カオス理論における「バタフライ効果。」のように、自然界における淘汰というのは初期条件の僅かな違いによって偶発的に結果が大きく異なるものである。
このような偶発的な結果だけによる結果的選択だけでは「適者生存。」であることの論理的証明にはならない。より生存に適した個体が偶発的に淘汰死亡していないことを証明することができないからである。
そもそも「生存。」だけを絶対的正義とするのであるならば、別に知能も社会性も必要であるとは言えないのである。
生存に適さなかった個体を「捨て駒。」程度の意味しか与えない現在の生物学において、個体が社会や環境に対しての貢献などあってもなくても、どちらでも構わないのであって。「個が個である意味。」は現在の生物学において意味を持たない。
社会貢献をしようが、振り込め詐欺であろうが、生存してさえいれば「正しい。」ことになってしまうのである。
さらに言えば、詐欺がばれない、或は天下りのように合法的詐欺であれば生物学的には「適者生存。」である。
従って、個体における自律的公益倫理判断選択というものは、現在の生物学における「正義。」の下においては「どうでも良い。」ものでしかないのである。
こうした生物学の無責任性を放置しておいて、「ヒトが人間である所以。」になど原理的に言及することは永遠にできない。言っておくが、脳科学や認知科学も生物学の範疇であり。彼らの多くは脳トレ類によって大衆ウケを求めるばかりで、本質的知能や意識といったものの何たるかといった「気分の悪い。」大衆ウケの悪い話には興味がない。それは科学的に純粋な追求が動機なのではなく、無知無能な大衆から合法的に金を巻き上げることが動機であることの証明である。
脳トレ類が実際には知能に影響を及ぼさないことは英国の大規模実験によって「立証。」されており、その後に取り繕われている「○○認知能力。」などの類についても、あくまで彼らがでっちあげた基準に基づいて評価されているものであって、極めて特定の限定的能力評価にしかなっていないのである。
単なる「試験脳。」として高い成績を得ても、それが常にあらゆる事柄に対して発揮される証明にもならないし。ましてや公益倫理的自律判断を行うことの証明にもならない。
そもそも、脳トレ類において「脳に良い。」ことの論拠とされたのは「脳血流増加。」である。実際に脳血流の増加が観測散々観測されたにも関わらず、実質的には何の効果も無かったということは。脳血流の増加と知能向上との相関関係は初めからなかったのである。ところがマスコミも含めて脳科学者達の誰もこれについて言及する者はおらず、未だに「脳血流=頭が良くなる。」という短絡的根拠にしている。
大衆ウケが良い脳トレ類の利権を維持するためだけの言い逃れの全ては、いわば本質的知能とは何かについて言及する意思が最初からないからこそ行われるものであり。怠慢というよりは詐欺行為である。
このように脳科学者自身による詐欺行為の横行を許しておいて、振り込め詐欺の撲滅に対する研究などされるわけがない。
いわば、振り込め詐欺の手法をばらすということは。いわば脳科学者自身の詐欺の手法もばらさなくてはならないからである。
暗記術の類というのは、いわば脳の癖、習性特性を利用した小手先技に過ぎない。暗記術の類をどんなに習得しても、それが認知症にならないことの論証も検証も未だされてはいない。
むしろ暗記術の類に成功して、自分の頭が良くなったと錯覚している短絡性自体が愚かさの証明であることには、誰も気付くことはないし。また言及もしない。
暗記コンテストで優勝した者というのは、実際には暗記以外には何もできない「暗記脳。」に特化されているだけであって、本質的知能とは全く無関係な行為でしかないのである。事実、暗記コンテストで高い成績を得ても、実質的科学業績を得るような発明発見とは無関係なのである。
本質的知能、本質的意識というものは、特定の評価基準に基づいて特化された限定的能力によって導き出されるようなものではなく。むしろ既存の特定基準とは全く無関係な領域において導き出されるものである。
ヒトというのは、とかく数値成績などの抽象化された評価基準を与えられ、順位付けをされることによって気分的満足や安心を得ることにしか意識が働かない習性がある。クソゲー、いわゆるソーシャルゲームの類の「人気。」というものも、要するにゲーム設計における抽象化された数値成績を他者と比較することによる気分的満足を促すことによって作り出されたものであり。ヒトの脳に本能的に組み込まれた競争本能を利用した、いわば優越感錯覚を与えるだけのものである。
SQなども、結局は他人との成績比較によって、気分的な優越感や、或は焦燥感を煽ることによって。むしろ基準そのものの論理的検証性から意識を遠ざけるのである。
ヒトという種の生物は、目先の実感を伴った「感覚。」こそが絶対的「現実。」であると錯覚する習性があるため。感覚的優位性、或は強迫観念を、論理的には根拠の有無に関係ない抽象化された数値を与えられることによって、その数値成績に論理的根拠が存在しないことには意識が働かなくなるようになるのである。
こうした論理検証性が感情によって欠落してしまうことこそが、本質的知能を失う根源的原因である。振り込め詐欺に引っ掛かるのも、感情という大脳辺縁系の反射によって、論理検証性が失われてしまうのが原因である。
いつまでも脳トレ類の利権に取り憑かれ、脳トレ類の無益さについて公表しないマスコミというは。いわば振り込め詐欺に加担しているのも同然である。
これらの事柄について言及している脳科学、生物学者は極めて少数である。だが、科学的証明というものは多数決によって決定されるものではなく、あくまで論理的検証によって追求されなくてはならないものなのである。バカの多数決をどんなにたくさん抽出してきても、「バカの言っていることが正しい。」証明にはならない。
厄介なことに、バカというのは自分がバカであることを認識できないからこそバカのままなのであり。どんなにバカであることを論じても馬耳東風なのでどうにもならない。
生物学者達というのは、とにかく生物というものの優位性、或は機能の高度さを正当化したいだけであって。その感情の根源とは、単に「生物が好き。」という短絡的、且つ主観的好みだけが動機である。
だからこそ「自然は素晴らしい。」といった形容や、或は「とても良くできている。」などといった程度問題による結論しか導き出すことができないのである。
どんなに生物や自然界の「素晴らしさ。」を枚挙したところで、振り込め詐欺や残虐なゲリラの行動習性の正当化にも、或は原因究明や対策にもならない。
そもそもが主観的形容の正当化でしかないのであれば、それは最初から自然科学の範疇には入らない。
だから脳科学界は無能なのである。
ヒトの脳の習性を利用して大衆迎合をしているだけであって、大衆の頭の悪さを認識させるという「ウケの悪い。」ことを避けている限り。本質的知能とは何か、或は振り込め詐欺への対処といったものへの研究もされることはない。
大衆やマスコミ自身が、こうした脳科学界の手抜き、大衆迎合、詐欺行為について言及しなければ。脳科学者達は誰一人として自律的には自分達の行動や言動を脱構築するつもりは全くない。
どんなにたくさんの大衆から気分的「人気。」を集めてきても、それによって具体的「成果。」になるわけでも何でもない。
逆にいえば、100IPアクセス程度しかないこの記事を「少数派。」であるという理由だけで無視するというのは、科学的でもなければ、本質的「公平。」さにもならないのである。
無思考な者の多数決によって得られる「人気。」や「話題。」しか取り上げないというのは、報道の在り方として極めて大衆迎合的で不適切であり。また「無意識的。」である。
無思考な多数決というのは、結局誰にも目的意識が存在しないということであり。暴走を招く洗脳につながる危険性も充分含んでいる。それを漫然と放置するというのは報道としての社会的責任の放棄である。
「誰の言っていることが正しいのか、わからない。」などと言うのであれば、それはもはや報道としての自律的判断力自体が欠落しているのであり。全くの無能を晒しているだけである。だから「辞めちまえ。」と言っているのである。学力や学歴だけしか持たないバカであれば、もはや日本には必要ないからのみならず、社会にとって有用な情報を隠蔽阻害していることになるのである。
クソゲーだの脳トレだのSQだのといった、大衆迎合による金儲けばかりに邁進しておいて。社会的役割を放棄するというのは報道の在り方として間違っている。クソゲーがスポンサーとして「お得意様。」だからといって、無批判でも構わないというスタンスというのは極めて利己的判断である。決して許される行為ではない。
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