人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

裏があって表がある

2020-12-02 11:37:29 | 雑感
"人生の裏側に踏み入れると、そこには今生では味わえないような愛、歓喜、真理があったi"
...なーんてことを書いたりしていますけど、私は、"その裏側のみに真実があって、表側(即ち見たまま、思われたままの世界)は幻想なのである"、なんてことを主張するつもりはありません。
ブログを始めた当初こそ、ノンデュリアリティにカブレかかってて、そういうことも書いたかもしれませんが、ただ、あまりにもこれまでが、その非日常的な、見えない裏側の領域のことを、"そんなものは無いi"と決めつけたり、蔑ろにされ過ぎていた、ということを言いたいのです。
幻想性というのは、そういう"どっちかしかないi、これしかないi"、と偏り、固執してしまう在り方にこそ求められるべきでしょう。
大体、私が初めて裏側に足を踏み入れてしまったのは、瞑想修行中でも何でもない、"就業"中のことであり、大阪の雑踏のど真ん中という、そんなことになるとは想像も付かない、あらゆる俗っぽいものが集約されている"聖地"で起きたことだったのです。
裏側の世界というのは、もしそれだけを切り取ってしまえば、おそらく表側から見れば事実上、この世の在り方の死を意味することと思われます。
たとえ、生理学的な死に至ることは無くとも、それまでどおり現世で生きてきた、あらゆる機能はおそらく失ってしまう、つまり死に等しいことになってしまうことでしょう。
肝心なことは、あれが起きた時"私の目はまだ黒かったi"、ということです。
その時実感した、"愛、自由、普遍性、リアリティ"といったことは、それまでの現世で体験されてきたことを抜きにしては、味わえなかったと言えるのです。
どうしても説明上、表側や裏側があり、超現実ともいうべき世界があり、現実世界がある、と表してしまうのですが、私には実際はそれらが相即しているように感じられたのです。
肉体がある、それに対応した霊体がある...というものは、私は感じたことありませんが、形あるもの、見えるものは、形なきもの、見えないものと切り離されて在るのでは無いi...と言い切ったりして...
もっと言い切りたいことは、あの今生では味わえない至福というものは、誰しもが今生で与ることが出来るということですi
私がここでそう言っているではないかi...あれはね、"今生だけだったら"...という含みでそう言っているだけなんです。
神の愛は見えるものも、見えないものも、生も死も貫いているのですi...と私は言い切りたいi
だって、それは、何人にとっても絶対的にいいことなのではないのかi
相対的なことは、きっと絶対的なことがあって、そう言えるのでしょう。誰にとっても?...
コメント
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