人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

天使の知らないこと

2021-12-21 12:13:59 | 創作
僕は夢の中で天使と出会った...
僕は死を間際にしていて、"きっと、僕みたいな人間は死んだら地獄に行くんだろう?"、と思って恐怖と戦っている時、ふと彼は舞い降りて、話しかけて来たのだった。

「死は恐くないよ、一体何を恐れているのかね?」
「僕は死んだら地獄へ行くんでしょう?...あなたは知っているはずだ、僕がどんなに悪くて、ダメでどうしようもない人間だということをi」
「君がいつもそんなことばっかり考えてる、どうしようもない人間なのは分かるが...私は地獄なんてところは勿論行ったことないし、知らんのだよi」
「えっ、あなたはすべてをご存じの神の代理のような方なのでしょう?、何故分からないのですか?」
「現実に知らないから、分からない、と言ったまでだ...君と同じようにね...」
「じゃあ、人間は死んだら天国にしか行かないって訳?」
「地獄が分からないと、天国って訳か...地獄のことを君は色々想像して恐がってるみたいだけど、天国のことも色々想像しているのか?、まあ、楽しけりゃいいんだろうけど...」
「そりゃ、そうだけど、今は現実に死を前にすると、地獄の恐怖が迫ってきて、いたたまれなくなっているんじゃないかi」
「だから、君は何故私がここに来ているか、ということがまるで分かってないんだi、どうしようもない!...君は私の知らない、地獄のことをそんなに知りたいのか?、地獄に行きたいのか?...ええっ、どうなんだi...くそっ、とっとと地獄へ落ちやがれ、だi(天使にあるまじきお言葉i)」
「じゃ、地獄というのは、僕の想像の産物だということですか?」
「想像の産物?i...しかし、君が今、恐れを感じているのは、想像上のことじゃないんだろう?...それは地獄的な思い、想像に過ぎないものが固着してその思いに囚われてしまう...それを地獄と言ってもいいかもしれない...さらにそれは神がそうさせていると思い込むことで、ますますその地獄的想念は強固となり、そこから離れることが難しくなってしまう...」
「神がさせているんじゃないんですか?」
「知らんi...だから言ったろうi、私は知らないんだってi...きっと神も知らんのだろう...想像も、創造も出来ないだろう...人間以外のすべての生き物に出来ないことが、人間には出来るらしい...勝手に想像して、あたかもあるかのような世界を作り出して、勝手にそこに落ちて行くんだi」
「神はどうしてそこから救ってくれないんですか?」
「バカを言うなi、神がその苦境に加担していると信じてるくせにi...それが永遠の地獄を作り出すんだi」
「地獄っていうのは、神も天使も知らない世界なのか?...」
「そう、人間にだけは神の無い世界を作る自由がある」
「自由?」
「しかし、その行き着く先は、全き不自由な世界~地獄だi...で、どうなんだ、その地獄の思いから自由になりたいのだろう?」
「自由になりたいよi、けど、神も恐ろしい...神が永遠に支配している世界からも自由になりたいよi」
「神の支配?...どうしてそう色々囚われたがるんだ君はi...支配、何かのシステムみたいなもの...君の世界のことからどうしても離れられないらしいね。それこそ地獄みたいだi...私は、何かの命令でここに来ている訳じゃないのだが...」
「じゃあ、何故?」
「それは君が今、言ったことだよi、地獄も、恐ろしい神も、諸々の重い思いから自由になる...それを分かち合いにだよi...君のその、何かに支配されたような頭に向けて、こう言いたいね、神とは自由だi」
「どうしたら自由になれる?」
「ホント~に君は何も分かってないんだなあ...何で私がここに居るのか...知りたければこの魔法の鏡を見ろi」
「ああ~っi...」

すると、あっという間に天使は消えて私と一つになったか、と思うと...
すべての思いも消えて、すべての恐れ、トラワレからも解放され、眠りについたのだった...
僕は死んだのだろうか?
いや...目覚めたのだi
それは夢の中で眠りにつく前と同じだった...
愛と平安に包まれていた...
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神のハンマー

2021-12-19 10:00:05 | 
いつも言うように神が何であるかは分かりません。
だから、神についての分かったようなことは言えないはずなのです。
それらはすべて空想、妄想、タワゴトに過ぎないのです。
もしかして、神について分かっているらしい他人が言っていることは、真実かもしれませんが、あなたが真実を知らなければ同じことです。
私は?...勿論真実を知っていますよi
"神のことは何も分からないi"...(言ったでしょi)
分かったようなことを言う人間は、神は我々に直接働きかけることもないし、我々を救うこともない、などと耽り顔で言ったりします。
そういうものに出くわしちゃったらどうするんでしょうか?
勿論、それが神のなせるものなのかどうかは分かりませんよ。しかし、少なくともそれは、自分の思いを超えたところからもたらされる、ということは示される...これを神的なものと言っているのです。
要するに、自分がすべて、自分が思っているものだけがすべてと、"思っている"人間は、こういうことは全く分からないということですi
小池先生は、"人生を決定的に分かつこと、人生の分岐点は、絶対者に対し、自分が砕かれるか、どうかということにある"、と言われました。
私はその言葉に接した時から意識から離れられなくなりました。
"そんなことがあるのだろうか?、真実かどうかは分からないi...しかし、現実に私の意識はそこに捉えられてしまったではないかi"
私は、心の奥で、この思われたままの、思いに閉ざされたままの自分ではたまらないi、自分を突破出来るもの、思いを超えたものを待ち望んでいたのです。
そこに上よりこの頑なな、岩のような心を砕くものがあることを示されたのです。
私は、これを神のハンマーと呼んでいます。あなたはこれをお望みだろうか?
分かっていることはそれを受けた時、あなたの思考はストップするということです。
自分が思っているものだけがすべてと思っている人間は、多分...その時、あなたの人生も、世界も終わることでしょう。(そこから先のことは知りません)
それに狂わんばかりの恐怖を感じるだろうか?
神のハンマーは、地獄の裁き以外の何ものでもないと思われますか?
神、キリストを信じない者には、永遠の地獄が待ち受けている、という自称キリスト教徒たちの脅し文句が聞こえて来るだろうか?
私は、地獄の業火で焼かれる人間の運命のことなど知りませんi
少なくとも、私には何も知らされていないi、知る必要もありません。
私に知らされたことは、神のハンマーを受けるということは、神的な愛が私が思っていたすべてを打ち砕くということしかありません。
私のすべて。...私が思っているものがすべてでは無かったi
お分かりかと思いますが、神のハンマーについて、それが神の裁きと映るか、愛と映るか...受けるものは同じだということです。
これは、私が受ける前に感じていたことと、実際に受けて感じたことを言っているまでですi
あなたは神のハンマーをお望みですか?
もし、本当に望んでいるのなら、救われることを望んでいるのでしょう。それは少なくとも苦しみを感じているということでしょう。
しかし、神が人を救うかどうかなど考えたって分かりません。考えてたって何一つ分からないのですi
神に人を救う意志が無かったとしても、我々に直に働きたもうこと自体が救いなのではないか?
このことが分からない人間は、本当に、ホント~に...度し難いi
あなたがそこで何を感じ、何を受け入れるかは私は知りませんi
それは全くもって、あなたの神から知らされるべきものなのですから...
神のハンマーを受けるまでは何一つ知らされないでしょう。
だから...神についての分かったようなゴタクは...すべて黙るしかないのですi
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単純なキリスト教

2021-12-18 10:06:16 | キリスト教関連
世界の主要な宗教の中で、キリスト教ほどヤヤコシイものはないと思います。
"イエスを神の子、救世主と信じる、三位一体の教え、十字架の贖罪、聖書の無謬性を信じる..."、このようなキリスト教の一般的な教理を信じないと、キリスト教徒と見なされないようなのです。
誰が決めたのか?...多分、彼らの間でか、彼らの中のエライ人によってでしょう?
その宗派の一つ、フレンド会(クエーカー)には、クリスチャンになりたいのだけど、そうした信仰上のハードルがあって、中々踏み越えられないでいる求道者が結構来られるようで、私も何人かからそうした話を聞いたことがあります。同会はかなり入信の条件が自由だからでしょう。
私は聞いていて、何とも不思議に、一寸イラつく思いにさせられたのでした。"信じたくない、信じられないのなら信じなければいいじゃないか?"...いいや、それじゃクリスチャンじゃなくなる、と言う。...クリスチャンじゃなけりゃどうだと言うのかi、彼らがそう言っているだけのキリスト教などi...
クリスチャンになることはある種のブランドなのでしょうか?...それとも、そうした教えを信じなければ救われないと思っているのでしょうか?
"あなたは、どう思っているのですか?"、と訊かれ、"どうでもいいと思ってますi"、と答えました。(ちゃらんぽらんで悪かったなi)
確かに、私とキリスト教との関わりはフツーじゃありません。
最初に接したのは、手島郁郎先生の原始福音で、何しろ初めて手に取ったキ教関係の本には、"教理など信じたって救われるもんかi"と書いてあった、のですi
そして、"聖霊を受けることによって救われる"、とありました。私は、へえ、そういう"教え"もあるのかな?、と思ったものでしたが、そこに理屈でなしに、惹き付けられるものも感じていました。
勿論手島先生でも、もう少し後になって知った小池辰雄先生でも、聖霊は聖書のキリスト.イエスと結び付けられています。
これは微妙なところで、教理を信じる部分とも抵触してくるところですが、私は聖霊を本当に体受させられることは、すべての思弁的なことは超えられるものだと感じています。
聖霊は、思いを超えたもの、神的な、霊なるものでなくてなんであろうか?i...贖罪ということも、この"聖霊を受けること"の中にあるということは、小池先生も示唆していることです。
実にキリスト教から、諸々の教えを抽象的に信じることを退けたら、こういうことしか残らないのではないですか?
聖霊、形なき命に与ること...これがすべての宗教の根幹的なことではありませんか?
キリスト教は本来、目立った教理も、行法も、儀式もなく、全く単純な在り方を伝えてきたものだったのです。(そもそもキリスト教は自称でなく、他から侮蔑的にそう言われていたi)
霊的生命というものが廃れて、それを補うかのように教理信仰に重きを置くようになっていったのでしょう。
何が第一義のことなのか?...永遠の命に与ることは、キ教がいつも唱えていることですが、紙に書いてあることを信じたって何にもなりません。神に自分を投げ入れなければ...
人からは何教と言われようと、何教でもない、と言われようとどうだっていいじゃありませんか?
しかし、キリスト教徒は勿論、その予備軍?の人からは、"あなたは、クリスチャンではない"、と言われ、アンチ.クリスチャンからは、"あなたは、クリスチャンだ、"と言われる私は一体...?
私はただ在りたいだけですi
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神と一つになること

2021-12-16 12:10:41 | 
私は、人からは神を信じている人間に思われているのかもしれません。
しかし、ホントに神を信じている、と言えるのだろうか?
私も実際に聞いたことありますが、神が見えるのなら信じる、という人も多いのかもしれません。
では、いつも書いていることと逆とも取れるようなことを想像してみようi
目の前に神が現れたi...ちゃんと人間の言葉をしゃべる...自分がどういう存在で、どう人間と関わっているかなどについて語り出した...
私は信じられるだろうか?...わが目を疑うべきじゃないだろうか?...こういう現象的なことだけ取ってみたら、普段神(的なもの)に意識が向かわせられていることと直接つながってきません。
しかし、私は神が仮に現れることもある、ということは信じています。仮にということは絶対視しないということです。そういうところから迷信が生まれるのです。
それでも、その神の顕れが、その言葉が私の意識に何も響かず、自ずと意識が深まり、神がより直に接して来ると同時に、私の実存が開かれる、という感じに導かれないのならば、私はその神を"信じる"ことは出来ません。
要するに、神が見えるかどうかは問題ではないのです。意識的なことに関わること...これはどうしようもないことですi だから信じるも、信じないもないi...信じざるを得ない、受け入れるしかありません。
この意味において神を信じることは、私の実存と一つになることに他なりません。
これは言うまでもなく、観念の域を超えたことなので、信じるという言葉は適切ではないでしょう。
神と一つになること...神が目の前に現れたとして、それと一つになろうなんて意識が動いたりするでしょうか?
いや、逆に意識に火が灯されたら、自ずとそう赴いてしまうでしょう。
信じる対象も、信じている私もなく一つに...
古来から神人合一とか、言葉だけ聞いたらスンゴイことのようだけど、中身がよく分からない表現には、こういう意味合いが隠されているのでしょう。
神と実存とは元々切り離せないものなのです。そうでなければ、ただの拝み信心の迷信、盲信になるだけです。
今の私は、"自分が悟る"、といったことには意識が向かなくなりました。
しかし、神にはどうしても、自ずと向けられてしまいます。それは自己が深まり、広がることと一つのことなのです。
同じことを言い換えているのでは?、という向きもあるかもしれませんが、現実にこの私だけからは、悟ろうといった思いに駆られることはなくなってしまったのですi...そういう促しもありませんi
促されることは、神に向かうこと...これは内奥からのものと、あちらから呼び込まれていることと一つのものなのでしょう。
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僕は本来...

2021-12-14 08:57:32 | 詩的文章
僕は本来不自然な人間だった...
普通に、自然に喜怒哀楽の感情はあったが...
特に喜びを感じた時、素直にそれを表すことが出来なかった...
何故だろう?
幸せなはずなのに...
幸せだと悪いことでもあるのか、なんて...
なんて不自然なんだi
それとも...今の幸せを明日の幸せのためにとっておこうとか...
ふははは...不自然の極みi
"感情を表に出しちゃあ、ダメだよi、人が見てるからi"
"その幸せ、本当にそうなのか?、喜んでていいのか?"
誰が言ってんだろう?
そして、"どうせお前は..."って方に流される
どうせ僕は不自然な人間...
そうさ、分かっているんだi
自然に沸いたことを不自然に変えることが...
楽しい訳が無いじゃないかi
ホントはお前の声なんか聞きたくは無かったんだi
いつも幸せが押し流されてゆく...
こんなはずじゃなかったのに...
こんなはずじゃ...
お前が来るまでは...
だって、僕は本来...
何だったのだろう?...
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