書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

最近撮った写真。

2011年12月21日 16時41分38秒 | 写真

荒川の千住新橋のところにある足立区の施設から南千住駅方向を撮影。


荒川にある芝川の水門のところで、たくさんの人が西の空にカメラを向けていたので、何かあるのかとよくみたら。

富士山でした。

時期はずれなのでダイヤモンド富士には程遠いですが。
GoogleMap


朝霞水門の上流から下流に向かうところなんですが、このまま河川敷を直進すると行き止まりになっています。行き止まりであることの表示が全くないので、朝霞水門が見えたらこの坂を右に登らないと、その先には行けません。
GoogleMap


荒川河川敷を羽根倉橋まで行ってみたんですが、ここより上流には川沿いの道が見つかりませんでした。みんなどうやって上流に行ってるんだろう。


一度サイクリングロードが整備されたらしいんだけど、封鎖されてて、しかも表示にある迂回道も工事中で通れなかったです。わけわからない。埼玉県ってこういうところの手抜きが多い。
GoogleMap *航空写真に切り替えると、やっぱり表示看板を読もうとする自転車の姿が。


荒川河川敷は堤の全面改良工事が始まっていて、今は笹目橋と戸田橋の間が自転車通行不可(降りて押せって言われる。)なんですが。東京都が言うには全面的に工事するそうなので、これから工事区間が増えるかもです。


イタリア製の軽自動車だそうです。子供のおもちゃみたいでかわいい。これ電気自動車に改造したら売れそうだけどな。
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言い逃れ、取り繕い。

2011年12月21日 00時03分45秒 | 意識論関連
 メスを巡る同一種間における競争というものに対し、「より優秀な遺伝子を遺すための生存戦略。」などと形容するのは、こじつけ以外の何物でもない。

 個体において種そのものの存続になど「意識」が働くはずもなく、ただメスを巡って本能を満たすための利己的行動として暴力競争を行っている「結果。」として、たとえ「より強い遺伝子が選択。」されるとしても、そこには個体の「意識」的行動選択が働いているわけではなく。あくまで暴力的な略奪の結果が偶発的に生存に適した結果に過ぎない。

 もし「より優秀な遺伝子。」が選択されないような本能習性を持った種や個体が生存に適さなかったがゆえに、結果的に「より優秀な遺伝子。」が選択「される。」ような種に結果的に淘汰されただけであり、そこに個体の意識的行動選択が介在する必要性も、また個体にとっての利得もなく。合理的説明になっていない。

 個体にとって、種の存続のために自分より優秀な遺伝子を持った個体に繁殖を譲ることの論理的利得など存在しない。従ってあらゆる個体には「種の優位性。」だの「存続。」といった事柄に対しての「意識。」が存在するなどということは有り得ないのである。

 生殖行動に本能的暴力行動が伴うことに対して、そこに何らかの「目的。」など存在せず。ただ単に本能習性のままに機械的条件反射行動として暴力行動が伴うことに後から屁理屈をこじつけるというのは科学的分析とは言えない。

 もし、「結果。」として生存に適するような行動であろうと、なかろうと。それらは全て「結果。」であり。そこには個体の意識的行動選択というのは介在する証明は存在しないのである。

 偶発的に本能習性による行動の結果が生存に対して高度に機能するとしても、それらの本能習性というものは個体が意識的に選択した行動であることにはならない。

 ヒトが本能習性のままにアイヒマン実験のような環境下において他者に危害を加える「習性。」があることに対して現在の生物学は「説明。」することができず、「進化の袋小路。」「暴走。」などと言い逃れ、取り繕いしかすることはない。

 ことほど左様に、本能習性による機械的条件反射行動の「結果。」というものの一面的優位性をどんなにたくさん枚挙しても。本能習性こそが常に絶対的に優位な結果に結び付くことの論理的証明にはならず。ましてや人道的で公益倫理的な人間としての社会性を常に発揮させることの証明になど、全く成り得ない。

 ヒトが、たとえ「同意の上。」において繁殖したとしても。配偶者が暴力によって子孫の養育に悪影響を及ぼすことも少なくない。従来の生物学においては、こうした現象であっても環境依存的「理由。」や偶発的な「特異性。」であるという言い逃れしかしていないのである。

 つまり、現在の生物学というのは、ヒトという種の生物に自由意思選択というものは存在しては「困る。」のである。

 こうしたからの「取り繕い。」による体制維持体質、閉鎖性というのは。まさに従来の生物学における本能的社会形成習性によって無意識的に構築されているものであり。こうした無意識的な習性こそがヒトの脱構築可能性を失わせる原因でもある。

 単なる「生存。」だけが絶対的価値であるならば、シエラレオネという環境においては残虐性を競うゲリラこそが「生物として優秀。」という帰結しか導き出されない。

 それはもはや「人間。」においては全く役に立たない戯言寝言でしかない。


 ダーウィンが導き出した進化論というのは、ヒトの生物種としての優位性は存在しないことを証明しているが。「ヒトが人間である所以。」にまでは、そもそも言及すらしていない。

 進化論を用いて特定の生物種の優位性を「証明。」することは根本的に最初から意味を持たないのである。こんな下らない事も自律的には理解できない生物学者を国立大学で雇う価値など全くないのである。


end;
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