人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人は皆霊感者

2020-12-22 11:24:10 | スピリチュアル?
自覚していることではありますが、私はいつも随分と独り善がりなことを言っているように思います。
"意識を何かに向けると、何か目に見えないものが臨み、それにあることで愛、平安、リアリティに導かれる"、とか...
私自身はそう思ってないのですが、人によってはそういうのを霊感ととってしまう人も居るでしょう。ま、霊なるものを感じるのだから、ある意味そうなのかも分かりません。
実に主観的なことを言っているのは確かなことです。だから皆さんにそのことを分かって、信じて貰おうとは思っていませんし、簡単にそうはなりゃしないでしょう?...又、そうあっちゃならないi
人はどう思おうが、私は霊能者じゃないのですi...そんなんにゃなりたくないのですi
一寸前、全くそういう関連の集まりでなかったのですが、"誰かが亡くなった"、という話からある人が「私には死んだ人の声が聞こえるのですi」と唐突に話し出したのです。
すると、暗示にかかったように「あら、そうなのi」と、それに追従する人が出てきます。この人はフツーの人ですが、死後の世界を熱烈に信じているようです。
ここに、自分の話を信じて貰いたい人と、人の話を信じちゃう人との需給関係が成立する訳ですが、得てしてそこから主従の関係へと発展し勝ちになります。
人の心をコントロールしようとする霊能者と、それに依存する信者...私は何度かそうした関係に接して来ましたが、宗教、スピなどの関わりで、これほど嫌悪感を催させるものはありません。そこに自立した一人の人間を見い出すことが出来ません。
そうした関係の多くにはある重要な、謂わば"核"ともいうべきものを欠いているように思えてならないのです。
核とは、確信を感じさせる何かのことであり、そこでは何処にも根差していない、浮いた言葉ばかりが取り交わされるばかりなのです。
つまりはリアリティが感じられない、ということ。
常人には見えず、聞こえず、感じないことを話さなければ、リアリティというもののみか、愛、平安などのことにも導かれないのでしょうか?
かえって、そのことから人間実存のリアリティから切り離されてしまうことになるでしょう。
それとも、こういう哲学めいた言葉も浮いたもののように感じられるでしょうか?
言い訳がましいですが、これは言葉で言い表せないことを言っているので、そう感じてしまうのは致し方ありません。私の力不足なのでしょう。
でも...現臨だとか、ややこしい表現はさておき、あなたの人生で僅かなりとも、"愛、平安、リアリティ"というものを感じたことはありませんか?
そうでなくても、そういうものに与りたいと思ったことはありませんか?(今、思っている?)
だとしたら、それは死後の世界のことを借り、空想しなくとも、この現実世界で求められるものに違いありません。
リアリティというのはこの現実、現実感覚から遊離しないもののことを言っているのです。
(う~ん、死後の世界というものがあれば、そこにも現実感覚というものがあるかもしれませんね。もし、そういう話の中で、"愛、平安、リアリティ"、というものを伝えているのであれば、それはホンモノの霊感者でしょう。霊なるものとは思念のことじゃないのですから...)
誰しもが希求してやまないもの...その内奥にずっと息づいているもの...だから"現"に感じられるのです(こういうのが現臨というものなのですって...)もし、私が霊感者だとしたら、世の中に霊感者でない人など居ないはずでしょう?
信じて貰いたいとは思わないですが、共感して頂ければいいな、との思いでいつも独り善がりなこと書いている次第なのです。
そう、言いたいことは共感することと、追従することは全く違うということなのでした...。
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主の時

2020-12-20 08:39:24 | 詩的文章
瞑想する時間、祈りの時間
僕らの時が来た...
毎日の日課
今までも、この先も...
この繰り返しが大事なんだとか...
段々何かに到達するんだとか...
僕らの時...

そこに主の時は来たのだろうか?
主はどこに...
それで一体何が始まるというのか?
何が開かれるというのか?
今まで? この先?
主の時にあったことなど一度だってあっただろうか?
果たしてそれは来るのだろうか?
毎日毎日繰り返しているだけだというのに...
機械人形のように...
一体僕らは何処に向かっているというのか?

ああ、主よ...
僕はあなたの時を迎えられませんi
この次があると思っているから...
僕はあなたに向けられない
その僕をしっかり受け止めて下さいi
この今に...

主の時にこの次はない...
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本を一冊読んだ頃

2020-12-19 10:46:00 | 回想
人間には誰しも知識欲ってものがありますね。
私は、ここでそうした頭でっかちの、知識ばかりに偏向した在り方に対し、随分批判的なことを書いてきたように思います。
とはいえ、自分で言うのもオカシイのですが、スピ関連でも読書量も半端ないし、相当な知識を持っている方だと思いますよ。何の役に立つんだか知りませんが...
しかしそんな私が大学3、4年くらい前まで、本など丸一冊読んだこと無いってんだから分からない...もし、小さい頃から本の虫だったら今頃は大学教授になってたかもしれません(笑)
それが、モーレツに知識欲が沸いてきて、読書をするようになった切っ掛けは、当時入っていた宗教教団の内紛とかがあったりして、信仰がグラツイたためです。
私はそれまでその教団の教え以外に真理は無いのだ、と思い込まされていたのです。その心根には恐怖が張り付いていたのですが、その私の暗黒時代に光が差し込み、啓蒙的、人文的な空気が漂い始めたという訳です。(それまでの私は、どうも別人だったように思えるのですが...)
といっても初めは、そんなに沢山の本を読んでた訳でもなく、J.チャーチワードのムー大陸もの、E.V.デニケンの宇宙考古学ものくらいしか思い付かないのですが、それでもにわかに視野が広がった感じがしたものです。
それと共に徐々に自覚し初めたのが自由感というものです。これはホントに、ホントーに得難いものだi...何かのドグマの観念の奴隷になりたがるヤツの気が知れませんi...今だからエラそうに言ってるんですけどね...
ところで、私はそれら異端考古学にハマってたかというと、そんなことはなく、数ヶ月でその古代人や宇宙人などの生活のベースになっていたであろう、宗教的な道に傾くのは、もう誰かの予言通りのことなのでした。
それが五井先生の著書との出会いであり、それはこの読書への関心抜きにはあり得ず、そのことでいっそう読書熱に火がつき、精神的な道を探求する契機となったのです。
そして私の本格的なルネッサンス時代はここから開かれたのでしたi...といってもそれは一年ぐらいしか続かなかったのですが...
所謂神秘的なこと...霊界とか、神の実在、超能力や前世、未来予言のことなど、私の回りにもそういう神秘的な実体験を語る者もおりましたが、ある時から全くそういうものが色褪せて感じるようになったのです。
そういうものは全て人伝に聞かされたもの、知識として理解したつもりになっているものばかりではないか?...
そして又、そういう霊感的な人間の、巧みに人心を操作するような心的傾向も知覚するようになりました。"いつまでもこういう処に留まっていてはならないi"
そうした否定的な思いもあったためか、自分自身が霊感的な道を求めるという方にも赴きませんでした。
そんな時過らされたことは、その間五井先生や手島先生の書き物を読んで、思わず涙が溢れ出てきたことだったのです。
"人伝に聞いたことにはリアリティが何も感じられない、頭脳知を超えた、リアルなものとはああいうものではなかったか?"
これはその後もずっと私の中で息づいているものなのですが、そうした縁に恵まれたことも、知識を読書に求めることが端緒になっていたのも確かなことです。
私にはとにかく狭い観念地獄から抜け出すことが先決だったのです。それには知識を外に、広く持つという姿勢が役に立ったということです。
知識を求めること自体勿論悪いことじゃありません。それだけを詰め込んだり、外からのものばかりに振り回されてたってしょうがないと言っているのです。
要はいつも意識を開かれた状態にしておくことが肝心な訳ですが、自分がそこで不自由で、苦しいと感じなければ何も開かれないことは言うまでも無いでしょう。

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確かなことは...

2020-12-18 10:45:56 | 雑感
"勝負の三週間"が過ぎた途端、感染者数は倍増、最多数を更新中i
イヤ、全くこのコロナ禍は、人知をあざ笑うかのように猛威を振るう一方です。
というか、人知を超えたものについては、人間は場当たり的な行動を取るっきゃないってことをマザマザと知らしめられているようです。
これはですね、神が人類が目覚めるためにそう仕組んだんですよ。神がコロナを操っているんです。それが神の御心なんです。
...って、そんなこたアタシャ知りませんi
巷では、特にスピ界隈では色々言われているようですけど、どうしてそんなこと直接確かめられるんですか?
その他、天災や戦争など、大きな災難に見舞われることで、ちょっと信仰ごとに関わった人なんかは、神への信仰は揺らぎ、不信感を持ってしまう人も多いことでしょう。
これは、"神というものは、全知全能であり、全ては神の意志通りに動いている"、ということが心根に強く刷り込まれているためでしょう。
ということは、これも数多ある神信仰と同じで、"人間がそう言っている"信仰の一つとも言えるのです。
この信仰には、神が人間にその意志に従わせるために試練を与えている、という教条が付きものなのですが、確かに個人の上にも不幸災難がある気付き、目覚め、救われの契機となることは私の経験でもあることです。
だけど、人によってそのことでもっと悲惨な結果がもたらされる場合もあるのです。ま、人の運命のことは簡単には与り知れないものがありますが...
そしてこれ又、私の経験では、そういう試練など無くても、気付き、救われに導かれることだってあるのです。
要するに意識が神的なものに向かわされ、つながりさえすればいいってことなのです。
上のことは、多くの場合、色々なことに意識が囚われていて、中々そういう契機が生まれないということを言っているのでしょう。この意味で神が試練を与えるってこともあるかもしれません。確かなことは分かりませんが...
全く、確かなことは(それが本当に神から来るのか、どうかはさておき)、神的な愛に捉えられることは、"ああだろうか、こうだろうか、ああ言われてたり、こう言われてたり"なんてもんじゃなく、疑いようのない感覚のものであり、確信に導かれる、ということなのです。
たとえ、現状がどんなに人が不幸に思われていることになってようと、それで幸福でない訳など無いのですi
又々、私の経験でもこれはよくあることなのですが、そういうことに導かれて、微熱など風邪の症状が長いこと続くとか、健康を損なうことになったりすることもあるのです。
だけど、そうした表層の状態の奥にずっと愛、平安といったものが息づいているのが感じられて、その状態にあまり囚われてなくなってしまい、そういうものも一連の恵みに依るものという感じがしてくるものです。
私が初めて著しい爆発的な目覚めに与った時などは、それまで強い発熱、頭痛に見舞われていた(これをクンダリーニの上昇とかと結びつける向きもある)のですが、もう、そういう苦しみなどは、想像を超えた歓喜によって追いやられてしまったのでした。
私が神的なことについて、直接知り得ることというのはこういうもの(イヤ、全て直接知り得るものはこういうものしかない、というべきか?)で、その他のあれこれのことは不確かなものなので、想像するしかないのです。
神は本当に全知全能なのか、どうかは私は知りませんが、少なくとも神の愛というものは、私のすべての生の根本であり、オールマイティなものであるのは確かなことなのです。
神的なものについての、確かなことと不確かなことは、混同しないでハッキリさせることが、他人事でない、私とあなたの人生に大きな意味を持つことでしょう。

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神のものは神に...

2020-12-15 12:12:31 | 
最近の私はいつも神の愛について書かされておりますが、宗教信者というのは、神を恐れている人がとても多いんですね。
特にクリスチャンなんかは、口では"神は愛です"などと言っておりながら、内心は神の裁きなんかを恐れてて、分裂しない方がおかしく思えてくるほどです。
罪の裁き、地獄に落とされる...恐れから信仰と関わっている...又信仰と関わったがために恐怖のトリコになってしまう...神を恐怖の対象にしてしまっては誰も救われないし、精神的目覚め、本心が開かれることもないでしょう。
これ、私自身がかつてそういう信者だったから言えるのです。
宗教には狂信というものが付きものですが、"この教えに従わないと救われないi"、という宗我根性も恐れから来るのは言うまでもありません。
私の経験では、一度こうした観念に呪縛されると、自分の力でそこから脱出するのは困難になります。
よしんば、その信奉する教団の在り方に疑問を感じ、信仰がグラツくことはあっても、"辞めたら救われなくなる、バチが当たる"といった観念が根強く心根に張り付いていて、中々離教に踏み切れなかったりするのです。余程の勇気、意志力が必要なのです。
私の場合、数人の人のアドバイスによって、そのハードルを越えることが出来たのですが、それは別の教団の青年部の人たちなのでした(笑)...五井先生の白光会の人たちだったのですが、たとえ、それが浅い観念的理解によるものだとしても、"神はバチを当てなどしない、いつも愛し、守って下さるもの"、という教えに触れたことは、返す返すも大きいことだったのですi 
さらにそれで忘れてはならないのは、"自分を愛し、信じる"ことです。
何故恐れを、特に神を恐れてしまうのか? それはこの自己信頼の欠如からということに尽きるでしょう。ここから教団や教祖への依存信仰が助長され、恐れも強固になります。
この心根に横たわる自らを閉ざしてしまう、罪の意識...これも私自身の力では克服することは出来なかったし、これだけはおそらく他の何人の力によっても不可能だったでしょう。神御自らによらずば...
どんな宗教、教師に帰依しても、それがいつ本来の在り方から逸脱し、変質するとも限りません。どうしてもこのものがモノを言わねばならないでしょう。
それが私が"見えない導き"と呼んでいる、人の思いを超えた力、即ち神直々の力ですi
"生まれて初めて神に捉えられたi...人伝に聞いた神でも、自分の観念で信じている神でもない、いやこれは神なのか、悪魔なのか?...ハッキリ示されていることは抵抗しようとしても、どうにもこうにも、そのまっ中心に惹き付けられてしまう...それはそのもののまっ中心なのか、私のなのか...こうして自ずからそれに赴かされるものは...愛なのだi
神の愛、これは全く驚きだi...神は私が、人間が信じ、考えていることの全くの裏返しだった...そしてあれほどまでに呪縛されていた神への恐れ、罪の意識が解かれたi"
長年私の精神を苛み続けた神への恐れ、罪意識からの解放、精神的目覚め、自己の開示...これは全て同時に起きたことだったのですi つまり、それはオールマイティなのです。人間が考えたような、何段階もの階段など登った試しなどありませんi
神信仰においてもっとも残念なことは、その信仰生活によってかえって精神に苦難を抱えてしまい、その宗教の在り方の問題に帰されるべきものを、神そのもののことと結び付けて受け取ってしまうことでしょう。
"神のものは神に、宗教のものは宗教に返せi"
コ難しい理屈は要らないi どうか、あなたが直接神にぶつかって、直接そこで何かを示され、与るまで、神のことを分かったようなこと言って、決めつけないで下さいi そしてこれほど自分自身の問題と相即したものは無いのです。
もし、あなたが本当に死にたいほど苦しいのなら、他人事でなく、あなたの神を求め、叫べばいいi
このことを私は神かけて叫びたいi
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