書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

文字の濃度を変化させてみた。

2011年12月31日 21時12分46秒 | 日記
 すんごい初歩的JavaScriptなんだけど、こういうので電子書籍みたいのできないかなとかおもてる。

文字の濃度変化と移動。
http://space.geocities.jp/srand4000/text01.html

 ただ厄介なことに、おいらの東芝AndroidPCの場合、HTML Canvas で推奨されてる文字コードUTF-8が文字化けしちゃうので、EUC-JPにしてある。これが原因で動かない環境もあるかも。
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大規模避難道路。

2011年12月31日 19時16分51秒 | 日記
 津波被災地の復興計画についての番組を見てたんだけど、どうも高台への避難道路の整備についての話が出て来ない。

 1000年後の津波に対して今できる対策の一つとして、高台に向かって一直線に延びる幅の広い避難道路を整備しておくべきではないか。津波というのは、とにかく早いので、自動車で避難することを前提に速やかに高台へ上がれる道路が整備されていると、港で働かなくてはならない人達の避難に有効であろう。

 もうひとつ、建物の密集によって海の変化が見えなかったことを教訓に、必ず海が見通せる路地の増設も検討すべきだと思う。



 あ、それから、仮設住宅の断熱工事が間に合わないらしい。とりあえず屋内に断熱材で大きな箱を作っておけば、極端な寒さ対策にはなるのではないかと思う。少なくとも敷布団の下に断熱材を敷いておくだけでも効果ありそう。

 これって、被災地に限らず一人暮らしだったら省エネにもなるので結構有効かなと思う。

 ただ密閉すると窒息の危険性があるので注意が必要かな。発泡ポリスチレン系断熱材だと火気厳禁だし。タバコ吸う人はやめた方がいいかも。
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公表。

2011年12月31日 13時24分48秒 | 日記
 そういえば、原発の危険性について主張した研究者に対して、感情的に排除しようとした奴がいたらしいのだが。具体的な氏名が出てこないのはどういうことであろう。

 原発の安全性に関わる議論であれば公的な機関であるはずで、議論した具体的人物や内容が公表されないのはおかしな話である。

 なぜ排除された当人だけが公表され、排除した人物や集団が公表されないのであろう。報道が手抜きをしているのか?。


 以前にも食肉偽装を内部告発した冷凍倉庫会社が村八分にされたことがあるが。内部告発をすることによって排除されるというのはおかしな話であり、撤退した食肉会社の具体的名前を公表するべきだったと述べたことがある。

 言ったことに責任を持たない者の具体的氏名や団体名を隠蔽するというのは、社会的責任の放棄を放置するということである。これは「正直者はバカを見る。」ように誘導しているとしか考えられない。
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初歩的。

2011年12月31日 13時17分52秒 | 意識論関連
 行動習性というものは、個体の本能的欲望を満たした「結果。」として種の存続や生存といったものに結びついたのであって。個体に組み込まれている本能自体は種の存続や生存といった「結果。」を「目的。」とする必要性はなく、また、存在しない。

 ヒトにおけるイジメというものも、本能的な社会形成習性が促す多数他者との共感に対する気分的「安心。」によって、無意識的に多数体制に迎合してしまう結果として、特定個体へのイジメが発生するのであり。個体自体はイジメ自体を目的としているのではなく、多数他者との共感、共鳴が本能的「目的。」であって、ましてや「イジメをなくそう。」などという人間としての自律的、意識的行動選択などというものは本能的習性自体には存在しない。

 イジメというものは本能的な社会形成習性が促す気分的行動によって「結果。」的に行われてしまうものであり。本能的には単に目先の気分的「安心。」欲しさに多数他者の行動に無意識に「流されて。」しまった結果に過ぎない。

 生物学的説明であれば、こうした暴力行為であっても「より優秀な遺伝子を遺すため。」などとこじつけるであろうが、個体の本能的行動自体の「目的。」には、こうした大局的目的意識が存在する必要性はなく。存在の証明もなく、また存在もしない。

 本能的には個体は大脳辺縁系に組み込まれた反射的行動として、多数他者という体制に迎合することだけが目的であって。イジメ自体にも、遺伝的優位性にも、ましてや自律的社会責任にも「意識。」は働いていない。

 むしろ生物学的正義に基づけば、本能的行動の結果であっても結果的に生存や種の存続条件さえ満たせば、あらゆる暴力も正当化されてしまうことになる。

 本能習性に基づく行動の結果が、結果的に生存などの条件に適合するとしても。個体の本能的行動自体には、その本能的行動の「結果。」自体がどのようなものであるかとは無関係である。本能的行動の結果が偶発的に生存に適すれば生物学は「目的。」だと言い張り。逆に生存に適さなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。

 現在の生物相という「結果。」に至る間において、本能的行動が生存に適した種と適さなかった種ではどちらが多かったであろう。もし、あらゆる本能的行動が生存に適する場合、自然淘汰はほとんど発生しないことになり。現在のような櫛の歯状の系統樹は形成されることはない。そこには進化などという結果的機能の洗練は生じないのである。

 どんなに現在の生物の機能が高度で洗練されていることを証明しても、「全ての機能が洗練されていて、あらゆる行動は生存に適する。」ことの論理的証明にはならない。


 多くのヒトは本能的行動選択しかできないことを枚挙しても、ヒトの全てはこれから永遠に自律的意識選択が不可能であることの論理的証明にはならないのである。

 自律的に社会的責任を持つことが困難であると称して、無意識的反射行動こそが高速高機能で常に「正しい。」行動であると脳科学者達は口を揃える。それに対する異論を私以外誰も唱えない現状は異常である。

 ヒトという種の生物は、その本能的社会形成習性が促す迎合性によって、多数他人との迎合や権威への服従を促され。結果的にイジメやアイヒマン実験のような「結果。」をもたらすことに陥る習性がある。

 多数他人に迎合している時や、権威に服従している時において。その行動の結果に対しての自律的責任意識などというものは存在しない。しないからこそ実際に問題が顕在化するまで放置されることになる。


 本能習性が促す行動結果に対して、そこには誰の「意思。」も働いてはおらず。また「結果。」に対する責任も誰もとることはできない。

 それを生物学は、ありもしない個体の目的を超越した超自然的目的意識の存在を証明しようとしているのであり。オカルトにしかなっていないのである。


 あらゆる行動の結果であろうとも、それらには後からどうにでもこじつけが可能であるなら。行動結果に問題があっても何の原因究明も対策も施されないのは当然のことである。そこには意識的行動選択の存在が抜け落ちているからである。

 イジメが起ころうとも、権威への服従によって他人に危害を加える結果になろうとも。それらは全て「結果。」であり、生物学者達にとってはそれ以外の何の方向性も立証できないことに「なっている。」からである。

 それを単に「奇妙だ。」とか「わからない。」といった結論しか導き出すことしかできないというのは、最初から本能習性が導き出す行動「結果。」には「目的がない。」からである。「ない。」ものを証明しようとするから実証不能の観念を持ち出すことになるのであり、科学ではなくなるのである。

 本質的目的とは、本能的行動とは異なる意識的行動選択によって導き出されるものであり。本能習性でしか行動が選択されることのない生物やヒトの場合、どのような結果になろうとも当人には最初から「目的。」が存在しておらず。結果的に生存などに適する行動になろうがなるまいが、適した種に淘汰されるだけのことである。

 本能的に促される「目的。」行動というものは、そこに意識的選択がなければ本質的には目的ではなく。単に既に存在していた本能の「結果。」しか導き出されない。

 何も考えずに漠然と呆然と本能のままに行動しておけば、その行動の結果がどうなるのかについて当人に「意識。」はない。当然「目的。」もない。



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 あまりに下らない初歩的なことを説明しているので、説明する方としては何が理解を妨げているのか見当もつかない。本来であれば私が説明しなくても学者本人達が自律的に考えるべきことであり。それが学者の社会的責任というものであろう。それを多くの学者研究者は放棄しているのである。これはキチガイとしか形容できない。

 本能的社会形成習性というものと、人間としての社会性の区別ができないからこそ。子供が無意識的に作り出す封建的な統率行動や、それに伴うイジメなどの暴力性に歯止めがかからないのである。

 子供が本能的に形成した封建的「社会。」性自体には目的はなく。目的がないからこそイジメなどの暴力に歯止めがかからないのである。これを大衆観念的に「社会性。」であると一緒くたにしていれば、イジメであっても「社会性。」ということになってしまう。集団の一面的正義に迎合しても「社会性。」であろう。それなら自律的に社会的責任判断など一切養われることはないのである。


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 「生存。」というのは「結果。」である。「種の存続。」も同じである。

 「生存。」自体を正義にしてしまうと、詐欺や暴力、封建制度による搾取があろうとなかろうと無関係になってしまい。人間の意識的目的としての個人の尊厳を無視してしまうことになる。

 一人の「人間。」の存在意義とは、単なる生物学的生存や医学的延命処置によって定義されるようなものではなく。個人の「生き方。」を決定する意思、意識的行動選択そのものの価値である。

 本能的欲望という、既に組み込まれた一面的欲求だけを絶対的正義にすりかえても、それは大衆の狭窄な意識にとっては重大問題かも知れないが、一人の人間としての存在価値とは無関係である。

 個人的に「死にたくない。」という感情、本能を多数決的に枚挙しても、それが人間としての存在価値を定義する論理的根拠にはならない。ヒトという種の生物が持つ習性本能の枚挙だけでは人間としての存在価値にはならないのである。

 個人の社会的地位や、最悪生命の危機に関わる場合であっても。自律的に社会的責任を負う判断を行うのは本能的習性が導き出すようなものではない。原発推進派研究者が自分の利権保守を行うのは利己的自己保存であり、本能主体の短絡的行動選択である。その手段がどんなに「理性的。」であろうとも、根本が本能である以上本質的には「合理性を追求。」してはいないのである。

 現在の生物学は、個体に組み込まれた本能習性による行動「結果。」に対し、あたかも個体の本能的目的を超越した目的意識が存在するかのような「生存戦略。」などというものを主張するのはオカルトでしかない。

 本能習性というものは、あくまで利己的行動以外を目的とはせず。決して「種の存続。」などの大局的意識は存在しない。偶発的に「種の存続。」になる本能習性を持つとしても、それは「種の存続。」につながるような習性本能を持った個体に淘汰された結果であって。本能習性自体はあくまで利己的行動しか促すことはないのである。

 特定環境下において結果的に「種の存続。」につながる行動が、あらゆる環境下において「種の存続。」に適するかどうかの論理的証明はなく、何ら保証されていないのである。

 一時的に生存や種の存続につながる行動選択をするとしても、その行動習性が常に、絶対的に生存や種の存続を保証する論理的根拠があるわけではない。シエラレオネのゲリラ社会において生存に適する行動を採ったからといって、その行動選択が社会の持続可能性に貢献するわけではない。

 単なる自然界における「生存。」というものは、そもそも暴力や騙しといったものを不当とはしておらず。結果的な生存だけが絶対的正義である。これを「人間。」が構築しようとする相互信頼関係による持続可能性社会と混同するのは支離滅裂である。

 生物学者にとっては現在の生物学の正義を保守しておくことが個人にとっての利権保守につながるのであろうが、それは社会全体から見ての、生物学の社会的役割、責任を全く果たしていない。

 表面的に大衆ウケの良さそうなことを言っておけばどうにかなると思っているらしいが。自分達の体制腐敗や、それによる閉鎖性を自分達で改善できないのであれば、生物学の存在価値自体を失うことになるのである。

 大衆は気分的に良い話だけしておけば、論理的根拠などなくても満足するものである。99.99%のヒトはそうかも知れないが、その多数決に科学的根拠や保証が伴うわけではない。

 「人類は必ずや問題を解決できると信じている。」などと根拠もなく楽観日和見をしておきながら、自分達の間違いには言及しないというのは詐欺行為でしかない。

end;
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