からくり出張所

様々なからくりを徒然なるままに書くつもりです。
明るく楽しい趣味Blogが目標。
毎日ほっこりと。(^0^)

九州漫遊・焼き物

2006年02月28日 10時52分31秒 | 佐賀のこと

 九州、それも佐賀へ行く楽しみの一つに焼き物行脚があります。そのメッカは有田唐津と云うことになりますが、実は武雄市にも黒牟田焼弓野焼など古くからの窯が幾つかあります。元々は朝鮮からの陶工達が土を探して歩き回り県内の至る所で定住し焼き物を始めた場所の一つのようです。時間軸を追っていくと肥前での焼き物の歴史が分かるかも知れませんが、そこまでの知識はありません。ただ武雄市武内町の黒牟田焼の里には一山が陶片という文化財?がありますから恐ろしく古い窯であることは間違いありません。一昨年はこの黒牟田の丸田窯を拝見し手になじむ酒器やら高台の器を入手しました。 今年はちょっと離れた場所にある金子窯にお邪魔をしご当主からお昼のビールを振る舞われ恐縮した次第です。抹茶茶碗のすてきなものがあったのですが、旅先ゆえに値段を聞くのを恐れてしまいました。大蔵大臣を同伴していないとなかなか冒険はできません。(汗) それでは猪口をといったところ、先生がガラガラと持ってこられ、「好いたとば持っていきんしゃい」と仰せになり有り難く頂戴しました。家に持ち帰ったところカミさんが気に入ってお酒ならぬおつまみ入れにしてしまいましたが、地味ながらも食材が栄えること、飾らぬ豪快な金子先生ありがとうございました。

ペンション・ピクニックの裏にはすてきな茶陶器を焼いている新しい窯があります。一昨年はお茶ならぬ唐津の銚子を購入し愛用しています。友人によるとご当主が茶道を理解して焼いた道具はなかなかなものとのこと。 ということなので今回は古唐津の抹茶茶碗を格安で恐る恐る入手し、カミさんへの土産にしました。食器購入禁止令のある我が家でもこれは気に入って機嫌良く貰ってくれました。(笑)

茶陶 汲古窯 峰松義人氏 0954-23-7401 であります。

武雄にはこの他、日本でも有名な中島宏さんが西川登の弓野?で青磁を焼いています。白の萬二、黒の龍山、青の中島といえばお分かりの方も多いと思います。

その有田へも足を伸ばしました。もっとも曾祖父母の墓参りでしたが、友人の実家の前を通り、ふと思いついてこの窯のお店を鑑賞に立ち寄りました。辻精磁社というDc021441_1 有田のトップブランドです。その昔、曾祖父達が友人だったとか。とても買えないなと思って店の隅を見ると規格外品がありました。こっそりとお土産に入手しましたが、嬉しい。そのあと友人に電話してしまいました。

有田も祖母に連れて行かれた懐かしい町なので報恩寺という菩提寺の側の観音山に登り有田の町を一望してきました。なるほど四方をDc021465 山に囲まれてすり鉢の底にあるような町です。これが世界に名高いブランドを作り出した町なのだと感慨深く見てきました。

焼き物を東京へ持ち帰ることになるとは、予定外の行動になってしまいましたが、武雄と武雄から20分程度の有田を歩き回り、その昔は思っても見なかったことどもに感激するようになっているのは年をとった証拠でしょう。新しい武雄市の誕生とそれを支えてくれるであろう樋渡さんの健闘を祈念し、焼き物の話を終わります。 併せて五月連休に有田の陶器市に行けることも願っています。(笑)


九州漫遊・町並み

2006年02月22日 21時22分24秒 | 佐賀のこと

 今度の九州行きは、墓参りや実家訪問もあったので福岡佐賀熊本と回りました。もっともみぞれの博多では家にこもってルームランナーを歩いてしまったのでぶらついたのは佐賀西部地区と熊本です。

 武雄では、その昔野狐(やこ)が出ると云われたペンションのある永島の堤までの郊外歩きです。一言で云うと変わりすぎ。佐世保線の高架工事で駅周辺が歯抜けとなり母校の武雄高校も校門まで移動して昔のイメージがありません。幽玄であった武雄神社の神域に文化会館や大きなショッピングモールができ、市街地シャッター通り化に寄与していました。(汗)  隣の鹿島市までもこの影響を受けているとか。モールの中には地場よりも全国規模の企業が多いので人出が多くても地元貢献しているとは思えません。  前日、友人が地場の会社経営のバイパス沿いにあるモールに連れて行ってくれましたが、ここは地元の野菜や漬け物が豊富、しかもそれを素材とするカフェテリア式の食堂があって賑わっていました。ついつい食べ過ぎてしまうほど美味しい昼食でした。このような方法で大資本に対抗している地元企業にエールを送りたくなります。温泉通りのような市街地は普通の商売では対抗できないことがよく分かります。 ただ、車の流れを見ていると武雄の地が交通のクロスポイントにあって意外に重要な拠点になるような気がしました。新幹線が来るならば更に考慮すべきことが多いようです。地の利という言葉が浮かびました。

有田は、昔と変わらぬ町並みでホッとしました。町並み全体が文化財となAritatouriって外装の補修等には国の補助があるとたまたま入ったレストランでお聞きしました。町並みは一度壊すと元に戻りません。有田町の選択は大変賢明であったと思います。

ただ解せないことは、昔は栄えていた積み出しの上有田駅が無人駅となっKamiaritaてしまったことです。味のある駅舎は残っていましたが、亡くなった祖母が これを見たら何というのかなと寂しくなりました。

あと、買い物は卸売りセンターと分離されていますが、私はやっぱり古い町並みの中樽や赤絵町での買い物に魅力を感じます。上有田地区の復興が不景気からの脱出策の一つかも知れません。日曜日で雛人形祭りというのに人出がありません。やっぱり上有田にも特急を止めた方がいいと思います。

熊本、ここは変わり過ぎというかマンションだらけで情緒も何もあったものではありません。ちょっと変ではないかと思われる町作りです。熊本の地に初めて降りた40年近い昔は、武雄と比べて何と古くさいところだと思ったほどItiyadomoです。西鉄の路面電車を知っている私は、城下町の名残の街道をくねくね と曲がりながら進む市電に驚きました。確か浄行寺電停近くに「莫大小」という看板を見つけ、高校で覚えた単語に目を見張ったものです。(笑) 今や市電を取り囲む古い問屋街は消え失せました。 当時、熊本は戦争で丸焼けになったと云う話をよく聞きましたが、西南戦争のことであるということで二度びっくりです。そんな町だったのにマンション建設でぶち壊し、絶句の一語です。 熊本にビルができて都会になったと喜んでいる人が多かったのでこの有様かも知れません。 

Toujin 熊本に住んでいる高校の友人と30年ぶりに会い、案内して貰った 唐人町にホッとしました。この地区だけは昔の雰囲気を残そうと運動があったようです。マンションになるはずだった勧銀の建物を危ういところで保存Kangin できたと彼から聞きました。

 一級建築士である彼の事務所は、熊本市のはずれ川尻町にあって築百年の倉であるという木造大好き人間です。熊本にもこんな建築士がおります。

Kasugaji熊本駅近くの春日寺という森鴎外の阿部一族にゆかりのお寺は荒れるにまかせてあります。その他目に付くものは悲しくなることばかりでした。   

莫大小:メリヤス

長くなりましたが、町それぞれです。どのような残し方、発展させ方がいいとは一概に言えませんけど、行政の考えも第三者が見ると露骨に見えてくるようです。 少なくとも高橋の町のように禍根を残さない町作りが必要に思います。 武雄の各地区と樋渡さんの顔を思い浮かべるとついついこのような書き込みになりました。これからを楽しみにしています。

町並みというハードウェアだけでも色々考えることがありますね。ソフトウェアは更に難しそうです。


九州漫遊・大楠礼讃

2006年02月21日 17時54分25秒 | 佐賀のこと

 佐賀県武雄市は、宣伝が下手なのか県庁でも温泉といえば嬉野を推奨する状況が続いています。昨年、日本観光協会の知人から俳人・黛まどかさんの佐賀県取材時の目玉を幾つか聞かれたので武雄温泉も推薦していたのですが、結果は嬉野温泉になってしまいました。「すいません、県庁さんの推薦だったので。」とは担当者の弁。理由は分かりませんが、県内でも武雄温泉の認知度が低いのでしょうね。かくいう私も泉質の良さを先日まで忘れていました。(汗) 東京在の高校の友人は、「武雄のお湯はぬるかぁーとゆうて一段下に見られよっけど嬉野の湯は熱かけんが水で薄むったい。そいけんがお湯は武雄の方がよかとよー。」と武雄弁丸出しで語ってくれます。なるほど一理ある。いかがでしょうか(笑)

 ところでグローバルに誇りうるものは何と言っても3,000年の楠です。近所の飲み仲間酔考先輩は、歩く骨董辞典でもあり木工おじさんでもあります。木材と聞くと目がなく見ただけで材質を当てる達人です。この方と一昨年の連休に武雄・有田と遊びました。その時を思い出すと今でも宴会の度に出る言葉は「楠は凄かった。思わず涙が出そうになった。」、「特に武雄神社の楠は、侍が仁王立ちになっているように見えて離れ難かった。」と直参旗本の子孫である酔考さんは述懐します。  この辺の話は、私のホームページ連休阿房列車として紹介していますので珍道中を笑ってやってください。 それはともかく、人里離れた森林ならともかく古代より開けた武雄の地にこれだけの巨木が密生?しているのは希だと思います。楠は人間が好きで共生したいのかも知れません。

 前置きが長くなりましたが、前回行けなかった塚崎の大楠へ一人でぶらりと行ってきました。この楠は、武雄神社の大楠に隠れてなかなか見る機会も少ないと思います。武雄市民の方でも見た人は意外に少ないような気がしますがいかがでしょうか。この木も迫るような迫力です。 巨木には魂が宿っているとよく言いますが、武雄の大楠達を見るとこの言葉が実感できます。半日あれば見ることができる自然、更にはご先祖様からのの贈り物、この先も大切にしていただきたいと思いました。

ということで一昨年の写真も含めて大楠3本を並べてみます。

Kusu_kawago これはおなじみの川古(かわご)の大楠。日本3位でしたっけ?

この近所に川古温泉という冷泉があって年寄りに連れて行かれたことを覚えていますが、復活できないものでしょうか。

Kusu_takeo 武雄神社の大楠です。幽玄さでは一番です。私の高校時代は根元出入り自由でした。意外に不純異性交遊の場所だったかも。身に覚えのある御仁も色々・・・・今思うと可愛いものです。(笑)

Kusu_tukazaki 塚崎の大楠。これは意外に見る機会はないと思います。実は私がそうでした。

この3本の大楠を見ただけでも武雄に行った価値はあったと思っています。

今回は評論抜きに自慢できるものの紹介でした。


九州漫遊(1)

2006年02月20日 18時05分55秒 | 佐賀のこと

 寝台特急で出発し寝台特急で帰京するという最近では珍しい暴挙をやってしまいました。今回の目的はやっと時間がとれたのではあちこちの墓参りでしたが、ついでに故郷の佐賀県武雄市で市長に出るべく売り込み中の樋渡さんにお会いしてきました。彼の毎日の行動には頭の下がる思いでとうとう四日間武雄暮らしとなりましたが、大変有意義な毎日でした。また、あらためて武雄を見直すいい機会だったと思います。今や実家の消滅した私にはこんな長い時間の武雄滞在は希有なことです。故郷で気づいたことどもを思いついたときに書いてみることにします。Homepageではいつになるか分かりませんが、少し紀行文めいたものとしてまとめます。なんだかネタ探しの旅のようでもありました。(汗)

市は高橋の町を国道34号線から本家の墓地のある北上滝(わたき)の高峰寺まで歩きましたが、これは高校卒業以来でしょう。殆どの家が変貌し近所で残っていたのは元薬局だった木造3階建ての商家(もと常(つね)店)です。県か国の重文指定を受けたとかで昔よりも重厚さを増して残っていました。

Tunemise

長崎街道のこの通りにはこのような家が並んでいたのですが、大変残念です。 

高橋の通りです。歯抜けになった町並みが大変わびしく感じました。明るくなった町並みは実は歓迎すべきことではなく、シャッター通り商店街と同じなのです。Takahashi

私の生まれた家も従兄弟が壊してしまったようでただの空き地。件の家と同時期の明治5年の高橋大火のあとに建てたので、残っていれば何とかなったのに・・・昔の姿を思い出しながら天満宮等々を眺めつつ墓参りしました。

Jizo

元我が家の空き地近く、大正橋のそばに残っていた火除け地蔵。明治3年建立とありました。大火事のあとに建てられたものです。お茶豆灯籠銭というような呼び名のこの地蔵尊のお祭りを思い出しました。が、詳細は記憶のもやの中です。

まずはこんなところですか。


故郷は

2006年02月14日 11時08分31秒 | 佐賀のこと

遠くにありて思うもの、という詩がありましたけど思っているだけでは何も無かろうと思いたち、久しぶりに墓参を兼ね故郷に遊びました。幸か不幸か(笑)故郷の武雄市では市町村合併と市長選挙が間近に控えていました。

仕事で色々お世話になった小中高の後輩、樋渡啓祐さんが市長選挙に立候補予定と聞いていたので事務所を訪れたところ、そのまま数日お手伝いということになりました。 武雄市は昔から仲間内での政争が激しいところと聞いていたので心配だったのですが、この時代になっても相変わらずの雰囲気が残っています。他市、他県が羨ましがる樋渡さんが出るというのに当の武雄では裏でごそごそと蠢く足の引っ張り合い。 中央からの交付金を待つ時代から自前で政策をして生き抜く時代にこの状況ではちと困ります。ましてや従来の武雄市を越えた新武雄市の誕生なので観光一本槍では生き延びることが辛いのではないかと感じました。 視点を拡げ次世代のための論争をやってほしいと望む次第です。たらいの中で波を立て騒ぐのもいい加減にしてほしいと思いました。

 これまでふるさとを顧みることは少なかったのですけどこの機会にちょっと長めにあちこちを歩き回りました。 意外な発見が続き故郷を見直す大変いい機会でした。

温泉にゆっくり入り回るのは久しぶりでしたが、泉質の素晴らしさは東洋館の掛け流し湯で堪能しました。というか久しぶりの武雄温泉の泉質の良さに驚いた次第です。 定宿ペンションピクニックが満室だったので土曜日のみ移動したのですが、経験して良かったと思います。

ピクニックは市街から離れたところにありますが、露天風呂を手軽に貸し切ることができると云うこともあって家族連れが夜遅くまで訪れていました。なるほど浴槽に置いてあった子供向け洗面具の意味が分かりました。献立も地元で自慢できる素材を使ったものがほとんどです。こんな美味しいものが武雄にあったとは不勉強を恥じております。ちなみに若木のハーブ豚肉・美味しい! しかもここのオーナー夫妻は大阪出身で武雄が気に入って定住したと云うから驚きです。

武雄市文化会館では武雄に汽車が走った頃という展示をやっていました。これだけでなく幕末から明治の武雄藩科学技術の素晴らしさは、化学実験器具、種痘、武器にもおよんでいます。旧藩主邸跡に埋められていた武器を再発掘して同館に展示してあるものを見る限り当時最強の軍隊を持っていたことが分かります。庄内の方には申し訳ありませんが、戊辰戦争において当時最強だった庄内藩との戦争、羽州戦争で主力をなしたのは鍋島本藩というよりも武雄藩でした。薩摩藩と比べ極端に少ない死傷率で戦いを一気に決着し会津の悲劇を起こさなかったということを最近知った次第です。庄内藩はその強さと政治力で戊申戦争後もその地にあって多士済々を輩出し現代に至っているのだと思います。私は鶴岡市のファンでもあります。

展示物に書かれた「14名も死傷して帰郷しなかった。」というセンチメンタルな文言からは上のような歴史が見えずいささか不満でした。(笑) 実は高校卒業式で当時の本山市長から武雄藩の出兵のことを贈る言葉としてもらっていたのをなぜか覚えておりました。 数年前まで何のことか分からずにいたのです。 

それにもまして今回嬉しかったのは恩師の方々にお会いできたことです。小学校の担任の先生はかくしゃくとされており、杯を交わすことができました。 高校の担任の先生はお体を悪くされたと聞いていましたが、だいぶ回復された由。我が実家近くご出身の奥様にもお目にかかり自分の母の近況を報告して喜び合いました。汽車に乗る前のちょっとした時間でしたが、涙が出そうになった時間でした。いつまでもお元気でいてほしいと思う方々ばかりでした。これも樋渡さんの事務所に立ち寄ったおかげです。

偶然会った高校の同期生が地元よりも市外で著名な絣のコレクターでした。一年前の2月16日に日本繊維新聞で取り上げられたそうです。 工房わらべを経営されており、倉の床には古い土の人形がずらり、武雄市に貸し出すとか。 これは又別の機会に紹介します。

色々故郷を見直すいい機会でした。良いこと悪いことも見聞きしましたが、感じたことどもはHomepageにいずれまとめて整理するつもりです。

が、今回の旅で更新休止中なのでしばらくお待ち下さい。

モバイル散歩に気が向いたときに写した写真を送り込んでいますが、パケット料金もあってまだ見直していません。東京に戻ったらゆっくり解説記事を入れるつもりです。まだ熊本のかみさんの実家在でパケット料を気にしながらアクセスしています。もうやけくそ気味かも(汗)


長逗留

2006年02月11日 15時21分25秒 | 佐賀のこと

 いま佐賀県武雄市に長逗留しています。今日で三日目です。高槻市で市長公室長をしていた樋渡啓祐氏が市長に立候補予定なので陣中?見舞いに寄ったところ、友人に挨拶回りに連れられて、ついつい三日目になりました。若くて初出馬ということもあり、善戦しているもののなお一層の努力が必要に感じています。一喜一憂することなく手綱を引き締めてゴールを目指して欲しいと思います。明日まで応援していくつもりです。 頑張れ!けいすけくん (携帯より)


久しぶりに九州へ

2006年02月05日 18時04分15秒 | 佐賀のこと

 今日の寒さも何のその吉祥寺北裏鉄道へ行ってきましたが、明日からの旅行準備を考えて軟弱にも午前のみの見学にしてしまいました。皆さんお先に失礼してごめんなさい。

で、細々したものを買い込み戻りましたが、長い旅行は久しぶりなので勘が戻りません。外見は着の身着のまま、下着はホテルで洗濯だと割り切れば荷物はぐっと減ります。その心境に到達するには年をとってしまいました。(笑)人生のしがらみと同じで色々持って行きそうです。カメラを数台にしないようにしたいと思います。(汗)そのための交換レンズ群です。パソコンは重いからシグマリオンか?パケット数をあげないためにHomepage参照は御法度です。等々仕方もないことで悩んでいます。

いずれにしろ来週まで九州をうろつくつもりです。人生のしがらみを訪ね歩く旅行になりそうです。ネットアクセスは自宅ほどできそうにありませんのでせめて携帯で撮った画像をモバイル散歩に送ろうかと思っております。ここもHPと同様にしばらく休止します。書き込みができればラッキーです。

明日の夜行寝台で出発ですが、寝台の旅はいつもながら嬉しくてたまりません。寝不足になることは分かっていても不思議なものです。ただ、食堂車と車内販売全廃の現在、食料調達をミスしないよう行動したいと思っています。


市は高橋

2006年01月16日 07時34分16秒 | 佐賀のこと

 市は高橋、荷は牛津という佐賀藩時代に云われてきた言葉が残っています。この高橋は何処だろうといわれることもありますが、ブログやHPでは大抵佐賀市の西の外れ高橋という橋の辺りであることになってしまっているようです。それもののはず寂れた無人駅の佐世保線高橋駅では「市は高橋」と思えるような町には見えません。 かっては大繁栄をしていた私の生まれ故郷がこのままでは歴史の中に埋もれ、誤った風説が本物になるようではたまりません。ということで自分のホームページにこのことを書きましたが、樋渡さんのブログ高橋のことを採り上げてあったので再掲しました。

20年ほど前に角川書店から出版されている佐賀県地名大辞典から高橋のことを一部索引させてもらうとこの様に書いてあります。もちろん佐賀の高橋のことは全く書かれておりません。ここは祐徳バスの高橋という停留所があっただけだったはずです。

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高橋
 高橋川が六角川支流武雄川に合流する地点の北の平坦地に位置する。地名の由来は有明海の満潮時に海水が逆流し水位が上がり船の運航が行われ、そのための橋桁の高い木橋があったからと伝えられている。

[中世]高橋
 鎌倉期から見える地名。杵島郡長嶋荘、後の塚崎荘のうち。古代から中世にかけて杵島郡衞が置かれたと推定される。また水陸交通の要衝であったと考えられている。建治3年12月20日の地頭領家田地屋敷注文案に「たかハしのこそ」と見える。

中略

 天正2年頃の竜造寺隆信書状にも「高橋町」と見え、多久長信に対し須古城修築用の材木運搬のための夫丸80人が命じられている。当地が水陸交通の要所として町場化していた様子がうかがえる。

[近世]高橋村
 江戸期の村名。杵島郡のうち。佐賀本藩領。武雄郷に属す。
・・・・「慶長國絵図」では高橋町で見える。「宝暦郷村帳」、「天明郷村帳」ともに高橋宿として見え、小村に横町・茶碗町がある。茂紀年譜には「寛文十二年高橋の市近年始む。当閏六月より警固の足軽を出す。」とあり、「市は高橋、荷は牛津」と佐賀藩内で云われ繁栄した。

中略

 この村には上区と下区があり、上区には横町・タンス町・上五日市町・上十五日市町・上廿五日市町・下五日市町・下十五日市町・下廿五日市町があり、下区には中橋・タンス町・万才町・廿日市町・十日市町・船手町・朝日町・夕日町があって、五の付く町が市の当番町であった。
この村は長崎街道と唐津街道の分岐点に位置し、商圏は杵島郡をはじめ小城郡・藤津郡にもまたがり盛況を極めた。高橋代官所が置かれ、運上の取り立て、市の警固・監督を行った。
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とあります。私の小学校時代は新堀港に砂を積んだ大きな船がまだ上ってきていました。馬渡君の工場に資材を運んでいたと思います。自動車がまだまだ珍しい時代でした。(昭和30年初め頃)

Okinohata

最近の新堀港は、高速への入口になっているようで昔の面影は無いように思います。先年、福岡県柳川市に友人酔考氏と遊びましたが、沖端という白秋が親しんだ港が新堀とそっくりでした。友人の撮ったその光景をご覧下さい。

私の生まれた家は明治3年の高橋大火の後、明治5年に再建された家でしたが、5,6年前に壊してしまったようです。古い家をどんどん壊すものだから繁栄していた町と思う人が激減しているのでしょう。
この様な町が武雄地区にあったということを再認識していただいて市の復活も町づくりの一つになるのかも知れません。嘘の歴史が定着することのないように地元の方々の努力を期待したいと思います。

長くなってしまいましたが、忘れかけていた我が故郷のことをブログ部長のおかげで思い出して書いてみました。

ついでですが、市は高橋の内容は江戸時代に佐賀藩内で自慢できることを歌にしたもののようです。子細は説明できませんが参考まで。

「市は高橋、荷は牛津、産は泰順、詩は安道、碁は但馬、禄は諫早、質は成富、鉢は皿山、句は十方庵」


新武雄市の門出に

2005年12月21日 21時57分34秒 | 佐賀のこと

 昨日の佐賀新聞に衝撃的なニュースが出ていました。といっても東京ではwebニュースです。これまで公私ともに色々お世話になった高槻市市長公室長樋渡啓裕(ひわたしけいすけ)氏が佐賀県の武雄市長に立候補するというのです。来春現行武雄市の両隣の北方町山内町と合併し新武雄市として発足するのを機に新しい市の首長となるべくこれまでの経歴を投げての大快挙です。

この2年半の間、高槻市での活躍を驚異の思いで拝見してきました。あのようにバイタリティを持ち、新しい観点で政策を推進して市全体を活性化してくれる人物が我が自治体にいればと高槻市をご覧になっていた方々は多々あったと思います。その樋渡氏が私にとっても生まれ故郷である武雄に帰って新風を拭き込もうというのです。これほど喜ばしいことはありません。弱冠36歳、是非とも当選の快挙を成し遂げて故郷武雄市を大きく変えていただきたいと思います。

年が明けたらたまには帰郷しようと思っておりました。武雄に足を延ばして同級生ともども微力ながらも応援してきたいと思っています。

団塊の世代の我々よりも2世代ジャンプした樋渡さんの世代がこれからの日本を変えてくれるのではなかろうかとひそかに期待しています。樋渡さんをご存じの読者の皆さん。これからの活躍へ応援をお願いいたします。

ちなみにこのブログの仲間達・ブログ部長樋渡さんのブログです。是非ご覧下さい。


有田で思い出すこと

2005年07月14日 21時45分13秒 | 佐賀のこと
 ブログ部長がいう変わっている有田といえば焼き物の町ですが、私にとっては祖母や母の育った町で色々思い出深いところです。一番の印象は5月連休の陶器市です。もっとも明治25年生まれの祖母はそんな呼び方はしません。「品評会」というのです。その頃伯父が香蘭社に勤めていて祖母が行くと手元に隠し持っていた掘り出し物を渡してくれていました。その日の収穫物を座敷に広げほくそ笑んでいたばあちゃんの姿を思い出します。もっともその収穫物はたいてい友達に配ってしまい、殆ど我が家に残ることはありませんでした。
 我が家で特別な窯は、辻精磁という皇室向けの磁器を焼いているところです。有田のトンバイ塀通りとして紹介されているお宅です。曾祖父が当時の窯元と友人でその時代のものが幾つか手元にあります。
dc050534


実はその窯の伜が東京での呑み仲間というのは奇遇です。今でも皇室の慶事に地元に知られることなく出荷しているようで、ちょっと宣伝が下手くそと思います。県も辻精磁が東京で展示会をやっているとは知らないのが佐賀らしいですね。手元の珠玉を知らずに他所に憧れているのでしょうか。92歳になる現代の当主、14代辻常陸さんもまだお元気で東京までいらっしゃってます。展示会の雰囲気はこの通りです。
tenjiall


 この窯は佐賀藩の管理外であり、直接京都の禁裏へ納めていたので製品が世の中に流れておらず一般には注目されないのですが恐ろしいほど引き込まれてしまう窯です。でも高い。(笑)
京都の禁裏辺りから掘り起こされる磁器は辻家の献上品が多いと聞いています。
これらは祖母からもらった我が家に伝わる辻君のところの明治初期製品です。皇室向けに焼いた御用品のようです。
tujicup

tidori


有田のことで書きたいことは山ほどありますが、今日はこのくらいかな。

そうそう、有田の窯元さんは鯨肉が大好きです。白長須鯨の小腸を洗ってボイルした百尋が魚屋さんにゴロゴロと売っていました。これはうまかった。焼き物だけでなく食文化を見直して売り出せばいいと思います。が・・・・・・
それはともかく、辻君、浅草へ鯨食べに行こう。パソコンやってね。(笑)