書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

的外れな批判。

2011年05月19日 12時09分59秒 | 意識論関連
 「そんなことをして、何になる。」

 この言葉を言う人は多い。

 この場合における「何。」とは、目先の現実、すなはち「現状。」としての社会的評価報酬のことである。

 ノーベル賞などの業績を得た人の研究の多くは、その途中で社会的評価を得られないことは少なくなく、上記の言葉を浴びせられた人の話も多い。

 本当の意味における「現実的。」とは、単なる目先の現状への迎合のことを言うのではない。現状に甘んじるだけであればむしろ現実逃避に他ならない。

 日本人の多くは現状の社会や体制に対して無批判で迎合的なヒトが多く、新しく何かに挑戦することを諦めることによって精神の安定、大脳辺縁系の安息を得ようとする。

 自分の可能性を否定して、何もかも諦めてしまった者にとって。諦めずに挑戦し続ける人の存在が疎ましいので、「そんなことをして、何になる。」と否定しておきたいのである。

 他人の否定を行うことによって、自己肯定になるものだと勘違いしているのである。

 実際には何ら自己は肯定されていない。

 むしろ、自己自身の可能性を否定しているため、条件反射的に他人も否定しておかないと気分的に「嫌。」であるため。他人を批判する。

 動機が気分、感情であるために、その批判には論理的根拠が全く存在しない。

 こうした人間達同士で同じ観念を共有することで、彼らは更に気分的安心をするのである。

 これは秋葉原の通り魔の屁理屈人気の構造そのものである。


 何か新しいことを成し遂げるためには、その過程において評価報酬が得られないことは少なくない。養老孟司が「純粋行為を社会が認めないからだ。」などというのは、自分が虫取りに邁進する勇気がなかったことを正当化するための屁理屈である。養老はその一方で社会的評価のないことは意味がないとも言っており、理論的な整合性が崩壊しているのである。

 「現実を見ろ。」などと偉そうに他人を批判して怒り狂う。

 実際には「現状に迎合しろ。」と勧めているだけであって、現実からは逃避しているのである。

 ペテン師であっても社会的には成功する。その場限りの社会的成功にこそ意味がないのである。ナチスが政権を掌握したのも同じことである。

 目先の「エサ。」としての社会的成功、報酬というものを絶対基準にすれば。公益倫理的な自律判断などというものは原理的に不可能になる。

 同時に開拓精神、新しいことに挑戦する意欲も失われる。その結果、社会全体が萎縮してゆくことにもなるのである。現状に迎合していれば進歩がないのは必然だからだ。

 社会体制に間違いが存在しても、現状に迎合していれば改善することもなく崩壊するまで無為無策に陥るだけである。カルト状態集団の内部というのは常にそういうものである。



 他人の可能性を否定している暇があるのであれば、自分自身の可能性を開拓すべきなのである。

 それをやらないから「社会が悪い。」「他人が悪い。」とルサンチマン(怨恨)をぶちまけるだけの存在に成り下がるのである。

 それを目先の多数で共有して安心する。

 自分の言っていることが飲み屋の与太話に過ぎないことを、多くの人は意識から外し、目先の気分的安心を追求して強迫観念的に論理的根拠のない批判を繰り返す。

 バカというのはバカなので、バカの一つ覚えで同じ観念の中を堂々巡りすることしかできないのである。バカ同士で同じ観念を共有しておいて社会の諸問題が解決するわけがない。


 優先順位が気分的な感情で選択されていること自体が社会的負荷につながることを、多くのヒトは認識することができないのである。

 自分の個人的に好きな純粋行為は人畜無害だが、そうした純粋行為を放棄して論理的根拠のない批判ばかりしている者こそが社会にとって有害なのである。

 「俺の脳みそが気持ち良くないのは、環境が悪いからだ。」

 本来、自分の脳みそがどうしたら気持ち良くなるのかなどというのは、個人が自発的に探し出すべきものなのである。それを私は「ケツの穴の具合。」と形容する。

 自分のケツの穴をどの程度の力で拭いたら良いのかは「自分で拭いてみるしかない。」のである。自分のケツの穴であるから、他人のケツの穴をいくら批判しても無駄なのである。

 頭部結合双生児でもなければ、他人との脳神経回路の接続など存在しない。従って「俺の脳みそ。」云々というのは自己自身でなんとかしなくてはならないものなのである。

 酔っ払いの「ケツの穴の具合。」なんぞ知ったことではない。

 飲み屋で他人の悪口を共有して盛り上がっていれば、その場限りには大脳辺縁系が楽になれるであろう。それ自体が現実逃避であることすら忘れて目先のバカ同士で観念を共有しているのは簡単である。

 「ヒトとはそういうものである。」からだ。

 それが生物学的社会形成習性というものの正体である。


 批判精神は大切であるが、論理的な精密検証性に基づかない観念を振り回してはならない。それは何も「考え。」ていないということであるからだ。

コメント
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