人間には思いのクセというものがありますね。
これは其々の、ということじゃなくて、多くの人に共通したものなのでしょうが、例えば何か不調和な、怒りとかHなこととか、又そんなこんなで、誰かに何か言われたとかで、いつまでもクヨクヨしてたりしたら、"そういう思いは出してはイケナイ、変えないとならない..."とか思うんじゃないでしょうか?
そして一角、宗教、スピなどをかじっている人だったら、"思いというものは出たら消える"ってことを知っていて、実際にそういうことを体感してる訳でもないのに、"ああ、これで消えた、消えた、前世の業想念はこれで軽くなったんだi"、とか思おう、信じようとするんじゃないですか?
一体、前世の業のことなど誰が知り得ようか?
しかし、思いが本当に消えたのかどうかはともかく、意識を神に向ければ(これは意識的になるということと"ほぼ"同じことであり、現臨にあるということと"ほぼ"同じでもあります)、思いの絡みから解かれる、離れられる、思いが消えたように感じる、これは具体的に、テキメンに感じることなのです。
これは、私自身がいつも"悪い"思いを出してたり、いつまでもクヨクヨしていたり、思念に囚われる人間だからこそ、テキメンに分かることなのです。
このことは、"ハッキリさせなければならないi"、と私がいつも意識していることです。
そうでないと、思いを超えるという、その"際"というものが曖昧なものになってしまうからです。
思いを超えた現臨にある、という事態のことが、思い描かれ、信じること、自分の信念だとかのことで誤魔化され、それに取って代わってしまってはならないのです。
五井先生が伝えていた、"思いは消えてゆく"ということをある種の観法にしたものをやり続けていることで、かえって苦悩を背負いこんでしまった、という話もよく聞くのですが、これはどっかでその行が思念に取り込まれてしまっていることに要因があると思われます。
思いを超えたものにあって、苦しくなるってことはあり得ないことなのです。
そこにある一つの方法、メソッドとして伝えることの難しさがあるのでしょう。
だからですね、私はここで、こういう独自の...って、独自もヘチマも、私には信仰もメソッドも無いんですってばi 私じゃなくて、すべてあの御方に帰されることばかりなのです。
世の中の人は思いのクセで、そういう風に捉えるのでしょうけど...このことはハッキリさせなければならないi
あのね、言うまでもないことですけど、この"方法無き方法"に従ったからといって、いつもいつも思いのガンジガラメから解放されるとは限らないし、現臨が臨むとも限らないのですよ。
そうならなければ、ならないでしょうがないことなのです。私の思いではどうしようもないことなのだから...
多くの人は思いのクセで、"こうすれば必ずこうなる"って、100%ウソの情報に飛びついちゃうものなのでしょうが、だから思いの堂々巡りを繰り返しているのでしょう?
私はもう、自分じゃどうしようもないから、ポカンと天を仰いでるっきゃ、ノウが無いんでしょう...。
すると、みるみる思いの雲が離れゆくではないかi
私がいつも書いていることは、こういう人間の思いのクセを突いていることが多いようなのです。
これは其々の、ということじゃなくて、多くの人に共通したものなのでしょうが、例えば何か不調和な、怒りとかHなこととか、又そんなこんなで、誰かに何か言われたとかで、いつまでもクヨクヨしてたりしたら、"そういう思いは出してはイケナイ、変えないとならない..."とか思うんじゃないでしょうか?
そして一角、宗教、スピなどをかじっている人だったら、"思いというものは出たら消える"ってことを知っていて、実際にそういうことを体感してる訳でもないのに、"ああ、これで消えた、消えた、前世の業想念はこれで軽くなったんだi"、とか思おう、信じようとするんじゃないですか?
一体、前世の業のことなど誰が知り得ようか?
しかし、思いが本当に消えたのかどうかはともかく、意識を神に向ければ(これは意識的になるということと"ほぼ"同じことであり、現臨にあるということと"ほぼ"同じでもあります)、思いの絡みから解かれる、離れられる、思いが消えたように感じる、これは具体的に、テキメンに感じることなのです。
これは、私自身がいつも"悪い"思いを出してたり、いつまでもクヨクヨしていたり、思念に囚われる人間だからこそ、テキメンに分かることなのです。
このことは、"ハッキリさせなければならないi"、と私がいつも意識していることです。
そうでないと、思いを超えるという、その"際"というものが曖昧なものになってしまうからです。
思いを超えた現臨にある、という事態のことが、思い描かれ、信じること、自分の信念だとかのことで誤魔化され、それに取って代わってしまってはならないのです。
五井先生が伝えていた、"思いは消えてゆく"ということをある種の観法にしたものをやり続けていることで、かえって苦悩を背負いこんでしまった、という話もよく聞くのですが、これはどっかでその行が思念に取り込まれてしまっていることに要因があると思われます。
思いを超えたものにあって、苦しくなるってことはあり得ないことなのです。
そこにある一つの方法、メソッドとして伝えることの難しさがあるのでしょう。
だからですね、私はここで、こういう独自の...って、独自もヘチマも、私には信仰もメソッドも無いんですってばi 私じゃなくて、すべてあの御方に帰されることばかりなのです。
世の中の人は思いのクセで、そういう風に捉えるのでしょうけど...このことはハッキリさせなければならないi
あのね、言うまでもないことですけど、この"方法無き方法"に従ったからといって、いつもいつも思いのガンジガラメから解放されるとは限らないし、現臨が臨むとも限らないのですよ。
そうならなければ、ならないでしょうがないことなのです。私の思いではどうしようもないことなのだから...
多くの人は思いのクセで、"こうすれば必ずこうなる"って、100%ウソの情報に飛びついちゃうものなのでしょうが、だから思いの堂々巡りを繰り返しているのでしょう?
私はもう、自分じゃどうしようもないから、ポカンと天を仰いでるっきゃ、ノウが無いんでしょう...。
すると、みるみる思いの雲が離れゆくではないかi
私がいつも書いていることは、こういう人間の思いのクセを突いていることが多いようなのです。