北九州の雨は一段落したようでホッとしました。しかしながら高速道路の側壁を壊してしまうような土砂崩れ、たまたま通りかかった方が亡くなったようですが、運が悪かったとしか云いようありません。(合掌)
この豪雨で感じたのですが、西九州における高速道路は、その昔の街道という動線を殆ど意識せずに作られているような気がします。一昔であれば山の中であったところ一直線。古代からの先人の知恵などどこ吹く風の設計でありますが、果たしていいのでしょうか? おかげで旧街道筋は衰亡の一途ではなかろうかと感じています。長い年月をかけて人の移動にもっとも安全なルートとして定まったのが街道です。 もう遅いでしょうが、このスタンスでもう一度見直して欲しいものだと思います。 武雄市朝日町高橋の街を通る長崎街道は、水害で途絶する確率の高かった橘町鳴瀬ルートを避けて水をかぶる限界線の朝日小学校から享保橋を渡って甘久に至る今のルートに文化年間に変更されたものだと聞いたことがあります。
地元世田谷の旧街道もその目で眺めると興味深いものがあります。かっては二本しかなかった江戸以前からの瀧坂街道と我が家の前の村道は地層の馬の背を辿るように設けてあります。これも昔の人の知恵かも知れません。 昔は雨が降ると良く水が出ていた地域のようなので尚更高い地帯に道を造ってあるようです。 なお私の街道師匠は、かの酔考さんであります。そういえば最近呑んでませんねぇー(笑)
その小田急線・経堂駅前も激変してきました。40年間にわたって聳えてきた14階建ての小田急アパートが消えて青空が復活しましたが、何だか変な気分です。始めてこの地をうろついた時は蒲鉾形のスーパーを見た記憶がありますが、ほんの一瞬の建物だったようです。それ以前は電車区でターンテーブルがあったと聞きました。
威容を誇った(苦笑)小田急アパート。良きにつけ悪しきにつけ長い間経堂のシンボルでした。手前は小田急関連会社の事務棟でした。
手元にあったのはほぼ同じ位置からの解体途中の小田急アパートです。だいぶ低くなりました。
そして、建物が消えて駅のホームが見えるようになりました。
後ろに回って駅と建物の間から見ると建物の残骸の向こうに今まで見えなかった駅周辺の低層ビルが見えるようになりました。これから地下街部分の撤去が始まるそうです。
南口前から成城学園方面を眺めるとすっきりと全てが消え去りました。次はどうするつもりでしょうか? そういえば3月には通るといっていたバスはまだ未通です。8月末にずれたようですが、モタモタしていますね。
今日は午後からの来客に備えて大掃除をして一段落したので別のことを書こうと思いつつ全く違う記事になってしまいました。
本当は、渋谷ハンズにOリングを入手するために出かけ、そのついでにマイpomeraにしてしまったお話のつもりでした。
携帯に貼るデコシールより更に大きなものを貼ったらなかなか具合がよろしいようです。 雷避けに雷神様としました。