年齢に関わらず、レイプは犯罪である。それが幼女性愛の場合は中毒性、依存性が非常に高い傾向があるため特に問題視される。
自分で自分の情動行動を制御選択できない時点で、それは本質的「自由。」ではない。
本能のおもむくままに行動することは「自由。」ではないのである。だから犯罪者の多くは犯行後に「どうして、そんなことをしたのか、自分でもわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などと他人事みたいなことを言い出すのである。
養老が良く使う言い逃れに「人は川だ、常に変化する。」というのがある。これは自分の言っている話の論理整合性の欠落、無責任性を正当化するための屁理屈である。実際には自分の言ったことに責任を持ちたくないために、録音されることを嫌うだけのことであり。結局は犯罪者の言い逃れと構造は一緒である。
幼い少女に性的な興奮を「してしまう。」こと自体は当人の選択ではない。問題なのはそうした感情の大きさだけで行動が選択されてしまうことである。
単に感情の大きさだけで行動が選択されている状態というのは、理論的には本質的な選択ではない。感情の大きさというものは自己の選択によって決定されるものではないからだ。
また、実際の犯罪者というのは自己顕示が強く、犯罪の重大さを他人と比較して自慢する傾向が見られる。つまり「自分の脳の方が気持ちいい。」と主張したいらしいのである。
現実には、脳というのは他人との神経接続が存在しないので、他人の脳との快楽度の比較は原理的に不可能である。つまり、快楽というものは極めて個人的な価値観であって、外見上の快楽を多数で共有しても、それが全てのヒトにおける普遍的快楽であることの証明になど一切ならないのである。
ホリエモンが述べていた「だって、皆さんお金欲しいでしょ。」という話も同様である。多数他人との価値観共鳴に固執すること自体が犯罪者への近道なのである。なぜならそれこそが「自律。」の欠落を意味するものであるからだ。
「養老は犯罪者ではない。」と反論されそうだが、それを言うなら天下り役人達も犯罪者ではない。単に刑法に引っ掛からないだけで、社会的には損失にしかならないことというのは少なからず存在する。原発行政など典型である。
あるゆる社会損失の全てを刑法で取り締まってしまったら、世の中がんじがらめで何にもできなくなってしまうのである。重要なのは、罰を与えることではなく、再発防止を優先することであり、論理的に考えることが重要なのである。そのための「教育。」なのではないか。
気分的に嫌な話は無視しておいて、手っ取り早く評価報酬につながるような強迫観念的行動ばかりに執着しているからバカが増えるのである。幼女性愛犯罪というのは「エサ。」に対する最も短絡的な行動である。どんなに高学歴であろうと性犯罪というのは存在する。自律と学歴は無関係なのである。
最も重要なのは、個人が感情に左右されずに、本質的行動選択ができるかどうかであり。特定「能力。」を知能と見なすような現在の知能論というのは、単なる大衆迎合でしかない。
個人が、自己自身の感情に左右されず、公益倫理的な行動判断をできるようになるためにはどうすれば良いのか。それにはまず個人的な純粋行為を持つことである。だが、単に持っただけではダメで、そこに個人的な価値観を置いた人生観を持つことも必要である。それは環境依存的なものでどうにかなるようなものではなく、同時に教育「環境。」だけでどうにかなるようなものでもない。ただ、少なくとも個人的価値観を大切にするような環境の方が、本質的自発的行為、純粋行為への価値観を持ちやすくなることは確かである。特に幼少期は。具体的な教育の方法論についてはここでは論じない。それは専門外でもあるからだ。
私が論じたいのは、子供の教育ではなく、それを行う教育者自身の意識の問題なのである。そしてそれは子供の親も含まれる。刷り込まれた無意識的な強迫観念に基づく教育を、単に反射的に繰り返しているだけの人間ほどヒステリックで感情的に執着する。その典型が虐待の連鎖なのである。
虐待をされた人であっても虐待を止めることができる以上、そうでない人間が無意識な価値観を放棄することが不可能であることの証明など存在しないのである。「俺はそうやって育てられた。」などというのは泣き言でしかない。そんな話をしている段階で教育者としては出来損ないであることを認識すべきである。
公益倫理的判断として、子供の本質的意識を養うことに選択の余地など初めから存在しない。それが気分的に嫌だというのであれば、それは犯罪者に加担しているのと同義である。
頭のおかしい人間同士で同じ観念を共有していれば気分的には安心であろう。自分の愚かさを意識から外し、過去の栄光を自慢して自信たっぷりに観念をぶちまけておけば気分的には満足であろう。そうした自己満足のまどろみこそが人間社会の諸悪の根源なのである。
本能自体は選択できない。女性の好みが個人的に幼い少女であること自体はあまり変える余地は存在しない。それなら、その欲望をどのように「消費。」するか、その選択が重要となるのである。この選択こそが本当の選択であると言えるからだ。
実害がないのであれば、どんなに多数からの批判をされても構わない。かつて江戸川乱歩は猟奇的内容を批判されたこともあったが、現在では賞のタイトルにまでなっているのである。社会や時代に左右されず、自分の本当に行いたいことであるなら、それは行なうべきなのである。社会的な評価や報酬に関わらず、個人的に熱中できることこそが、最終的には自己の自律判断に結び付く本質的意識、「意思。」を育むことになるからである。
自分の気持ちが大切にできない者が、他人の気持ちなど推し量ることなど原理的に不可能なのである。
間違っても多数他人と同じ観念を共有して気分的安心を求めてはならない。あくまで個人的な純粋行為として追求しなければならないのである。
「相手の気持ちになって考えなさい。」とは良く聞く話であるが、自分の気持ちがわからないまま相手の気持ちを鑑みることなど原理的に不可能なのである。自分自身に価値を持たない者であれば、他人の気持ちにも価値など見いだせないのは当然である。
なによりも優先して自分の気持ち、自分の純粋行為を大切にすることが重要である。先立つものがなければどうにもならない。逆に自分自身の純粋行為に価値を持っているのであれば、自ずと他人としての社会公益性にも意識は働くようになるものである。
他人からお説教的に押し付けられなくとも、自然と相手の気持ちも判るようになるものなのである。
無意識下に刷り込まれた強迫観念的なブレーキとしての「超自我。」というものは、結局はその場の気分、感情の大きさによって簡単にタガが外れてしまうものである。刷り込み学習的な倫理など、糞の役にも立たないことを認識すべきである。
都の条例でR-18規制が強化されたが、表現自体を禁じているわけではない。条例に対する反論を見ると大抵は「作家が萎縮する。」とか「漫画が売れなくなる。」といった話ばかりで、そんな理由で子供の育成環境を犠牲にするのはおかしな話である。
小学生がエロビデオを見て同級生を集団レイプしたという話があり、結構ネット上で取り上げられているようだ。子供というものは本能を自律的に抑制できないのが普通である、むしろ本能とか感情を自律的に制御できないから「大人」として出来損ないなのである。年齢だけ18歳以上であっても出来損ないは結構少なくない。それこそタバコの購入カードとかと一緒にR-18書籍購入に規制をかけても良いくらいではないだろうか。飲酒運転とか泥酔して「トラ箱」送りにされた者に対しての酒類販売規制をして欲しいくらいである。
優先すべきは「安全」であって、作り手の一方的で個人的な「安心」を優先すべきではない。今まで野放し状態で儲かっていたいう「結果」をいくら枚挙しても、それは正当化する論理的根拠にはならない。
現実にはカルト宗教の教祖の書いた書籍であっても規制はない。だから事実上思想信条に関する表現規制など存在していないのである。ということは何が間違いで何が正しいのかは読み手の方が判断するのが民衆主義の基本であり、それが単なる大衆迎合的な「流行」に流されていてはダメなのである。
現在の生物学における「客観性」というものは実際には「傍観性」にしかなっていない。思考段階において客観性は必要であるが、結論において傍観してはならない。どんなにたくさんの「結果」を枚挙しても、それは自体は「目的」にはならないからである。
生物学というのはヒトという生物における本質的意識の存在というものを意図的に無視しようとしている。「戦争をしても絶滅していない。」などと言っていれば、犯罪犠牲などは「さざ波」扱いになるのは当然である。それならヒトが犯す過ちのほとんど全ては生物学者にとってどうでも良いことだということである。
チンパンジーの研究ならそれでもいいが。実際には脳科学や認知科学においてもこうしたパラダイムが継承されており、それがヒトの本能習性に起因する諸問題に対する障害となっているのである。起こったことは全て「結果」である、その結果を踏まえてどのような行動選択を行うかは「目的」意識によって選択されなければならないものなのである。現在の生物学はヒトが何をしたとしても「結果」だけが全てになってしまう。これでは何の進歩も促されることはない。それこそ絶滅を予言しておいて絶滅すれば業績であると思い込んでいるような奴が権威に君臨している。これらの異常性というものは生物学的な社会形成習性による批判性の欠落や、年功序列体制の無意識的構築性の結果である。他人のことも傍観するが、自己自身の判断までも傍観するというのは学者として糞の役にも立たない。税金の無駄遣いのみならず、社会的にも害を及ぼす実証不能の観念というものは科学界からは排除すべきなのである。
研究の途中段階において思考の自由度は必要だが、結論については「勝手」はゆるされるべきではない。結論というのは既に起こったことの「結果」それ自体と同義ではない。このことを厳密に検証しないから無為無策に陥ることになる。
マスコミの多くも、多くの生物学者と同様に文系の非理論的な観念の世界を好み、論理的精密検証も、それに伴う批判精神も持たずに、体制に迎合して年功序列的に服従するだけの人間が非常に多い。マスコミの社会的な役割として、権威性に対する批判は重要であるはずなのだが、なぜか政治に対しては必要以上に批判的でありながら生物学に対しては無意味に寛容である。これはおそらく「前例がない。」という慣習的な怠惰によるものであろう。
慣習的怠惰というのが無意識であることは、別に説明しなくてもバカでもわかるはずである。
自分で自分の情動行動を制御選択できない時点で、それは本質的「自由。」ではない。
本能のおもむくままに行動することは「自由。」ではないのである。だから犯罪者の多くは犯行後に「どうして、そんなことをしたのか、自分でもわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などと他人事みたいなことを言い出すのである。
養老が良く使う言い逃れに「人は川だ、常に変化する。」というのがある。これは自分の言っている話の論理整合性の欠落、無責任性を正当化するための屁理屈である。実際には自分の言ったことに責任を持ちたくないために、録音されることを嫌うだけのことであり。結局は犯罪者の言い逃れと構造は一緒である。
幼い少女に性的な興奮を「してしまう。」こと自体は当人の選択ではない。問題なのはそうした感情の大きさだけで行動が選択されてしまうことである。
単に感情の大きさだけで行動が選択されている状態というのは、理論的には本質的な選択ではない。感情の大きさというものは自己の選択によって決定されるものではないからだ。
また、実際の犯罪者というのは自己顕示が強く、犯罪の重大さを他人と比較して自慢する傾向が見られる。つまり「自分の脳の方が気持ちいい。」と主張したいらしいのである。
現実には、脳というのは他人との神経接続が存在しないので、他人の脳との快楽度の比較は原理的に不可能である。つまり、快楽というものは極めて個人的な価値観であって、外見上の快楽を多数で共有しても、それが全てのヒトにおける普遍的快楽であることの証明になど一切ならないのである。
ホリエモンが述べていた「だって、皆さんお金欲しいでしょ。」という話も同様である。多数他人との価値観共鳴に固執すること自体が犯罪者への近道なのである。なぜならそれこそが「自律。」の欠落を意味するものであるからだ。
「養老は犯罪者ではない。」と反論されそうだが、それを言うなら天下り役人達も犯罪者ではない。単に刑法に引っ掛からないだけで、社会的には損失にしかならないことというのは少なからず存在する。原発行政など典型である。
あるゆる社会損失の全てを刑法で取り締まってしまったら、世の中がんじがらめで何にもできなくなってしまうのである。重要なのは、罰を与えることではなく、再発防止を優先することであり、論理的に考えることが重要なのである。そのための「教育。」なのではないか。
気分的に嫌な話は無視しておいて、手っ取り早く評価報酬につながるような強迫観念的行動ばかりに執着しているからバカが増えるのである。幼女性愛犯罪というのは「エサ。」に対する最も短絡的な行動である。どんなに高学歴であろうと性犯罪というのは存在する。自律と学歴は無関係なのである。
最も重要なのは、個人が感情に左右されずに、本質的行動選択ができるかどうかであり。特定「能力。」を知能と見なすような現在の知能論というのは、単なる大衆迎合でしかない。
個人が、自己自身の感情に左右されず、公益倫理的な行動判断をできるようになるためにはどうすれば良いのか。それにはまず個人的な純粋行為を持つことである。だが、単に持っただけではダメで、そこに個人的な価値観を置いた人生観を持つことも必要である。それは環境依存的なものでどうにかなるようなものではなく、同時に教育「環境。」だけでどうにかなるようなものでもない。ただ、少なくとも個人的価値観を大切にするような環境の方が、本質的自発的行為、純粋行為への価値観を持ちやすくなることは確かである。特に幼少期は。具体的な教育の方法論についてはここでは論じない。それは専門外でもあるからだ。
私が論じたいのは、子供の教育ではなく、それを行う教育者自身の意識の問題なのである。そしてそれは子供の親も含まれる。刷り込まれた無意識的な強迫観念に基づく教育を、単に反射的に繰り返しているだけの人間ほどヒステリックで感情的に執着する。その典型が虐待の連鎖なのである。
虐待をされた人であっても虐待を止めることができる以上、そうでない人間が無意識な価値観を放棄することが不可能であることの証明など存在しないのである。「俺はそうやって育てられた。」などというのは泣き言でしかない。そんな話をしている段階で教育者としては出来損ないであることを認識すべきである。
公益倫理的判断として、子供の本質的意識を養うことに選択の余地など初めから存在しない。それが気分的に嫌だというのであれば、それは犯罪者に加担しているのと同義である。
頭のおかしい人間同士で同じ観念を共有していれば気分的には安心であろう。自分の愚かさを意識から外し、過去の栄光を自慢して自信たっぷりに観念をぶちまけておけば気分的には満足であろう。そうした自己満足のまどろみこそが人間社会の諸悪の根源なのである。
本能自体は選択できない。女性の好みが個人的に幼い少女であること自体はあまり変える余地は存在しない。それなら、その欲望をどのように「消費。」するか、その選択が重要となるのである。この選択こそが本当の選択であると言えるからだ。
実害がないのであれば、どんなに多数からの批判をされても構わない。かつて江戸川乱歩は猟奇的内容を批判されたこともあったが、現在では賞のタイトルにまでなっているのである。社会や時代に左右されず、自分の本当に行いたいことであるなら、それは行なうべきなのである。社会的な評価や報酬に関わらず、個人的に熱中できることこそが、最終的には自己の自律判断に結び付く本質的意識、「意思。」を育むことになるからである。
自分の気持ちが大切にできない者が、他人の気持ちなど推し量ることなど原理的に不可能なのである。
間違っても多数他人と同じ観念を共有して気分的安心を求めてはならない。あくまで個人的な純粋行為として追求しなければならないのである。
「相手の気持ちになって考えなさい。」とは良く聞く話であるが、自分の気持ちがわからないまま相手の気持ちを鑑みることなど原理的に不可能なのである。自分自身に価値を持たない者であれば、他人の気持ちにも価値など見いだせないのは当然である。
なによりも優先して自分の気持ち、自分の純粋行為を大切にすることが重要である。先立つものがなければどうにもならない。逆に自分自身の純粋行為に価値を持っているのであれば、自ずと他人としての社会公益性にも意識は働くようになるものである。
他人からお説教的に押し付けられなくとも、自然と相手の気持ちも判るようになるものなのである。
無意識下に刷り込まれた強迫観念的なブレーキとしての「超自我。」というものは、結局はその場の気分、感情の大きさによって簡単にタガが外れてしまうものである。刷り込み学習的な倫理など、糞の役にも立たないことを認識すべきである。
都の条例でR-18規制が強化されたが、表現自体を禁じているわけではない。条例に対する反論を見ると大抵は「作家が萎縮する。」とか「漫画が売れなくなる。」といった話ばかりで、そんな理由で子供の育成環境を犠牲にするのはおかしな話である。
小学生がエロビデオを見て同級生を集団レイプしたという話があり、結構ネット上で取り上げられているようだ。子供というものは本能を自律的に抑制できないのが普通である、むしろ本能とか感情を自律的に制御できないから「大人」として出来損ないなのである。年齢だけ18歳以上であっても出来損ないは結構少なくない。それこそタバコの購入カードとかと一緒にR-18書籍購入に規制をかけても良いくらいではないだろうか。飲酒運転とか泥酔して「トラ箱」送りにされた者に対しての酒類販売規制をして欲しいくらいである。
優先すべきは「安全」であって、作り手の一方的で個人的な「安心」を優先すべきではない。今まで野放し状態で儲かっていたいう「結果」をいくら枚挙しても、それは正当化する論理的根拠にはならない。
現実にはカルト宗教の教祖の書いた書籍であっても規制はない。だから事実上思想信条に関する表現規制など存在していないのである。ということは何が間違いで何が正しいのかは読み手の方が判断するのが民衆主義の基本であり、それが単なる大衆迎合的な「流行」に流されていてはダメなのである。
現在の生物学における「客観性」というものは実際には「傍観性」にしかなっていない。思考段階において客観性は必要であるが、結論において傍観してはならない。どんなにたくさんの「結果」を枚挙しても、それは自体は「目的」にはならないからである。
生物学というのはヒトという生物における本質的意識の存在というものを意図的に無視しようとしている。「戦争をしても絶滅していない。」などと言っていれば、犯罪犠牲などは「さざ波」扱いになるのは当然である。それならヒトが犯す過ちのほとんど全ては生物学者にとってどうでも良いことだということである。
チンパンジーの研究ならそれでもいいが。実際には脳科学や認知科学においてもこうしたパラダイムが継承されており、それがヒトの本能習性に起因する諸問題に対する障害となっているのである。起こったことは全て「結果」である、その結果を踏まえてどのような行動選択を行うかは「目的」意識によって選択されなければならないものなのである。現在の生物学はヒトが何をしたとしても「結果」だけが全てになってしまう。これでは何の進歩も促されることはない。それこそ絶滅を予言しておいて絶滅すれば業績であると思い込んでいるような奴が権威に君臨している。これらの異常性というものは生物学的な社会形成習性による批判性の欠落や、年功序列体制の無意識的構築性の結果である。他人のことも傍観するが、自己自身の判断までも傍観するというのは学者として糞の役にも立たない。税金の無駄遣いのみならず、社会的にも害を及ぼす実証不能の観念というものは科学界からは排除すべきなのである。
研究の途中段階において思考の自由度は必要だが、結論については「勝手」はゆるされるべきではない。結論というのは既に起こったことの「結果」それ自体と同義ではない。このことを厳密に検証しないから無為無策に陥ることになる。
マスコミの多くも、多くの生物学者と同様に文系の非理論的な観念の世界を好み、論理的精密検証も、それに伴う批判精神も持たずに、体制に迎合して年功序列的に服従するだけの人間が非常に多い。マスコミの社会的な役割として、権威性に対する批判は重要であるはずなのだが、なぜか政治に対しては必要以上に批判的でありながら生物学に対しては無意味に寛容である。これはおそらく「前例がない。」という慣習的な怠惰によるものであろう。
慣習的怠惰というのが無意識であることは、別に説明しなくてもバカでもわかるはずである。