私は5年くらい前まで、原始仏典などを紐解くまで、仏教、取り分け仏陀の教えというものにある先入観を持っていました。
例えば、悟りというものは、人の内なる仏性を表すもので、それを備えているものこそ真我というものだとか...
ところが、仏陀自身は、それまでインドで広く、伝統的に伝えられてきたその真我ーアートマンと言われるものについて、どちらかというと否定的なことを述べていたのです。
仏陀の教えの根本にあるのは"縁起"というもので、あらゆるものは縁というものでつながっており、この一コの自分というもの、それだけで成り立っているのではない、だから真我という独立した、特別な存在というものは無い、ということになるのです。
勿論、この肉体の奥に霊体だとか幽体だとかがあり、肉体は死んで滅んでもそれらは生き続ける、というようなことは何も言っていないのです。
ということは、"輪廻転生の教えは仏教の十八番だi"、などとこれ又先入観を持っていたことについても否定的だった...。
といって、私はここで本当の仏陀の教えについて講釈するつもりはありません。何が真実なのかについても、私に分かろうはずなどないではありませんか?
ここでは、ただ私自身が感じたままを少しく、ざっくりと述べてみたいと思うのです。(それが真実か妄言かは読者にゆだねられよう...)
で、強く感じたことは、全く"如是我聞"、仏陀の仰せのとおりに感じたのでした。
そう、一コの自分というものは無い、だけど非二元論者が説く、全体しかない、という風には感じられません。
関係性というか、フラクタルな有機体の無限のつながりが感じられる...私という個人はいない、ということは、"それから切り離された私はいない"、というニュアンスなのです。(そして前にも書いたように、私は肉体と別の"体"というものの存在を感じたことはありません)
これは、こういう空間的なことにも、時間的なことについても言えることで、永遠の命のつながりというか、この私個人の命が永遠のものだったり、輪廻するとかというよりも、それに連なっていることにおいて、そのことを強く感じられるのです。
これは単なる血統というものにとどまらず、より強くは"霊統"ともいうべき縁のことを覚えさせられたのですが、そもそもはそれなくしてはこういうことに触れることは出来ないであろうものなのです。
以上の通りで、今やスピ界では当たり前のように語られる、真我なんてものは無いのだi
...なーんてことどうして決めつけられようか、ってんですi
"真我とは?"、と聞かれてもこのような次第で答えられません。その実体など見たこともありません。
だけど、そういうものは否定しようもなく、感じられたのも確かなことなのです。それは一コの私だけでは存在しない、という幻想から覚めさせられたところからくるのかもしれません。
言い換えると、本当の私とは、"つながりにおいてある私"だった、ということになるでしょうか?
でも、私はこのことを"唯一絶対の真理だ!"、などと、定言、公言しようものなら、その大いなるつながりから切り離されてしまうのは、自明のことでしょう。
仏陀が真我や輪廻転生などについて、否定的だったことの真意はここにこそ求められるのではないでしょうか?
其々が確証、自内証出来ないこと、定見、偏見に結び付くことには否定的だった、ということです。
そういうことから自由でなければ、悟りの道は開かれない、いやそういうものから解かれることを抜きに、そもそも解脱というものは無いのでしょう...。
例えば、悟りというものは、人の内なる仏性を表すもので、それを備えているものこそ真我というものだとか...
ところが、仏陀自身は、それまでインドで広く、伝統的に伝えられてきたその真我ーアートマンと言われるものについて、どちらかというと否定的なことを述べていたのです。
仏陀の教えの根本にあるのは"縁起"というもので、あらゆるものは縁というものでつながっており、この一コの自分というもの、それだけで成り立っているのではない、だから真我という独立した、特別な存在というものは無い、ということになるのです。
勿論、この肉体の奥に霊体だとか幽体だとかがあり、肉体は死んで滅んでもそれらは生き続ける、というようなことは何も言っていないのです。
ということは、"輪廻転生の教えは仏教の十八番だi"、などとこれ又先入観を持っていたことについても否定的だった...。
といって、私はここで本当の仏陀の教えについて講釈するつもりはありません。何が真実なのかについても、私に分かろうはずなどないではありませんか?
ここでは、ただ私自身が感じたままを少しく、ざっくりと述べてみたいと思うのです。(それが真実か妄言かは読者にゆだねられよう...)
で、強く感じたことは、全く"如是我聞"、仏陀の仰せのとおりに感じたのでした。
そう、一コの自分というものは無い、だけど非二元論者が説く、全体しかない、という風には感じられません。
関係性というか、フラクタルな有機体の無限のつながりが感じられる...私という個人はいない、ということは、"それから切り離された私はいない"、というニュアンスなのです。(そして前にも書いたように、私は肉体と別の"体"というものの存在を感じたことはありません)
これは、こういう空間的なことにも、時間的なことについても言えることで、永遠の命のつながりというか、この私個人の命が永遠のものだったり、輪廻するとかというよりも、それに連なっていることにおいて、そのことを強く感じられるのです。
これは単なる血統というものにとどまらず、より強くは"霊統"ともいうべき縁のことを覚えさせられたのですが、そもそもはそれなくしてはこういうことに触れることは出来ないであろうものなのです。
以上の通りで、今やスピ界では当たり前のように語られる、真我なんてものは無いのだi
...なーんてことどうして決めつけられようか、ってんですi
"真我とは?"、と聞かれてもこのような次第で答えられません。その実体など見たこともありません。
だけど、そういうものは否定しようもなく、感じられたのも確かなことなのです。それは一コの私だけでは存在しない、という幻想から覚めさせられたところからくるのかもしれません。
言い換えると、本当の私とは、"つながりにおいてある私"だった、ということになるでしょうか?
でも、私はこのことを"唯一絶対の真理だ!"、などと、定言、公言しようものなら、その大いなるつながりから切り離されてしまうのは、自明のことでしょう。
仏陀が真我や輪廻転生などについて、否定的だったことの真意はここにこそ求められるのではないでしょうか?
其々が確証、自内証出来ないこと、定見、偏見に結び付くことには否定的だった、ということです。
そういうことから自由でなければ、悟りの道は開かれない、いやそういうものから解かれることを抜きに、そもそも解脱というものは無いのでしょう...。