犯罪者が捕まったっていうニュースが時折あるけど、犯罪者が犯罪を犯した理由として上げることが多いのが、「恐かった」とか「世の中なめていた。」とか、「甘く見ていた。」といった言い訳が出てくることがある。
これは要するに、行動の原理が感情(大脳辺縁系の反射)と直結していることを意味している。
アイヒマン実験のような環境下における「ヒト」という種の普遍的行動習性として、権威に服従してしまう傾向性というものがあるのだが。これこそが感情、気分という本能的な生物学的社会形成習性としての服従行動を促してしまうのである。
オリンパスの会長のご機嫌を損ねないように。大王製紙の御曹司のご機嫌を損ねないように。西武グループの会長のご機嫌を損ねないように。
多くのヒトは気分的に権力者のご機嫌を損ねないように振る舞う行動習性というものがある。
ちょっと古いかもだけど「KY」ってやつかな。「空気を読んで。」しまうわけだね。
そもそも、これにおける「空気。」って何かというと、実際には個人の気分によって「感じる」(むしろ個人においては「実感」を伴って。)大脳辺縁系の反射であって。あくまで主観的な行動習性を促すものに過ぎない。
ヒトっていう生物種は、もともとが合理的存在なんかではないから、行動習性というものに不条理性を伴っているのは仕方ないもの。
だから、既に存在しているだけの自己には本質的自律選択というものは導き出されることはない。
たまたま経験的に「恐い」思いをしたことがあって、それが行動に影響しているだけであれば、これは「自律」であるとは厳密には言うことができない。
アイヒマン実験においても、ナチス政権下を体験したドイツ人の多くが「ひっかからない。」という「傾向性。」自体は自律判断によるものとは言うことができない。
こうした悲惨な体験を経なければアイヒマン実験のような環境下で「ひっかかって」しまうのであれば、これは世代を超えて教訓として受け継ぐことにはならない。
世代を超えて教訓として受け継ぐためには、単なる「安心。」という気分的、本能的行動習性に依らない、論理的行動選択、意識的に広い視点を保つという自己感情制御というものが不可欠なのである。
カルト宗教において、教祖のご機嫌を損ねぬよう振る舞えば、人間としての行動選択は出来なくなる。これはナチス政権下においても、大王製紙社内においても、原発の安全性議論においても普遍的に言える。
むしろご機嫌取りに終始してしまうからこそカルト化、体制腐敗を招くことになる。
多数権威に「原発は絶対に安全。」と強弁されたからといって、論理的議論を放棄してしまった結果が原発暴走を許した「ヒト」の悪い習性に由来していることを認識すべきではないか。
「教訓」というのは論理的に認識して初めて世代を超えて受け継ぐことが可能となる。それができないのは気分という大脳辺縁系が作り出す行動バイアスによって、普遍的に同じ過ちを繰り返すことになってしまう。それを養老孟司は「ヒトとは、そういうものである。」と思考停止に導くのである。
残念なことに、その方が大衆ウケが良い。
ヒトという種の性質として、気分感情を優先して思考を放棄させる話の方が多数人気を得易い傾向がある。
美術芸術に関わる話であれば、それはそもそも大脳辺縁系の反射による好き嫌いの問題に帰結するので、「どうでもいい。」とか言っちゃうと、芸術表現に真摯に取り組んでいる人には嫌な言い回しになっちゃうけど。まあ、普遍性には影響はない話ではあります。
特に個人の心理に言及しちゃうと、まるで個人攻撃みたいに「見えて。」しまうのかも知れない。おいらの話は雰囲気だけで認識されちゃうと真意が見えなくなってしまう。
だから本質的社会性云々の話も、雰囲気だけ取り上げて「SQ」だとかいう勝手な基準に話をすり替えられてしまうと意味が吹き飛んでしまうのです。
これは要するに、行動の原理が感情(大脳辺縁系の反射)と直結していることを意味している。
アイヒマン実験のような環境下における「ヒト」という種の普遍的行動習性として、権威に服従してしまう傾向性というものがあるのだが。これこそが感情、気分という本能的な生物学的社会形成習性としての服従行動を促してしまうのである。
オリンパスの会長のご機嫌を損ねないように。大王製紙の御曹司のご機嫌を損ねないように。西武グループの会長のご機嫌を損ねないように。
多くのヒトは気分的に権力者のご機嫌を損ねないように振る舞う行動習性というものがある。
ちょっと古いかもだけど「KY」ってやつかな。「空気を読んで。」しまうわけだね。
そもそも、これにおける「空気。」って何かというと、実際には個人の気分によって「感じる」(むしろ個人においては「実感」を伴って。)大脳辺縁系の反射であって。あくまで主観的な行動習性を促すものに過ぎない。
ヒトっていう生物種は、もともとが合理的存在なんかではないから、行動習性というものに不条理性を伴っているのは仕方ないもの。
だから、既に存在しているだけの自己には本質的自律選択というものは導き出されることはない。
たまたま経験的に「恐い」思いをしたことがあって、それが行動に影響しているだけであれば、これは「自律」であるとは厳密には言うことができない。
アイヒマン実験においても、ナチス政権下を体験したドイツ人の多くが「ひっかからない。」という「傾向性。」自体は自律判断によるものとは言うことができない。
こうした悲惨な体験を経なければアイヒマン実験のような環境下で「ひっかかって」しまうのであれば、これは世代を超えて教訓として受け継ぐことにはならない。
世代を超えて教訓として受け継ぐためには、単なる「安心。」という気分的、本能的行動習性に依らない、論理的行動選択、意識的に広い視点を保つという自己感情制御というものが不可欠なのである。
カルト宗教において、教祖のご機嫌を損ねぬよう振る舞えば、人間としての行動選択は出来なくなる。これはナチス政権下においても、大王製紙社内においても、原発の安全性議論においても普遍的に言える。
むしろご機嫌取りに終始してしまうからこそカルト化、体制腐敗を招くことになる。
多数権威に「原発は絶対に安全。」と強弁されたからといって、論理的議論を放棄してしまった結果が原発暴走を許した「ヒト」の悪い習性に由来していることを認識すべきではないか。
「教訓」というのは論理的に認識して初めて世代を超えて受け継ぐことが可能となる。それができないのは気分という大脳辺縁系が作り出す行動バイアスによって、普遍的に同じ過ちを繰り返すことになってしまう。それを養老孟司は「ヒトとは、そういうものである。」と思考停止に導くのである。
残念なことに、その方が大衆ウケが良い。
ヒトという種の性質として、気分感情を優先して思考を放棄させる話の方が多数人気を得易い傾向がある。
美術芸術に関わる話であれば、それはそもそも大脳辺縁系の反射による好き嫌いの問題に帰結するので、「どうでもいい。」とか言っちゃうと、芸術表現に真摯に取り組んでいる人には嫌な言い回しになっちゃうけど。まあ、普遍性には影響はない話ではあります。
特に個人の心理に言及しちゃうと、まるで個人攻撃みたいに「見えて。」しまうのかも知れない。おいらの話は雰囲気だけで認識されちゃうと真意が見えなくなってしまう。
だから本質的社会性云々の話も、雰囲気だけ取り上げて「SQ」だとかいう勝手な基準に話をすり替えられてしまうと意味が吹き飛んでしまうのです。