久保田競(くぼた きそう)というのは京都大学の脳科学研究者で、「クボタ式。」とか言われる幼児教育で有名になったクボタカヨコの旦那だそうである。
結論からいうと、クボタ式は基本的に「猿まわし。」である。
親にとって扱いやすい、従順な子供にするには便利な方法であろうが。これを「才能教育。」と定義するのはおかしな話である。
この夫妻の息子が東大に行ったというのだが、東大に入ること自体が「才能。」だなどとはいうことができない。そもそも学力学歴社会的成功自体は本質的な知能とは無関係な基準であることを忘れてはならない。
クボタ式などの教室というのは、その教室の指導者が作り出す「空気。」によって、子供の意識を過剰に整理してしまうことによる集中力の増強であり。これはカルト宗教におけるセミナーや、押し売りセミナーなどの「空気。」と非常に類似した意識狭窄を促すものである。
指導者によって、幼児生徒の多くが促された行動によって。「それができないと、恥ずかしい。」といった雰囲気を作りだし。一種の強迫観念的な「空気。」によって盲目性を作り出すことによって、特定の能力機能ばかりを無意識的に学習させてしまうものである。
クボタ式が促す内容には、一部理論的根拠のあるものもないわけではないが。クボタ式の教室に関しては、大衆観念的な大衆迎合的才能教育論に基づいた、極めて一面的なインスタント「能力。」開発でしかなく、子供の個性をないがしろにした「生産。」方法である。
「子供が扱いやすくなった。」というのは、親の方の基準であって、「扱いやすい=知能。」というのは極めて短絡的で、主観的、非論理的な大衆的観念に過ぎない。
先天的な多動性障害とか、注意欠陥障害などの症状を持つ子供の場合であれば、感情を制御するための一面的効果があるのは確かであろうが。逆立ち歩きや瞬間記憶をさせて「才能だ。」とか言っているのはトンデモない才能教育論である。
瞬間記憶や速読を身に付けた人物が、ノーベル賞受賞者に多いとかいう知見は一切ない。むしろ記憶コンテストの類に熱中する人間の多くは他人との競争、他人からの評価につられた無意識的な条件反射的な行動、意識しか働いておらず、結構「イタい。(+。+)」人が少なくない。
久保田競の理論の中にはミラーニューロンを鍛える的な内容もあるが。ミラーニューロンというのは無意識機能であり、条件反射的な脳機能であることは言うまでもなく。これはアイヒマン実験における条件反射的な服従の原因ともなりうる無意識的条件反射行動を促すものでもある。
ワーキングメモり云々の話においても、結局は「何に使うか。」が問題であって。どんなにワーキングメモりが優れていようとも、公益倫理的な自律判断ができずに振り込め詐欺能力に使ってしまっていては、本質的には知能でもなんでもなく。むしろバカとしか言いようがない。
特定機能、特定能力がどんなに優れていようとも、それ自体は「道具。」でしかない。いかなる「道具。」であっても、使い方次第であることは言うまでもなかろう。
コミニュケーション能力と称して、相手の感情をコントロールできる能力であっても、詐欺ペテンに使ってしまっていては人間としては出来損ないとしか言いようがない。
久保田競は、基本的にEQについての反論も、またMI理論に対する反論もしておらず。何ら深い理論的考察が行われていないまま才能教育論を展開しており。極めて大衆迎合的である。従って大衆の多くが疑問を持たないのは、むしろ必然である。
多動性障害とか注意欠陥障害などの症状を持った子供に対し、一時的、或は方便的な感情制御を身に付けさせるためには効果があるとは言うことができるが。あくまで効果が出るまでの短時間だけに限定すべきであり、特定の「凄い能力。」を発揮したからといって、調子に乗ってクボタ式に任せきりにしておくのは危険である。
取り立てて扱い難くない子供の場合にクボタ式を採用するのは、むしろ子供の意識狭窄を促す可能性が高いので、むしろ受けさせない方がよろしい。
子供、特に幼児期というのは周囲の環境に対しての依存性が高い。大人に従わなければ生きていけない存在であるから当然のことである。それを「利用。」する形で特定能力の学習をさせるというのは、子供に対する一種の虐待ですらある。
戸塚ヨットスクールなども、いうなればクボタ式の延長線上にある指導法である。生徒の多くが服従するような環境を作り出すことによって、強制的、強迫観念的に服従させる「手法。」であり、インスタントに従順性を作り出す方法論である。
生物学的な社会形成習性というものは、幼児期における親への服従意識が根本にある。それを強化するような教育法というものを盲目的に信用するのは間違いである。
アインシュタインが懸念した「従順な臣民。」というものを、一般大衆は人畜無害なものであると勘違いし。むしろ権威への服従こそが社会を安定させるものであると錯覚する。多くのヒトは権威に服従していることの方が気分的に楽で安心だからである。
「私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人口的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。」
ーーアリス:カラプリス著 林一訳「アインシュタインは語る。」(大月書店刊)より。
従順な臣民とはどのような人物か。
それはナチス政権に迎合して600万人以上のユダヤ人を死体に変換する計画書を作成するような人物である。
アインシュタインはそれを「最悪。」と形容していることを忘れてはならない。
親にとって扱いやすい子供に育てることが必ずしも本質的知能を育むことにはつながらない。服従している親自体が無意識的でバカなら、そんなバカに対して盲目的に服従している子供もバカでしかないのである。
子供のことをどうにかする前に、親自身、大人自身が自分の本質的意識とは何かを認識するのが先決である。
根本が間違っているのに枝葉だけ取り繕っていたのでは全く無意味である。