書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

利己。

2011年05月24日 15時03分47秒 | 意識論関連
 本当の公益倫理判断というものは、自己自身の存在価値を自己自身で肯定できる者における結果的な他人への配慮であり。自己の他人からの評価を動機とした行動選択とは根本的に異なるものである。

 そもそも他人からの評価を求めていれば「自律。」ではない。評価も報酬も得られそうにない自律的な公益倫理判断をしなければならない状況、環境に置かれた場合。感情でしか行動が選択されなければ自律選択などされることはない。

 他人からの評価を動機とする選択とは、そもそもが利己的な感情、超自我的な脅迫観念に基づく感情的選択であり。それは本質的には自発的判断、意思の欠落を意味するものである。

 本質的自発行為、純粋行為もまた、個人的な好き嫌いに基づく行動ではある。しかし、これは他人からの評価とは無関係に「意思」を貫く意識的選択によるものであり。むしろこれによって利己的選択をしなくなるようになるのである。

 物質的な利己的行動選択をしなくなるのは、精神的な利己的行動によって脳が満たされているからである。

 純粋に研究に没頭して、外見上の禁欲性を発揮する研究者の類というのは。研究自体に対する純粋な好奇心、純粋な意欲によって、大脳辺縁系が気分的に「満足。」しているからこそ外見上禁欲的であり、また、公益倫理的な自律判断の可能性も高まることになるのである。

 自己自身で自分の脳が満たすことのできない者には、他人や多数他人である社会全体を思いやるだけの精神的な「余裕。」というものがないため。思考自体にも「余剰。」が存在せず、常に環境依存性しか発揮することができないのである。

 精神的余裕のない人間というのは、行動選択自体の全てに本質的自発性が欠落しているからなのである。

 この種の者の言い訳として、極めてパタン的、形式的なものであるが、「評価が得られなければ、やる気が起きない。」とか、「他に誰がやるんですか。」などというものがある。養老孟司の言う「誰が解剖なんて辛気臭いことをやるんですか。」というのも、本質的自発性の欠落を「証明。」するものである。

 つまり、社会環境に無意識的に流され、全く本質的自発性を持たない者の行動選択というものは、あらゆる「やる気。」が環境に依存しており、当然自律判断などできないのである。
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他人の顔色。

2011年05月24日 12時18分01秒 | 意識論関連
 他人の為を思うことと、他人の顔色を窺うことは同じではない。

 ペテン師が他人の顔色を窺うのは、他人の為ではなく、自分の利益のためである。

 ナチス政権下において、他人の顔色を無視してナチスに反対するのは公益倫理判断である。


 個人主義だの集団主義といった議論の全ては、傾向性や習性といった無意識的行動「結果」を論じているだけであり。これらの議論からは本質的意識に基づく公益倫理判断についての結論は導くことができない。公益倫理判断というものは無意識行動傾向からは偶発性以外に導き出されることはないからである。

 無意識的な傾向性から偶発的な公益性を抽出しても、そこには意識的に選択された目的がなく、常に「結果。」しか論ずることが出来ない。

 「社会的」とか「社交的」といった集団主義自体は公益倫理判断とは無関係である。アイヒマン実験における権威への服従などは、服従という集団主義意識が導き出す行動結果であり。権威に対する迎合性という習性が公益倫理判断を撹乱することを証明しているのである。

 個人主義的な人間が公益倫理判断を自律的にできるとは限らないのと同様に、集団主義的な人間でもそれは同じである。

 本質的意識とは、こうした無意識的な傾向性に関わらず、傾向性とは無関係に「自律」的に行動選択するためのものであり。どんなに無意識的傾向性を論じても、そこから本質的意識についての議論には到達することができない。従って、傾向性に関わる議論からは「ヒトが人間である所以。」である公益倫理的な自律判断に関わる議論は全くすることができない。

 そもそも研究者自体が公益倫理的な自律判断の全ては自分の置かれた環境に依存すると信じ込んでいるような、自律のない人間である場合。もはや議論自体を回避することしか意識は働かないであろう。環境に依存せず、常に自律的判断を行うことができない人間が、他の人の自律的判断力の存在自体を信用することなどできないからである。


 他人の顔色をうかがうという行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係で。あくまで目先の多数他人からの評価に対する利己的感情に由来する無意識的な情動行動に過ぎない。そのため、集団主義的な集団というのは、自己の所属する集団以外に対する普遍的な公益倫理性には意識が働くとは限らず。自分の所属する集団に対する利益にしか意識が働かない場合があるという点において、自己の所属する集団への利益しか意識を促さない傾向があり、一面的には公益倫理行動選択をする場合があるとしても、その行動選択傾向に普遍的な公益倫理性は伴うわけではなく、結果として「自己が特定集団に埋没した状態」における「利己。」的行動選択に過ぎないのである。超自我的な恐怖心に由来する無意識的な行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係である。

 本質的意識に由来する公益倫理的な自律判断というものは、如何なる傾向性、習性、或は個体が置かれた状況や環境に関わらず。より確実な判断を行うための「意思。」に基づくものである。無意識的な傾向性や習性の枚挙を根拠とする不確実な議論からは、こうした確実性の向上に関する結論は導き出すことが構造原理的に不可能であり。不毛である。

 心理学や生物学における傾向性や習性についての議論からは、「ヒトが人間である所以。」について議論することが最初から出来ないのである。傾向性や習性というものからは、生物種としての「ヒト」を傍観することしかできず、「人間とは。」何か、或は「心。」とは何かを議論することが原理的にできない。それは科学的な「客観性」ではなく、単なる思考停止による「他人事扱い。」としての「傍観」でしかないのである。それを「メタ認知。」などと称して正当化するのは赦されるべきものではない。科学者というのは、科学者である前に人間でなければならないからである。人間として出来損ないであるにも関わらず科学者としての知見ばかりを優先していれば、原発関連の研究者と全く同じで、高学歴なキチガイに過ぎない。

 重要なのは傾向性や習性といった無意識的な情動行動の「結果」ではなく。そうした傾向性や習性の枚挙による一面的「立証。」という思考形式、パラダイム自体の転換である。

 ところが本質的意識の働かない無意識的な人間、研究者やマスコミというのは。こうしたパラダイムシフトに対して異常なまでに拒絶反応を示す傾向がある。変化するのは外的な知識だけで、自分の思考形式自体に間違いが存在していたことは認識したくないからである。

 自分が教え込まれた思考の「形式」すなはち「パタン」を無意識的に盲目的に信じ込んでいることが気分的に安心であり。感情のおもむくままに思考「パタン」にしがみついて離れないのである。

 これは精神的怠惰であり、怠慢であるとすら当人には認識することができないようである。カルト宗教の信者達が必死になって事後正当化をするのと同様、当人的には努力しているつもりであるからだ。

 感情的にどんなに必死になっても、論理的思考が伴わない気分的必死というのは精神論的な「努力。」であって、事実上思考自体は怠惰怠慢なのである。


 何か一つのことを成し遂げる際には、それなりの外見上の努力は必要である。しかし、他人とは異なる個性を発揮するまでの努力には、他人とは異なる集中力が必要であり。その集中力を促すのは多数他人からの要請に由来する環境依存的動機ではなく、本質的な自発性、純粋行為に由来する集中力が必要なのである。

 現在の生物学、心理学、脳科学の研究者の多くは、こうした本質的自発性が決定的に欠落しているために。目先の利益になるような、大衆迎合的な観念に基づいた人気取りにばかり走っており、本質的意識についての議論自体を忌避して、従来の思考形式、パラダイムを踏襲することにばかり意識が働いているのである。

 これを意識狭窄と言わずして何と言うであろう。

 本質的な自発性を伴わない精神論的努力というものは、固定観念的に教え込まれた思考形式から逃れることが構造的に困難である。実質不可能といってもよかろう。パラダイム自体を変更するためには他人の顔色をうかがっていてはできないからである。

 思考形式自体を変更可能なのは、本質的な自発性による「思考。」であって、それを伴わない「思い。」がいくら強力にあっても無意味なのである。

 「思い。」をぶちまけたいのであれば、科学や哲学ではなく、芸術に供する研究を行えばよいのである。芸術であれば結論自体が存在しないのであるから、最初から「意味」も「価値」も存在しない。芸術における成功とは、社会的な成功、物質的充足と同義であるから。公益倫理的自律判断もしなくて良い。

 しかし、親や教師の顔色をうかがって身に付けた学力能力を事後正当化するために、本質的には自発性のない科学研究に携わることに「陥る。」ために、問題意識のない科学者が増えることになるのである。

 成績という抽象化された「エサ」で釣る形式の学力向上手段など、社会的な公益倫理性に反するものなのである。学力が高いだけのバカを大量生産しておいて、世の中が良くならないのは当たり前の話である。


 パラダイム、思考の形式自体を変更するというのは。そこに本質的自発性が必要不可欠である。純粋に疑問を追求する自発性がなければ、自己が教え込まれた思考形式自体にまで言及することができないからである。

 どんなに教えられたことを忠実正確にこなすこと可能であったとしても、それが他人からの評価報酬を根本動機とした反射的行動「結果」としての能力であれば、教えられた思考形式自体は自律的には変更することができない。すなはち、それは何ら新しい考え自体が発揮されることがないのである。

 「議論は無議論、無議論は議論。」などとツイッターに書き込んで議論自体を回避することしか意識にない者が教育関係の審議官とかやっているのが実情である。私は神ではないから、この世のバカのいちいちをあげつらっている程暇ではない。私一人がこの世の間違いの全てを正すことなど出来るわけがないのである。多くのヒトは、特定の誰か天才が、この世の間違いの全てをどうにかしてくれるものであると勝手に勘違いしているようだ。

 天才だとか英雄といった、所謂他人任せの観念自体が権威への盲目性というものを作り出していることを全く理解していないのであろう。

 呆れて説明する気も失せる。自分で自律的に判断して、自分から間違いを見つけるという気概が全く見受けられない。そんなことだからエセ脳科学者達に丸め込まれるのである。

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