書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

幼女性愛は純粋行為か。

2011年05月09日 14時29分06秒 | 意識論関連
 年齢に関わらず、レイプは犯罪である。それが幼女性愛の場合は中毒性、依存性が非常に高い傾向があるため特に問題視される。

 自分で自分の情動行動を制御選択できない時点で、それは本質的「自由。」ではない。

 本能のおもむくままに行動することは「自由。」ではないのである。だから犯罪者の多くは犯行後に「どうして、そんなことをしたのか、自分でもわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などと他人事みたいなことを言い出すのである。

 養老が良く使う言い逃れに「人は川だ、常に変化する。」というのがある。これは自分の言っている話の論理整合性の欠落、無責任性を正当化するための屁理屈である。実際には自分の言ったことに責任を持ちたくないために、録音されることを嫌うだけのことであり。結局は犯罪者の言い逃れと構造は一緒である。

 幼い少女に性的な興奮を「してしまう。」こと自体は当人の選択ではない。問題なのはそうした感情の大きさだけで行動が選択されてしまうことである。

 単に感情の大きさだけで行動が選択されている状態というのは、理論的には本質的な選択ではない。感情の大きさというものは自己の選択によって決定されるものではないからだ。

 また、実際の犯罪者というのは自己顕示が強く、犯罪の重大さを他人と比較して自慢する傾向が見られる。つまり「自分の脳の方が気持ちいい。」と主張したいらしいのである。

 現実には、脳というのは他人との神経接続が存在しないので、他人の脳との快楽度の比較は原理的に不可能である。つまり、快楽というものは極めて個人的な価値観であって、外見上の快楽を多数で共有しても、それが全てのヒトにおける普遍的快楽であることの証明になど一切ならないのである。

 ホリエモンが述べていた「だって、皆さんお金欲しいでしょ。」という話も同様である。多数他人との価値観共鳴に固執すること自体が犯罪者への近道なのである。なぜならそれこそが「自律。」の欠落を意味するものであるからだ。

 「養老は犯罪者ではない。」と反論されそうだが、それを言うなら天下り役人達も犯罪者ではない。単に刑法に引っ掛からないだけで、社会的には損失にしかならないことというのは少なからず存在する。原発行政など典型である。

 あるゆる社会損失の全てを刑法で取り締まってしまったら、世の中がんじがらめで何にもできなくなってしまうのである。重要なのは、罰を与えることではなく、再発防止を優先することであり、論理的に考えることが重要なのである。そのための「教育。」なのではないか。

 気分的に嫌な話は無視しておいて、手っ取り早く評価報酬につながるような強迫観念的行動ばかりに執着しているからバカが増えるのである。幼女性愛犯罪というのは「エサ。」に対する最も短絡的な行動である。どんなに高学歴であろうと性犯罪というのは存在する。自律と学歴は無関係なのである。

 最も重要なのは、個人が感情に左右されずに、本質的行動選択ができるかどうかであり。特定「能力。」を知能と見なすような現在の知能論というのは、単なる大衆迎合でしかない。

 個人が、自己自身の感情に左右されず、公益倫理的な行動判断をできるようになるためにはどうすれば良いのか。それにはまず個人的な純粋行為を持つことである。だが、単に持っただけではダメで、そこに個人的な価値観を置いた人生観を持つことも必要である。それは環境依存的なものでどうにかなるようなものではなく、同時に教育「環境。」だけでどうにかなるようなものでもない。ただ、少なくとも個人的価値観を大切にするような環境の方が、本質的自発的行為、純粋行為への価値観を持ちやすくなることは確かである。特に幼少期は。具体的な教育の方法論についてはここでは論じない。それは専門外でもあるからだ。

 私が論じたいのは、子供の教育ではなく、それを行う教育者自身の意識の問題なのである。そしてそれは子供の親も含まれる。刷り込まれた無意識的な強迫観念に基づく教育を、単に反射的に繰り返しているだけの人間ほどヒステリックで感情的に執着する。その典型が虐待の連鎖なのである。

 虐待をされた人であっても虐待を止めることができる以上、そうでない人間が無意識な価値観を放棄することが不可能であることの証明など存在しないのである。「俺はそうやって育てられた。」などというのは泣き言でしかない。そんな話をしている段階で教育者としては出来損ないであることを認識すべきである。

 公益倫理的判断として、子供の本質的意識を養うことに選択の余地など初めから存在しない。それが気分的に嫌だというのであれば、それは犯罪者に加担しているのと同義である。

 頭のおかしい人間同士で同じ観念を共有していれば気分的には安心であろう。自分の愚かさを意識から外し、過去の栄光を自慢して自信たっぷりに観念をぶちまけておけば気分的には満足であろう。そうした自己満足のまどろみこそが人間社会の諸悪の根源なのである。


 本能自体は選択できない。女性の好みが個人的に幼い少女であること自体はあまり変える余地は存在しない。それなら、その欲望をどのように「消費。」するか、その選択が重要となるのである。この選択こそが本当の選択であると言えるからだ。

 実害がないのであれば、どんなに多数からの批判をされても構わない。かつて江戸川乱歩は猟奇的内容を批判されたこともあったが、現在では賞のタイトルにまでなっているのである。社会や時代に左右されず、自分の本当に行いたいことであるなら、それは行なうべきなのである。社会的な評価や報酬に関わらず、個人的に熱中できることこそが、最終的には自己の自律判断に結び付く本質的意識、「意思。」を育むことになるからである。

 自分の気持ちが大切にできない者が、他人の気持ちなど推し量ることなど原理的に不可能なのである。

 間違っても多数他人と同じ観念を共有して気分的安心を求めてはならない。あくまで個人的な純粋行為として追求しなければならないのである。

 「相手の気持ちになって考えなさい。」とは良く聞く話であるが、自分の気持ちがわからないまま相手の気持ちを鑑みることなど原理的に不可能なのである。自分自身に価値を持たない者であれば、他人の気持ちにも価値など見いだせないのは当然である。

 なによりも優先して自分の気持ち、自分の純粋行為を大切にすることが重要である。先立つものがなければどうにもならない。逆に自分自身の純粋行為に価値を持っているのであれば、自ずと他人としての社会公益性にも意識は働くようになるものである。

 他人からお説教的に押し付けられなくとも、自然と相手の気持ちも判るようになるものなのである。

 無意識下に刷り込まれた強迫観念的なブレーキとしての「超自我。」というものは、結局はその場の気分、感情の大きさによって簡単にタガが外れてしまうものである。刷り込み学習的な倫理など、糞の役にも立たないことを認識すべきである。


 都の条例でR-18規制が強化されたが、表現自体を禁じているわけではない。条例に対する反論を見ると大抵は「作家が萎縮する。」とか「漫画が売れなくなる。」といった話ばかりで、そんな理由で子供の育成環境を犠牲にするのはおかしな話である。

 小学生がエロビデオを見て同級生を集団レイプしたという話があり、結構ネット上で取り上げられているようだ。子供というものは本能を自律的に抑制できないのが普通である、むしろ本能とか感情を自律的に制御できないから「大人」として出来損ないなのである。年齢だけ18歳以上であっても出来損ないは結構少なくない。それこそタバコの購入カードとかと一緒にR-18書籍購入に規制をかけても良いくらいではないだろうか。飲酒運転とか泥酔して「トラ箱」送りにされた者に対しての酒類販売規制をして欲しいくらいである。

 優先すべきは「安全」であって、作り手の一方的で個人的な「安心」を優先すべきではない。今まで野放し状態で儲かっていたいう「結果」をいくら枚挙しても、それは正当化する論理的根拠にはならない。

 現実にはカルト宗教の教祖の書いた書籍であっても規制はない。だから事実上思想信条に関する表現規制など存在していないのである。ということは何が間違いで何が正しいのかは読み手の方が判断するのが民衆主義の基本であり、それが単なる大衆迎合的な「流行」に流されていてはダメなのである。


 現在の生物学における「客観性」というものは実際には「傍観性」にしかなっていない。思考段階において客観性は必要であるが、結論において傍観してはならない。どんなにたくさんの「結果」を枚挙しても、それは自体は「目的」にはならないからである。

 生物学というのはヒトという生物における本質的意識の存在というものを意図的に無視しようとしている。「戦争をしても絶滅していない。」などと言っていれば、犯罪犠牲などは「さざ波」扱いになるのは当然である。それならヒトが犯す過ちのほとんど全ては生物学者にとってどうでも良いことだということである。

 チンパンジーの研究ならそれでもいいが。実際には脳科学や認知科学においてもこうしたパラダイムが継承されており、それがヒトの本能習性に起因する諸問題に対する障害となっているのである。起こったことは全て「結果」である、その結果を踏まえてどのような行動選択を行うかは「目的」意識によって選択されなければならないものなのである。現在の生物学はヒトが何をしたとしても「結果」だけが全てになってしまう。これでは何の進歩も促されることはない。それこそ絶滅を予言しておいて絶滅すれば業績であると思い込んでいるような奴が権威に君臨している。これらの異常性というものは生物学的な社会形成習性による批判性の欠落や、年功序列体制の無意識的構築性の結果である。他人のことも傍観するが、自己自身の判断までも傍観するというのは学者として糞の役にも立たない。税金の無駄遣いのみならず、社会的にも害を及ぼす実証不能の観念というものは科学界からは排除すべきなのである。

 研究の途中段階において思考の自由度は必要だが、結論については「勝手」はゆるされるべきではない。結論というのは既に起こったことの「結果」それ自体と同義ではない。このことを厳密に検証しないから無為無策に陥ることになる。

 マスコミの多くも、多くの生物学者と同様に文系の非理論的な観念の世界を好み、論理的精密検証も、それに伴う批判精神も持たずに、体制に迎合して年功序列的に服従するだけの人間が非常に多い。マスコミの社会的な役割として、権威性に対する批判は重要であるはずなのだが、なぜか政治に対しては必要以上に批判的でありながら生物学に対しては無意味に寛容である。これはおそらく「前例がない。」という慣習的な怠惰によるものであろう。

 慣習的怠惰というのが無意識であることは、別に説明しなくてもバカでもわかるはずである。


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依存症。

2011年05月09日 09時08分03秒 | 意識論関連
 買い物依存などの行動の原因は、刷り込まれてしまった快楽への行動学習であり。これは無意識学習である。

 意識の上では「やめなければ。」と「考え。」ながらも、感情がそれを上回ってしまう。

 これは要するに「考え。」が失われてしまっているからである。

 一つの解決策として、「他に燃える(萌える)ものを見付ける。」ことである。世の中にはいろいろな依存性を持った物事が存在するはずである。その中から他人との関係性に関わらない極めて個人的な価値観に関わる純粋行為への依存を持つことが一番良い。

 ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が必ず論ずるのが、「これなら自分は一生続けることができる、そういうものを見つけなさい。」というのがこれに相当する。


 ヒトは生物学的な社会形成習性があり、他人との関係性を求める傾向性があるため。どうしても個人的純粋行為への価値観を蔑ろにしてしまいがちである。

 買い物依存症の表面的「理由。」として、「自信。」というものがあり、これは「他人から見た自己。」であり、一般的に言われる「自意識。」としても意識であり、これが無意識なのである。本質的意識と一般的な自意識を混同してはならない。

 問題のある依存症の類というのは、基本的に無意識的な行動が促すものであり。本質的な意識が働いていないことが原因である。

 本当に個人的な純粋行為の場合、こうした問題のある依存症とは無縁である。それは純粋行為というもの自体が、それを行っている個人の意思、本質的意識に関わる行為であるからである。

 養老孟司の「虫取り。」自体には社会的な問題は発生しない。養老が支離滅裂な「嘘。」を言い出す原因は「他人からの評価。」に関わる「人間について。」の話であり。これもある種の依存症である。

 カルト宗教の教祖が支離滅裂な命令を下すようになるのも、養老の「嘘。」と一緒で周囲の人間からの要請によって、依存症的な無意識行動として支離滅裂なことを言い出すようになるのである。

 従って、カルト宗教というのは、教祖だけが作り出したものではなく。教祖に対して盲目的な「信頼感。」を抱き、命令を求める多数の信者達によって、教祖自体までも洗脳されてしまっている状態であると言える。

 冷静に考えれば、教祖の言っていることが支離滅裂であることは明白である。にも関わらず多くの信者が信じ込んで疑わなくなる原因は、信者の多数性にある。

 多数の信者が信じている状態において、信じることが安心を促し、信じない状態への不安感によって強迫観念的に信じ込む状態に陥っているのである。

 一般的には教祖がカルト宗教の元凶であると思われがちだが、実際には教祖自身も多数の信者達によって勘違い、洗脳されているのであり。むしろ多数の盲目性によってカルト状態というものは作り出されるのである。

 ビンラディン容疑者を殺害することで熱狂するアメリカ人達も、アメリカ政府の行ったことに対して何らの疑問も持たずに盲信することで熱狂できるのであり。これはアメリカ人以外には見られない極めて特異な行動であることを認識すべきである。

 熱狂するアメリカ人の、おそらく全員は被害者や遺族ではない。むしろ他人事であるからこそお祭り騒ぎができるのであり、「アメリカ人。」という括りで同じ観念を共有、共鳴することによる気分的興奮に酔っ払っているだけである。

 「買い物依存症と何の関係があるのか。」と思ったかも知れないが、普段から自己自身と社会という多数他人との関係性を区別していないから、カルト的熱狂状態に陥るのである。

 カルトに限らず、ペテンに引っ掛からないようにするためには、自己自身の強い意思が不可欠であり、自己自身で理論的に考え、自制し、自律的に行動判断する本質的意識が不可欠である。


 「心。」というものを考えるとき、一般的には合理性といったものとは異なるものであると思いがちである。一般的に言う「合理性。」追求とは、実際には経済性や金に関わる欲望感情に由来する無意識的本能によって選択される行動選択のことを指しているのであり。これは本質的には理性ではない。理論的に理性、合理性ではないのである。そのことを多くの人は理論的に理解できていない。若しくは気分的に「したくない。」。

 単なる欲望ではなく、広い視野、広い意識、認識に立って考えれば。どうのような行動判断こそが最も精神的平穏を得られるか。それを選択するのは理性なのである。

 ややこしいのは、「精神的平穏。」それ自体もまた、情動であり感情であるということである。様々な感情の中から最も重要な感情を抽出する段階において理性が必要となるのであり、単なる感情の大きさで反射的に選択されるような行動選択を大脳辺縁系は促すようにできている。「ヒトとはそういうもの。」なのである。「ヒト。」とはね。それはチンパンジーやイヌでも同じである。

 自己個人の単なる生物的な生存よりも、公益倫理的行動判断を自律的に選択する「心。」というものは。そこに本質的自発性がなければ選択されることはない。本能的な自己保存が優先してしまうからである。

 単なる欲望の「大きさ。」だけが行動選択基準となっている状態とは、そこに本質的自発的自律判断が存在しないからである。

 生物種としての「ヒト。」が、公益倫理判断を自律的に選択する「人間。」であるためには、単なる本能感情の大きさだけが行動選択基準とならない本質的自律が不可欠である。それは単なる生物学上での進化とは直接的には無関係なものであり、個人の本質的意識に関わるものであるから、生物種としての「自己。」であるところの既に存在してしまっているだけの自己、既存在としてのあらゆる無意識行動を客観視する本質的意識が「人間。」としての素養なのである。

 ややこしいかな。ややこしいな。

 たとえ自己自身の生存に関わるような状況であっても、公益倫理的判断を行うような「心。」というものは、単なる感情の大きさだけで選択されるようなものではない。

 自己個人の地位や利権を失う状況であっても、社会の平穏を優先する行動選択を行うというのは、理性以外の何物でもない。それは論理的には合理性なのである。「心。」というのは本能それ自体ではなく、理性によって抽出された本質的自己によって選択される行動である。

 多数世間や権威の促す、気分的に安心な行動というものは理性ではなく本能である。たとえそれが後天的に刷り込まれた行動であってもである。無意識下に刷り込まれた行動、情動行動に抗い、目先の感情とは無関係の行動選択としての公益倫理的行動選択を行うのは。既存在としての自己を客観視し本質的合理性追求としての自己の精神的平穏を優先する選択を自律的に行うから「心。」となるのである。

 環境に流されていて「心。」もすったくれもありはしない。どんなに感情的に嫌な思いをしたとしても、多数他人からの排除を受けようとも、公益倫理的判断を行うのは。そこに理性があるからに他ならない。


 たとえ学力学歴が低くても、公益倫理的な自律判断ができれば、それが本質的な人間としての「知能。」であり。それこそが本質的知性というものなのである。逆に高学歴で社会的成功をしようとも、天下りなどの合法的詐欺に固執している状態というのはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には全く同じ機械手続き的条件反射行動に他ならない。それはある種の能力ではあっても本質的には知能とは言えないのである。

 金を稼ぐことにだけ特化された、特定能力のことを本質的知能とは言うことができない。どんなに大量の金を所有しても、むしろ所有した金に麻痺して精神的には満足できず、取り憑かれている状態であれば、これはバカとしか言いようがない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力と同様、「エサ。」にしか意識が働いておらず。その過程においてどんなに複雑論理的行動選択を行ったとしても、行動原理が本能的な欲望である以上、それは知能ではなく、特定能力でしかないのである。


 学生時代に強迫観念的に学力を要求された人物は、大人になってからも多数他人からの評価報酬に対する機械手続き的条件反射行動として、社会的成功とか搾取にばかり固執してしまうようになる。アインシュタインが懸念した「ゲウ゛ァルト。」による強迫観念を用いた教育というものは、後に重大な社会的損失を生み出すことになるのである。

 原発利権の暴走がなぜ起きたのか、それは研究者の多くが本質的な自発的選択をしていなかった純粋性の欠如が原因である。原子炉自体が暴走する前に、利権の方が暴走していたことを認識すべきである。放射性廃棄物の処理方法も決まっていない状態のまま、なし崩し的に暴走をした原因は、そこに報酬が発生したからである。「エサ。」に対する機械手続き的条件反射として暴走したのである。

 いわば報酬依存症ともいうべき病気であるから、社会的な負荷、社会的な損失になど意識は働かなくても当然である。買い物依存症などと同様に、とにかく大脳辺縁系が快楽を得られる行動しか選択できなくなっているのであり、それが安全に対する意識狭窄を促してしまうのである。

 将来の危険性と引き換えに、目先の経済損失を回避するというのは、これは支離滅裂で全く合理性がない。経済優先の考えというものは本質的合理性を欠いた、目先の欲望によって促される行動選択であり。これは合理性追求でもなんでもないのである。

 こうした理論的な思考をしてこなかったから、感情に流され非合理的な選択を許してしまうことになるのである。

 目先の現実に迎合することが合理性ではない。理想に基づき選択される行動こそが本当の合理性というものである。



 一般的に社交的であること、コミュニケーション能力が重要視されるが。これは理論的に考えることのできない人間が、社会的成功を基準とした価値観によって導き出される屁理屈である。

 詐欺師ペテン師は社交的でコミュニケーション能力が高く、社会的にも成功しやすい。それが「EQ」の基準である。それは個人的な利益にはなるが、社会的には損失にしかならないことは言うまでもかなろう。私の説明が下手くそで、社交的でないからといって意識から外そうとしている人間ほど、コミュニケーション能力云々を主張するのである。

 元々興味のない人が理解できないのは仕方がない。しかし、学者やマスコミ関係者が理解できないとか、したくないなどというのは許されるものではない。「やる気がないなら、辞めちまえ。」と言いたい。やる気もないのに漫然と「他に仕事が無かった。」程度の理由で研究職や報道に従事すべきではないのである。だから「金にならない記事は書かない。」ことになってしまうのである。これではマスコミとしての社会的役割を果たすことができないのは当然である。

 アスペクト盲のようなものが、カルト宗教だけの特殊なものであると思うのは間違いである。アイヒマン実験の結果からも、多くのヒトは権威への盲目性は予め存在することが立証されているのであり。その事実から全てのヒトは権威への盲目性を持っているものであると認識すべきなのである。

 多数の人間と気分的な安心を追求しておいて「心が平穏。」などと言っているから危険性というのは増すのである。それは実際には「気分的に平穏。」なだけであって、盲目性によって合理的思考追求をしないから気分的に楽なだけであり、危険性ごと意識的から外して「心。」もすったくれもあったものではない。だから人類はいつまでたってもバカなのである。

 本当に「人間について。」興味があるならば、徹底的に追求すべきである。それが気分的に嫌な奴が関わっているから進歩がないのである。

 ニーチェなんぞ読んで悦に入っているようなバカが哲学者として認知されていること自体が根本的に間違いである。ゾロアスター教が理論ではないことを指摘できないようなバカが一体何を生徒に教えているつもりなのだろうか。下らな過ぎて話にならない。






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