万国津梁館で指された昨日の第2回叡王戦決勝三番勝負第一局。佐藤天彦名人と千田翔太五段は公式戦初対局。
振駒で千田五段の先手。佐藤名人が横歩取りを誘ったところ,先手が変わった序盤戦を展開しました。
第1図はどれくらいあるか分からないほど凡庸な局面。相場は▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛です。しかし先手は金を上がるのを保留して▲2四歩△同歩▲同飛といきました。
この順だと後手から△8八角成▲同銀△3三角とするのも有力ではないかと僕には思えます。ですが△3二金と自重しました。ここで▲7八金なら相場に戻りますが,先手は▲5八玉と上がりました。
今度は△8八角成▲同銀△3三角とすると▲2八飛と引いても銀にヒモがつかないので▲2一飛成の一手。指し手を限定できる分だけ後手は決行する条件は上がっていると思います。後手が△8八角成と指した場合に何を警戒したのかは分かりませんが,ここでも△4一玉と寄りました。
先手はここで▲7八金と上がったので角交換の筋は消えました。以下は△8六歩▲同歩△同飛。これは相場と比べると先手は玉が5八に上がり後手は4一に寄っている形。どちらが得をしているのかは分かりません。
後手が飛車先を交換したので今度は先手から▲2二角成△同銀と交換して▲7七角という,後手も狙いにできた筋を決行しました。玉の移動がないと成立しない形なので,この手が成立するようになったのは先手の得という判断はあるのかもしれません。
玉の移動がないと△8九飛成で後手よしですがこの場合は△8二飛と引く一手。先手は▲8三歩と打って△5二飛を強要しました。
この局面は▲2五飛と引いておくのもあるのではないかと思いますが▲3四飛と横歩を取り△5四歩▲3五飛△5五歩と進みました。
この後は5五で飛車の交換に進みましたが,そこまでの飛車の動き方からすると先手が損をしているような感じが僕にはあります。でも局面自体はいい勝負でしょう。中盤で先手に見落としがあったのが影響し,将棋は後手が勝ちました。
佐藤名人が先勝。第二局は11日です。
スピノザが身体corpusに対する精神mensの優位性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優位性を認めなかったことは,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenのようなデカルト主義者にとっても,フーゴー・ボクセルのように,おそらくは確たる哲学的見解を有しているとは思われない多くの人びとにとっても,精神の価値を貶めるものと感じられただろうと僕は想像します。ボクセルは書簡五十五で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれるということを否定するなら,自分は神について何がいわれているのかをいっかな解せないという意味のことをいっていました。このとききっとボクセルは,人間の精神mens humanaあるいは思惟作用が神のうちに優越的に含まれていなければならないと判断していたのであって,人間の身体が神のうちに優越的に含まれるというようには認識していなかったと僕は思います。確かにボクセルは見聞きするということが神のうちに優越的に含まれている事柄のひとつだとは指摘しています。そしてスピノザの哲学において考えるなら,見ることも聞くことも延長作用といわなければならないでしょう。ただしボクセルは,神が人間のように手足を有し目や耳を有するというようには認識していなかったのであり,それがボクセルにとっては人間の身体が優越的に神のうちに含まれているのではないということの意味になっていたというのが僕の解釈です。
スピノザはそれに対して,人間がなす思惟作用も神のうちに優越的に含まれることはないといったのです。ですからそれは精神の価値を貶めているというように思われたとして不思議はなく,実際にそうであったろうというのが僕の理解です。とはいえ,スピノザの主張を全体としてみるならば,それは精神の価値を貶めたというより,身体の価値を引き上げたとみる方が妥当だと僕は考えます。これもまたデカルト主義者からは批判の対象となるのですが,物体的実体substantia corporeaというのはスピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumなのであって,それが神の本性natura,essentiaを構成する属性attributumのひとつであるというのが,哲学史的にはスピノザの新しい主張であったからです。つまり延長あるいは身体の価値の見直し,復権とでもいうべきことが,スピノザの哲学では行われたのです。
振駒で千田五段の先手。佐藤名人が横歩取りを誘ったところ,先手が変わった序盤戦を展開しました。
第1図はどれくらいあるか分からないほど凡庸な局面。相場は▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛です。しかし先手は金を上がるのを保留して▲2四歩△同歩▲同飛といきました。
この順だと後手から△8八角成▲同銀△3三角とするのも有力ではないかと僕には思えます。ですが△3二金と自重しました。ここで▲7八金なら相場に戻りますが,先手は▲5八玉と上がりました。
今度は△8八角成▲同銀△3三角とすると▲2八飛と引いても銀にヒモがつかないので▲2一飛成の一手。指し手を限定できる分だけ後手は決行する条件は上がっていると思います。後手が△8八角成と指した場合に何を警戒したのかは分かりませんが,ここでも△4一玉と寄りました。
先手はここで▲7八金と上がったので角交換の筋は消えました。以下は△8六歩▲同歩△同飛。これは相場と比べると先手は玉が5八に上がり後手は4一に寄っている形。どちらが得をしているのかは分かりません。
後手が飛車先を交換したので今度は先手から▲2二角成△同銀と交換して▲7七角という,後手も狙いにできた筋を決行しました。玉の移動がないと成立しない形なので,この手が成立するようになったのは先手の得という判断はあるのかもしれません。
玉の移動がないと△8九飛成で後手よしですがこの場合は△8二飛と引く一手。先手は▲8三歩と打って△5二飛を強要しました。
この局面は▲2五飛と引いておくのもあるのではないかと思いますが▲3四飛と横歩を取り△5四歩▲3五飛△5五歩と進みました。
この後は5五で飛車の交換に進みましたが,そこまでの飛車の動き方からすると先手が損をしているような感じが僕にはあります。でも局面自体はいい勝負でしょう。中盤で先手に見落としがあったのが影響し,将棋は後手が勝ちました。
佐藤名人が先勝。第二局は11日です。
スピノザが身体corpusに対する精神mensの優位性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優位性を認めなかったことは,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenのようなデカルト主義者にとっても,フーゴー・ボクセルのように,おそらくは確たる哲学的見解を有しているとは思われない多くの人びとにとっても,精神の価値を貶めるものと感じられただろうと僕は想像します。ボクセルは書簡五十五で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれるということを否定するなら,自分は神について何がいわれているのかをいっかな解せないという意味のことをいっていました。このとききっとボクセルは,人間の精神mens humanaあるいは思惟作用が神のうちに優越的に含まれていなければならないと判断していたのであって,人間の身体が神のうちに優越的に含まれるというようには認識していなかったと僕は思います。確かにボクセルは見聞きするということが神のうちに優越的に含まれている事柄のひとつだとは指摘しています。そしてスピノザの哲学において考えるなら,見ることも聞くことも延長作用といわなければならないでしょう。ただしボクセルは,神が人間のように手足を有し目や耳を有するというようには認識していなかったのであり,それがボクセルにとっては人間の身体が優越的に神のうちに含まれているのではないということの意味になっていたというのが僕の解釈です。
スピノザはそれに対して,人間がなす思惟作用も神のうちに優越的に含まれることはないといったのです。ですからそれは精神の価値を貶めているというように思われたとして不思議はなく,実際にそうであったろうというのが僕の理解です。とはいえ,スピノザの主張を全体としてみるならば,それは精神の価値を貶めたというより,身体の価値を引き上げたとみる方が妥当だと僕は考えます。これもまたデカルト主義者からは批判の対象となるのですが,物体的実体substantia corporeaというのはスピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumなのであって,それが神の本性natura,essentiaを構成する属性attributumのひとつであるというのが,哲学史的にはスピノザの新しい主張であったからです。つまり延長あるいは身体の価値の見直し,復権とでもいうべきことが,スピノザの哲学では行われたのです。
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