本的な理由と、そういうものにはアカが付く、思念に取り込まれたり、形骸化してしまうものだ、ということを多く見てて、そうなったらホントに勿体ないことになってしまう、という理由からです。
ただ、唯一私が技法的なことを伝えられるとすれば...それは"祈り"というものしかないでしょう。こういう心得は確かにありましたし...
しかし、それも厳密には技法的なものとは言えないのです。そこで神的なものを呼び起こす、という取っ掛かりはあるもののの、実にそのものこそが主体、主導となって、かむながら、自然のまにまに行われるものだからです。
つまりそれは、人為的なものから離れて、無為的なものに任す道への方便に他ならないのです。もう、技法を超えたものにならざるを得ない。
そこで肝心なことは、"神的なものを呼び起こす"、ということが眼目となるのは言うまでもありません。
如何に自己と神とつながる、即することが出来るか...その即応性に合うものは、意識が直ちにそのものに向けられるもの、ということになるでしょう。
それはごくシンプルに言って、自分が何らかの信仰者なら、自分が命のように大切に感じている、その帰依している神なり、聖人なりの名前でしょう。"阿弥陀仏"とか"アラー"とかがこの例ですね。
この場合、他に向けて"この神名、名号でなければならない"、なんてのは全く余計なことです。それがアカが付く、思念に取り込まれるってことですよ。
自分にとってそうなら、それがいいに決まってます。要するに自分にとって最愛なるものということ、意識がもっとも向きやすいものでなければならないのです。
名前を思い浮かべなくとも、(誰かさんのように)パッと意識が向いちゃう人は向いちゃうのですが、その神的なものとの関わりで原体験のある人は、何かの体感メモリーが作動するように即そうなる、ということです。
"イヤ、私は確かにそういう体験以前から感じていたぞi"
私の方が内奥から何かに呼び起こされていたように感じていたのです。
やっぱり、こちらの技法より先に始めに神の愛、神ありきということなのでしょうか?
どうしても、技法的なことはこういうことになって書けない次第なのです...。
コメント
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