書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

被害者感情。

2011年12月23日 13時58分22秒 | 意識論関連
 被害者でありさえすれば感情論が正当化されるというのは何かおかしい。

 事故における被害の大きさと過失の無責任さとは必ずしも比例するものではない。とても無責任な行動をとっているとしても事故にならないこともあるし、逆に普段は責任ある行動をとっていたとしても偶発的に重大事故になってしまうこともある。

 それに対して、被害者の感情論というのは、「結果。」的な重大さだけに依存してしまう傾向があり。これは社会的安全性確保とは無関係の、被害者の個人的、主観的感情論にしかならない。

 そもそも感情論を持ち出すのであれば、加害者の感情論はなぜ無視されるのか。それは主観的で個人的であることから「身勝手。」であるとして無視されるのである。

 ところが被害者に限っては、こうした「身勝手。」な感情論の共感性を求めるというのは論理的社会安全性を無視した話にしかならない。

 裁判判決というのは社会公益的な根拠が必要であるはずであるが。それが被害者の感情論の影響に左右されてしまうというのは合理性を欠いてしまう可能性が高い。

 犯罪者を死刑にしたり、再犯率が下がらない懲罰を漫然と厳罰化したりすることというのは。犯罪や事故というものの根源的原因の論理的解析や原因究明、それによって導き出せる可能性を持つ対策といったものを無視してしまうことがある。

 裁判というのは本来公共益に供さなくてはならないものでありながら、被害者という特定の人達の感情論に依存してしまうというのは、これから起こりうる事件や事故に対しての合理的対策を無視してしまうことになりかねない。

 たまたま重大な結果にならなかったからといって、それが被害者感情的に赦されるような判断をしてしまうから。重大事故や犯罪の予兆を見逃してしまうことにもなるのである。

 テンカン患者がクレーン車で子供を6人も轢き殺した事故においても、その重大事故の前に何度かの小さな事故を起こしている。この時点において被害者がいなかったからといって加害者の無責任性を追求していなかったからこそ、重大な事故が起こるまで放置されてしまったのである。

 実際に事故や事件が重大化するまで放置されてしまう原因というのは、その司法判断に被害者の感情論を必要としてしまうからである。

 通り魔やテロといった意図的犯罪においても、こうした反社会的思想というものがどのようにして醸成されてしまうのかについての工学的見地に基づいた合理的原因究明や、それに伴う対策というものこそが、本当の意味において社会的公共益になるのである。

 つまり、目先の犯罪者に復讐しておきさえすれば犯罪が減るわけではないということである。

 自分の子供が殺されたことに対して厳罰を要求したからといって、これから起こりうる可能性のある事故や事件に対しての影響にはならない。

 「自分の子供が哀れだ。」と言っているだけでは、「他人の子供を守る。」ことにはならないのである。それを「知ったことではない。」などと言うのであれば、それは公共の税金を用いて行うことではない。それこそ山口県の母子殺害事件の本村さんではないが、「無罪にして釈放して頂ければ、私が殺します。」というのと同じである。

 別に感情がわからないわけではないが、ただ漫然と感情論に依存していても何の進歩もないことを認識してい頂きたい。



 ヒトという種の生物というのは、本能的感情が優先してしまう性質がある。それこそが論理的安全性を遠ざけることになってしまうのである。「感情=行動。」であるならば、それは通り魔の行動原理と全く同じではないか。

 本当に「人間。」社会において必要とされるのは、気分的「安心。」ではなく、合理的「安全。」性の追求である。被害者の個人的感情によって社会の安全性が排除されてしまうのは、公共の司法の役割として間違っている。

 そもそも養老孟司なんぞ読んで「あぁ、自分の頭が良くなった。」ような錯覚に陥っている時点で充分愚かになっているのである。養老やニーチェの著書というのは論理的思考を放棄させ、撹乱して気分的満足を与えることによって、あたかも「自分は頭を使った。」ような錯覚に陥れているだけのペテンに過ぎない。

 気分的な事柄に触れず、バランス問題にでもしておけば大衆凡民というのは気分的満足によって現在の社会制度に対する問題意識を失い、気分的に安心して漫然と体制維持に加担することが可能である。

 一般的に、こうした大衆迎合的な「話を丸める。」ような、表面的に多数他人の顔色をうかがうことを「コミュニケーション能力。」と言うが。これこそが生物習性的な「社会形成習性。」による本能的行動の現れである。

 本能を優先しておけば論理的思考は放棄される。気分さえ良ければ満足だからである。

 しかし、それによって合理性が放棄されることによって、合理的安全性の追求が失われることになるのである。

 被害者感情的には「嫌な話。」であろうことはわかっている。気分的「共感性。」がないことも承知の上である。

 養老だのニーチェのように、ご機嫌取りや撹乱によって何ら思考を促さないように仕向けてしまえば、「失礼。」なのかどうかすら撹乱することは簡単である。当然物事の核心には全く触れず、表面的に「核心に触れたような雰囲気。」だけを醸し出しておくことも可能であろう。多くの大衆はそれで「満足。」する。その気分的「満足。」こそが思考を停止させてしまう最も大きな原因である。

 それこそ「満足。」を得るためなら振り込め詐欺に騙されてでも振り込もうとするのである。

 「金を振込みさえすれば。」と同じように、「加害者を、より重い刑罰を与えさえすれば。」被害者達は気分的満足を得るのであろう。

 環境依存的に条件反射をするだけなら、それは「人間。」であることの価値にはならない。自分の子供を殺された親の気分自体が全くわからないわけではないが、「気分=行動。」で良いというのであれば、私だって殺したい奴ならいくらでもいる。通り魔の「気分だけ。」なら共感不能ではない。しかし、方向性のない無差別殺人によって問題が解決するわけではないことを、論理的に「考え。」ているから、私は短絡的行動には「走ら。」ないのである。

 単なるご機嫌取りなどというのは、「ヒトとして平均的。」な行動でしかないのである。平均的行動に「安心」したり「満足」するというのはヒトの習性でしかない。

 環境が悪いと称して、「社会制度が悪い。」とでも言っておけば自律なんぞに言及しなくても良くなる。そもそも社会制度自体を作っているのは「みんな。」である。「みんな。」という広く薄い対象に漫然と責任転嫁しておけば、具体的原因には言及しなくても大衆は満足するのである。自分自身の自律を無視できるからだ。それを多くのヒトは無責任だとは「思わない。」のであろう。それなら何が起きても文句を言う権利など最初から放棄しているということでもある。


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