本当の公益倫理判断というものは、自己自身の存在価値を自己自身で肯定できる者における結果的な他人への配慮であり。自己の他人からの評価を動機とした行動選択とは根本的に異なるものである。
そもそも他人からの評価を求めていれば「自律。」ではない。評価も報酬も得られそうにない自律的な公益倫理判断をしなければならない状況、環境に置かれた場合。感情でしか行動が選択されなければ自律選択などされることはない。
他人からの評価を動機とする選択とは、そもそもが利己的な感情、超自我的な脅迫観念に基づく感情的選択であり。それは本質的には自発的判断、意思の欠落を意味するものである。
本質的自発行為、純粋行為もまた、個人的な好き嫌いに基づく行動ではある。しかし、これは他人からの評価とは無関係に「意思」を貫く意識的選択によるものであり。むしろこれによって利己的選択をしなくなるようになるのである。
物質的な利己的行動選択をしなくなるのは、精神的な利己的行動によって脳が満たされているからである。
純粋に研究に没頭して、外見上の禁欲性を発揮する研究者の類というのは。研究自体に対する純粋な好奇心、純粋な意欲によって、大脳辺縁系が気分的に「満足。」しているからこそ外見上禁欲的であり、また、公益倫理的な自律判断の可能性も高まることになるのである。
自己自身で自分の脳が満たすことのできない者には、他人や多数他人である社会全体を思いやるだけの精神的な「余裕。」というものがないため。思考自体にも「余剰。」が存在せず、常に環境依存性しか発揮することができないのである。
精神的余裕のない人間というのは、行動選択自体の全てに本質的自発性が欠落しているからなのである。
この種の者の言い訳として、極めてパタン的、形式的なものであるが、「評価が得られなければ、やる気が起きない。」とか、「他に誰がやるんですか。」などというものがある。養老孟司の言う「誰が解剖なんて辛気臭いことをやるんですか。」というのも、本質的自発性の欠落を「証明。」するものである。
つまり、社会環境に無意識的に流され、全く本質的自発性を持たない者の行動選択というものは、あらゆる「やる気。」が環境に依存しており、当然自律判断などできないのである。
そもそも他人からの評価を求めていれば「自律。」ではない。評価も報酬も得られそうにない自律的な公益倫理判断をしなければならない状況、環境に置かれた場合。感情でしか行動が選択されなければ自律選択などされることはない。
他人からの評価を動機とする選択とは、そもそもが利己的な感情、超自我的な脅迫観念に基づく感情的選択であり。それは本質的には自発的判断、意思の欠落を意味するものである。
本質的自発行為、純粋行為もまた、個人的な好き嫌いに基づく行動ではある。しかし、これは他人からの評価とは無関係に「意思」を貫く意識的選択によるものであり。むしろこれによって利己的選択をしなくなるようになるのである。
物質的な利己的行動選択をしなくなるのは、精神的な利己的行動によって脳が満たされているからである。
純粋に研究に没頭して、外見上の禁欲性を発揮する研究者の類というのは。研究自体に対する純粋な好奇心、純粋な意欲によって、大脳辺縁系が気分的に「満足。」しているからこそ外見上禁欲的であり、また、公益倫理的な自律判断の可能性も高まることになるのである。
自己自身で自分の脳が満たすことのできない者には、他人や多数他人である社会全体を思いやるだけの精神的な「余裕。」というものがないため。思考自体にも「余剰。」が存在せず、常に環境依存性しか発揮することができないのである。
精神的余裕のない人間というのは、行動選択自体の全てに本質的自発性が欠落しているからなのである。
この種の者の言い訳として、極めてパタン的、形式的なものであるが、「評価が得られなければ、やる気が起きない。」とか、「他に誰がやるんですか。」などというものがある。養老孟司の言う「誰が解剖なんて辛気臭いことをやるんですか。」というのも、本質的自発性の欠落を「証明。」するものである。
つまり、社会環境に無意識的に流され、全く本質的自発性を持たない者の行動選択というものは、あらゆる「やる気。」が環境に依存しており、当然自律判断などできないのである。