書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

掌紋。

2011年12月01日 22時55分32秒 | 日記
 掌紋の判別の誤りというものはどうしても人が行う以上不可避であろう。それを捜査員の不祥事みたいに言うのはちょっとおかしい。

 右手左手に限らず、あらゆる可能性についても検索するシステムを構築しても良いと思う。

 とりあえず登録されたデータに基づいて検索した後、登録されていないあらゆる可能性に基づいて検索し直しても良いと思う。警察のデータベースなんて夜中は誰も使っていないんだろうから、こういう時間帯に自動検索させておけば良いと思う。

 あんまり努力辛抱根性といった精神論ばかり追求しても実質的効果を上げることは難しい。間違えない捜査員など理論的に有り得ないからだ。

 どうも警察というのはコンピューターの扱い方を間違えているフシがある。

 おいらが自転車盗まれた時に交番に訴えたら、「防犯登録番号を教えて下さい。」だとか言われた。登録者と住所から逆引きすれば、登録番号など簡単に検索可能なはずなのに。「出来ません。」の一点張りである。果たして自分が乗っている自転車の防犯登録番号を覚えている、或はメモっている人がどれだけいるだろうか。

 自転車の防犯登録をしている人は登録番号をどこかにメモっておいた方がいいだろうね。
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SQ。

2011年12月01日 18時35分19秒 | 意識論関連
 最近SocialQuotientなるものが「流行」しているとのこと。

 やれ「IQだEQだ、いや、時代はSQだ。」などと「xQ」指数といった「成績評価」基準で安易に自己の価値を分析できることになっていると大衆の気分を高揚させることが可能であるらしい。

 IQからしてそうなのだが、あらゆる「なんとかQ」指数の類には科学的根拠があるわけではなく、それこそEQなど占いに使われる始末である。

 結局は成績評価を短絡的に与えられることに対して、無思考な大衆の大脳辺縁系が快楽を感じるらしいことから、金儲けに利用されているだけである。

 そもそもSocial(社会性)の定義自体、生物学的社会形成習性と、人間としての社会性の明確な分別も周知されていない時点で「社会性」の定義自体があやふやなまま一体何を基準にして人格にランク付けをするというのであろう。

 そもそも人格というものは個人の気分的な好き嫌いや、気分的傾向性から抽出できるようなものではない。

 気分的にどんなに他人を大切にしている「つもり。」になっていても、「人類の救済。」と称して地下鉄に毒ガスを撒いていたのでは意味が全くわからない。当人の気分的意識である無意識性をどんなに枚挙しても、本質的人格性を測ることなどできないのである。

 どんなに気分的にやさぐれていようとも、攻撃的であっても、多数大衆に迎合していなくても。公益倫理的自律判断を左右されないことが重要なのである。従ってSQなどというものに価値はない。

 それとも気分的に大衆迎合しておけば人格であると勘違いしておけば大衆の大脳辺縁系は満足なのであろうか。だとすれば、こうした短絡的気分こそが人間性であるという短絡的アプリオリな「感覚」こそが錯覚であり。バカの原因なのである。原発推進派が自信満々に公共益だと言い張るのも、彼らの脳がバカになっているからである。

 自分の愚かさを認識しなければ気分的には満足であろう。当然バカの上塗りにしかならない。バカの真似をして安心か、少しは自分の大脳新皮質で「考え」てみてはいかがであろう。

 出版業界マスコミは金になりさえすればどんな嘘でも平気でつくものである。ゆめゆめ鵜呑みにしてはならない。SQでどんなに高い点数を採っても、それが具体的に公共の利益には全くならず、単に点数に酔いしれ、その場限りの気分的満足を促すだけである。

 少なくともこれを読んでいる方々はこうしたバカげた流行を鵜呑みにしてはいないことを望む。
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気分の問題。

2011年12月01日 00時01分17秒 | 意識論関連
 アランだのニーチェといった、論理整合性の欠けた話の方が多数の大衆にとっては「人気。」があるらしい。

 アランの言っていることには論理整合性どころか、そもそも論理的根拠がない。

 「幸福は義務。」であることの根拠が全く示されておらず、大衆の気分を高揚させるだけの人気取りに過ぎない。

 大衆の人気取りに大衆からの人気があるのは必然であろう。

 哲学というものは、論理的根拠もなく勝手に何かを決め付けることではなく。あらゆる疑問に対して真摯に向き合う「考え。」をやめないことを言う。

 単なる「ポリシー」のことを「フィロソフィ」とは言わない。
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