人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超越する実存

2023-08-21 09:56:00 | 哲学・思想
「我は、自己自身を超越し、その内的実存において、他の我、共同的な我、汝、神の世界に出て行くときにのみ自己の実存を実現する。...全ての他の我、汝からの我の孤立は、自己の破滅である」(ベルジャーエフ「孤独と愛と社会」/白水社刊)

ベルジャーエフのこの言葉で、“我“、“汝“とあるのは、ユダヤ系哲学者マルティン.ブーバーの有名な著書「我と汝」を踏襲しているのです。
これらの言葉は、我々の実存と関わらなければ、出て来るはずはありません。
私は今無謀にも、実存という言葉の意味、概念的理解のことなど深く考えないで、こういうことを語っています。
又、乱暴にも私はそれが分からなくても、“我は実存している“、と言ってしまいます。
逆に言おう!...それが分かったからといって、あなたは実存していると言えるだろうか?
実存について、いくら抽象的に考え、何らかの知的結論を得たとしても、“我は実存している“とは言えないでしょう?
考え、思っている私のみからは!...そこから出て行かなければ、超えなければ!...
否、我は、そうせしめるものにあって、かく言うことが出来るのです。
そして、何と多くの人間は、思いを超えたもの、神とは何か?、とこれ又抽象的に考え続ける...“考えたら“こんな滑稽なことは無い!
ベルジャーエフが言うには、我の実存には、超越的人間、超越者の存在が前提となっているという...
それは、言うまでもなく、我と別在しているものでも、形而上学的実体として思い描かれたものでは無いでしょう。
しかし、この思われた私からは、かく超越したものと感ずるしかありません。
多くの人は、通弊の如く、“私は私の思いを超えなければ実存出来ない!“と思念するのかもしれません。
だけど、私がそうであるように、“超える、超えられる“というのは、我々の本性からかくなされるものなのでしょう。だから、超越者が、神が何か?など考えるまでもなく...
このことは、“引きつけてやまないものがある“ことがそれを物語っているのです。
つまり、超えるものにあって、実存していることが我々の自然な有り様なのでしょう。
そして、一個の、思われた自己のみに閉鎖された時、“私は私でなくなる!“、実存を失うしかありません。
閉ざされた自己の状態から超え出ることは、同時に他者との交わりがあることを意味しています。
では、諸々の理由で孤独であることを余儀なくされている者はどうなのか?
私は今形の上では孤独ですが、それを感じてはいません!(都会で暮らして居るからかもしれませんが、いや、孤独、自己疎外を感じている人間の多くは、都会人なのではないか?)
“超越者“との交わりを感じているから!
これは、意識的にならないと感じて来ないでしょう。
私は何か?と考えるのでなしに、ただ“私が在る“ことを意識、感じていたらいいのです!(そう、意識的であることが実存していることとも言えるでしょう)
だから...ああ、もう...あの御方の臨在、迫りを感じてなりませぬ!...
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神と直接経験

2023-08-20 09:46:16 | 求道、探究
私は以前、金井系一郎先生の瞑想会の会員だったことがあります。会員といってもほとんど名ばかりという感じでしたが...
しかし、私は会員になる以前も辞めた後も、先生の提唱される、“一定の形の無い瞑想“(会では“金井メソッド“と呼ばれる)にずっと馴染んでいるのです。ということは、先生の指導を受ける以前から、そうしたものは、私に定着していたということであり、先生もそこは理解されていたようです。
今でも先生からは、啓発されるものを多々感じていますが、どうしても全幅の信頼を寄せるというまでには至らないものを感じてしまうのです。
その理由は、どうも先生は“神を信じていないらしい“、というところにあるようです。
私はね、神を信じない人間は信用してないのですよ!...といって、言葉通りに受け取っては困りますが...
思われた自分だけにしか頼らない、自分を超えたものを認めない...そんな人間は、絶対に実存出来ないでしょう?
少なくとも、宗教、スピ..あらゆる精神的な道において、そんな人間は皆無と言ってもいいでしょう。
ブッダは、自分を超えた、神や霊的存在というものを認めなかったという...しかし、それでどうしてあの因果論や思いを断滅する道などが開かれたのでしょうか?
金井先生においては、今はその形無き瞑想の発現元である“元波動“という言葉は、使われていないようですが、これなどは、全く自分の思いを超えたところから来る、という他ないものです。いや、そもそも自分の思いを超えなきゃ、ああいうものは発現しないのですよ!
又、先生のメッセージには随所に、大いなる愛とか、そう...自分を超えたものの消息が語られるのです。
ブッダや金井先生などが、神、霊的存在について語らない理由は、私なりに分かっているつもりです。
それは、精神に観念による想像物、介在物、形而上学的実体、偶像、強固な先入観、固定観念を作り出してしまうからに他なりません。
これあることにより、思いを超えたものからの直接的なハタラキの流入を妨げ、直接経験の、精神的な目覚めの道は塞がれてしまうのです。
要するに、心の中に“想像物“を作らなければいい!...直接的な神、霊なるものに囚われるのでなしに、開かれていたらいいのです。
私はいつも言うように、この思いを超えた、自分を超えたもののことを象徴的に神と呼んでいて、それは直接経験によって知り得るものであるのは言うまでもありません。
囚われさえしなければ、生きたものになります。神、キリスト、如来...何だっていい!...
そこから具体的な、言葉を超えた、親愛といったものが伝わります。
しかし、“あなたを平安に導くものは、あなたが瞑想が深くなったからであって、神じゃないのですよ!“、という言葉からは、どうも私には、何か冷たい、心から信頼出来ないものを感じてしまうのです。(先生からは、どうも感性というよりは、何かとても知的なものを私は感じました)
もっとも、私がその会を辞めたのは、その理由というより、もっと現実的なことなのでした。
お金の余裕が無くなったので、ただ会費が引かれていくだけで、特にメリットな無い地方会員(会は東都が中心で、東京の月例会には、会員は無料で参加出来た)を続ける理由が無いと感じたからなのでした。
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平安と思いを超えたもの

2023-08-18 09:11:45 | 求道、探究
瞑想指導者、金井系一郎先生のメルマガがYouTubeで公開されていますが、少し前「人生の目的」という題で、先生の師である、インドのババジの、「人生の目的は平安を得ることである」という言葉が紹介されていました。
私は“なるほどな“、と思わず頷かざるを得ませんでした。
その理由は、ともするとそれは、真理や愛を得ることと捉えられたりするのでしょうが、平安、安らぎというものには、“オチ“があると感じられるからです。
真理というものには特に言えますが、それは常に探究、追求の思いに駆られるもので、そこに思う、為そうとする自分が落ち着くということが無いかのようです。
だから私は、“完全覚醒“だとか“究極の悟り“などというものは、エゴマインドが作り出す幻想のようにしか感じていないのです。
又、愛というものには(本当には真理にしろ、それは平安と切り離されないものなのでしょうが)、もっとそれを深めようとか、失わないようにしたいという欲求がついて回るものでしょう?(もっとも対象を超えた、本来的な愛というものも“愛にオチる“しかないものを感じますが...)
しかし、安らぎにある状態というのは、安息の境地、つまりマインド、欲求がオチることを意味しているのです。
“人生のゴール“なんてことは、簡単に言えるものじゃないですが(大体、簡単にそういうことを言っちゃうことというのは、そう思っているだけなんだ!)、一応のその結節点が打たれることと言ってもいいでしょう。
具体的に、どういうことでそうなるかというと...自分の思いを超えた、神的なものに捉えられて、思考、能力が後退してしまうことです。こういうことは勿論、自分からはそうなりません。
だから、本当には平安は自分から求めて得られるものじゃなく、神にオチなきゃならないのです!
我々の本当のゴールというものも神のみぞ知ることでしょう?
金井先生の話には、どうも神を信じることは勿論、自分以外にそういうものを置かないようなところがあるようですが、どうしても神という言葉はともかく、自分の思いを超えたもの無しには、自分自身のオチ場所を見い出せないのではないでしょうか?
人生の目的は平安を得ることには違いないでしょうが、少なくとも私には、それは神を求めることと切り離すことは出来ないのです!
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本当の神秘主義?

2023-08-16 09:53:37 | 雑感
私はね、高尚な神秘主義者(いや、“神秘思想家“と言った方がいいかな?)を自認しているのであるからして、低級なオカルト話なんぞ問題にしてないのですよ!
...って、そんなこたあない!...普段そういうことにはあまり触れないけれど、昔からそういう話大好きですよ。
しかし、そういうことを一寸話題(現臨だとかのことは話題にならんやろ?)にしただけで、オカルト.フリークのように見られてしまうのはどうしたものか?...“神秘...“と呼ばれるのはマンザラでもないのだけど...
何度か触れているように、オカルト的なことに批判的に書いたりするのは、それにハマる人らの固定観念で決めつけた言動に対するものであって、そうでなく“ほお、そういう面白い話もあるのか!“というノリで、テレビ「やりすぎ、都市伝説」もなるべく観るようにしてるし、怪談、奇談、オカルトを面白おかしく語る、作家の「加門七海」さんのエッセイとかも大好きです。
要するに、それを信じるか信じないかは私の自由なんです!
しかし、近年さすがにその固定観念を植え付ける(洗脳させる?)意図を感じさせるような本などは生理的に受け付けなくなりました。
又、ホラー、怪談的なことは、加門さんもそうであるように、関わるとマジでコワイ、ヤバイものには近づきません。あの人はセミプロのレベル?で、そういうことに関わっているから、そういう風なことを言っているのです。
そのように、私は、オカルチックなことを一種の娯楽のように楽しんでいる(今、今更の感もありますが、この盆の季節にぴったりのドラマ「陰陽師(ゴロちゃん版)」にハマってます!)のでして、絶対に一線を越えるようなバカな真似はしません!
どこにその線があるかと言うと、言うまでもなく、例えば真偽の分からない陰謀論を真実と固く思い込んで、“皆さん、大変ですよ~“、と外に向けて発信してしまうか、自分の心象に留めておくかどうかということでしょう。
このように、短絡的に信じちゃう人というのは、分からないことを分かったことにしたがる欲求が強いのでしょう。とにかく、それはごく限られた、浅い理解、見識に留まっているということなんです。
で、こういう人は絶対に神秘主義者にはなれないのです!...神秘主義というのは、実に曖昧な、怪しい言葉なのですが、ここで私が自認したくなるほど言いたいことは、単純に神秘なるものを愛好するということ...神秘とは、人智、つまりは自分の人智、思いを超えたものが心象に常に“空地“として広がっているものに他なりません。
分からないことを分かったことにしたら神秘でなくなる!
私は自分の思いの限界を弁えているから、そういうものを受け入れられるのです。自分の思いに取り込んて、決めてかかることとは丸っきり違います。
この意味で私は神を信じています。それは、思いを超えたものを信じ、受け入れることであり、神を分かったかのように思い込み、その思念から抜けることの出来ない、所謂信仰者にはなりたくないのです。
人生は、分からない世界のベールを開こうと追求するのも楽しいけど、分からない故に楽しいのです。
そして本当の幸福というのは、思いを超えたところに求められることも、誰しも感じることではないでしょうか?...
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方法の無い祈りと瞑想

2023-08-14 09:30:24 | 祈りと瞑想
前々回にも触れた“方法無き方法“について、これまで書いたことと重複するかもしれませんが、なるべく具体的に書いてみます。(なるべくと言うのは、方法が無いから具体的に示すことは困難ということです)
まず、“私そのものを意識してみる“。...先にも言った通り、これは実際にそれが出来たかどうかは問題ではありません。そうすることで、この一個なる私だけでない、それを超えたようなものが誘起されるかもしれない?...それがネライに他なりません。
私そのものは、自分がそう思っているものを超えている!
これは、私が昨秋、突如その思いを超えた現臨に開かれる感覚を失ってしまった時、パッと閃いたことだったのです。
肉体の私、精神の私とか考えたり、高次元の私を夢想するので無しに、直ちに直接的に、何の色づけの無い私自身を意識すること...これはもう、現臨にある私が意識されていると言ってもいいでしょう。
そして、現臨はいつどこに開かれるかもしれない!...前々回、方法が無い道は、いつでもどこでも行われる、と言ったのは、具体的にはこれに対応しているのです。
それは、行うという能動的レベルを超えたものとならざるを得ないでしょうが!...
私は度々、この道について“祈り“というものと関連づけて来ました。
それは、どうしても自分を超越した、神的なものを意識せざるを得ないからです。
それは能動的な、通常思われている瞑想を超えた瞑想とも言えるでしょう。
最初からその神的なものが意識出来る方には多くの説明は要らないでしょうが、よりそれを誘起させるには“マントラ“を使ってみるのもいいでしょう。
“何だ、そりゃ能動的にやる、通常思われている瞑想法の一つやんか?“、と思われる方も多いでしょうが、ここで言っているのは、ゴニョゴニョ唱えごとをするというよりも、ある言葉の一念をパッと意識するだけで、パッとそれが開かれるような、形の無いあるもののことなのです。
言葉そのものよりも、その響きにアクセスすると言ってもいいのです。
ちなみに玉城康四郎先生は、ブッダの“自灯明、法灯明“だそうですが、私はズバリ、“現臨“(私がやたらとこの言葉を使いたがるのはこの理由らしい?)、“聖霊“...パッと思い浮かべるだけで、ソクソクと!...
“阿弥陀如来“、“アラー“なりの神名、○○師、○○先生でも、最愛のあなたが意識しやすいものなら何でもいいでしょう。

まだまだ、到底短いスペースでは語り切れないですが、、中にはこれを読んで!、“よーし、私も試してみよう!“なんて人もいるかもしれないので、最後に(最初にいうべきだったかもしれません)...
漠然と思っているだけならともかく、現実に思いを超えた世界にアクセスすることは、精神のバランスを崩すとか、どんな危険が待っているか図り知れないものがあります。
けっして、軽はずみに、ナメてかかってはなりません。
祈りのことにも触れていますが、ここは普通に神的なものの導き(というか、ここで言っていることのほとんどはその主導で行われることなのですが...)を祈ったらいいでしょう。
そうでない、自分の思い、能力を過信したり、妄想癖の直らない、ちと頭の高い人間には...
“さっさとこの場を立ち去れ!“...と言いたい!
言うまでもなく、一般向きとはかけ離れた内容になっていると思います。
これは、真摯に、自分自身に向き合えるような...あなたのために書いているのです!
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