何に対して「失礼。」と感じるか。それはあくまで個人的な価値観に依存するものであって、感じさせている者の意図とは異なる場合も有り得る。
意図的に相手を誹謗中傷することで「失礼。」と感じるか、その意図がないにも関わらず、言われた方が気分的に嫌な気分的に陥って「失礼。」と感じるか。それな感じている当人にとって、その「感じ。」方自体に違いはないであろう。
どう「感じ。」るかどうかと、言っている方の意図とは必ずしも一致するものではない。ましてや個人的好き嫌いでしかない芸術に関わる話であればなをのことであろう。
とかくヒトという種の生物は感覚的「感じ。」こそが世界の全てであると錯覚しがちである。だから「恐い。」と感じない危険行為が減らないし、振り込め詐欺も減らない。
こうした現象というのは、大脳辺縁系の反射である「感情。」だけで物事を判断してしまう無意識性が根本原因であり。こうした無意識性の愚かさの注意喚起として意識に関する話をしているのである。
一般の「普通の人。」の多くはこうした本質的意識の重要性を感覚的には「感じ。」てはいないであろう。
占い師の細木数子は、多数の人から人気を得ていたが。実際には糞の役にも立たないペテン師に過ぎない。言い回しだけ「失礼。」と「感じ。」させなければ多くの大衆凡人からの人気を得ることも可能なのである。
心理学上での「ヒステリー。」とは、心理的拘束のことを言う。特定の価値観に対して反射的に拒絶したり固執したりする行動習性というものは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識下に刷り込まれた価値観に由来するものである。
ヒトは、自分が既に行ってしまったこと、或は長く信じ込んでいたものなどを、事後正当化することによって気分的に満足安心する習性がある。これが本質的な「思考。」を阻害し、感情という無意識性の反射的行動を促すことに陥る原因である。虐待の連鎖も、カルト宗教の信者がやめられないのも、原因だけを論ずればこうした「簡単。」なものに過ぎない。だが、当人にとってはその呪縛から逃れるのは容易ではない。
単に「簡単。」で表面的な話だけしていれば、多くの大衆の脳を酔わせることは「簡単。」であろう。しかし、そうした「簡単。」な話によって、多くのヒトは騙され、社会の崩壊につながるような結果に無意識的に陥ることになりかねない危険性を認識できなくなるのである。多数のご機嫌をとって、話を丸めておけば気分的には「安心。」なのかも知れないし、それを「コミュニケーション能力。」だと「思う。」のかも知れない、そういった「気分。」的なご機嫌取りというのは生物学的社会形成に過ぎない。それは別に「人間としての公益倫理的自律判断による本質的社会性。」とは無関係であり、気分の問題に過ぎない。
これは実は「体制。」といったもの全般に言えることであり、体制、団体といったものの閉鎖性に関わる話でもある。
従って単なるご機嫌取りだけのイエスマンだけでは体制の閉鎖性や腐敗といったものを排除することはできないのである。場合によっては嫌な話にも耳を傾ける論理的思考という「心の広さ。」も必要なのである。
個人的気分という、いわば身勝手な観念だけで「失礼」かどうかを論じられても、そんなことは私の知ったことではない。それこそ養老孟司のように、わけの解らない話で撹乱しておけば、その話が本当に「失礼。」であるかどうかすら、多くのヒトには認識できなくなるのである。そんなバカみたいな話は要らない。
この国では体制としては民主主義の制度を採用しているが、民衆自体がバカであるからバカ主義にしかならない。この話を読んであなたのご機嫌が悪かろうがどうなろうが、そんなことは社会の安全性とか持続可能性とは無関係な話である。
かつてのドイツでは、民族主義という気分的「安心。」の追求によって社会の崩壊を招いた。アイヒマン実験の被験者の多くのように、多数という無意識的「流れ。」によって社会の崩壊を導いた。
ご機嫌を取って欲しいのであれば、閉鎖的で非公開なサイトの中だけで満足しておけば良いであろう。そうすれば意図的誹謗中傷もされずに済む。仲間内での観念を共有して気分的満足をするのは勝手だが、それをあたかも社会全体における普遍性を持った価値観であるかのように言うことこそが、むしろ傲慢で「失礼。」な話ではなかろうか。
それこそ京都大学や東京大学の生物学のように、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという論理的に不可能な研究に税金を無駄遣いしていても、誰も指摘できなければそれは「失礼。」であるとすら認識していない。
私が「ムカついて。」いるのも私の個人的な気分の問題に過ぎません。その「結果。」として言い回しが攻撃的「風味。」であっても、そんなことは気にする必要はありません。むしろ、プリミティブであっても反論をすることは必要なことです。より普遍的な価値観というものは反証主義によって磨かれなければならないからです。ただ、あまりに単純過ぎると反証にすらなりませんが。
よく、プリミティブな意見に対して反射的に「あほばかしね。」の一言で説明すら放棄する人は結構いるが、それこそが本当に「失礼。」だと思います。できるできないに関わらず、やはり説明はきちんと「しようとする。」ことは必要でしょう。私ができているかどうかはわかりませんけど、その意欲はあるつもりです。
多分、「あほばかしね。」とか書いて無視しておけば、面倒臭くないので気分的には楽でしょう。多くのヒトがそういう対応をするのは、そのヒトの大脳辺縁系が楽なので、反射的無意識にそういう対応になってしまうことが「多い。」わけです。
それこそ相手が誰なのかすらわからない状態で懇切丁寧に、噛んで含めるような説明をするのは非常に面倒臭いことではあります。重要なのは論理的に理解することであり、論理的に「考える。」ことを自律的にできるようになることです。心理的拘束に触れる話というのは、得てして気分を損ねる場合が少なくありません。嫌な相手が正しいことを言うこともあれば、好きな相手が間違っていることも、世の中にはあるわけです。
ですから個人的な「気分。」を普遍的価値観であるかのように錯覚すべきではないのです。だから「既に存在しているだけの自己。」というものは本質的には自己ではないと論じているのです。
面倒臭いですか、難しいですか。でも、それから逃げてきたからヒトという種の生物の習性が引き起こす問題が解決しないんです。これは「ヒト。」という種の生物であり、かつ人間社会で生活する以上不可避な「本質的人間性。」に関わる話です。ヒトという種の生物の大脳辺縁系というのは感情が優先するようにできているからです。
芸術というものも、「時に。」は必要なものだと思います。震災の後にバカ番組が復帰したことで被災者の気分を和らげる効果もあったそうです。バカ番組にもバカ番組なりの価値は存在するわけです、重要なのはバカげた話と、そうでない話を区別する認識力と思考力であり。それを支えるのが本質的意識であり。それは感情や気分といった個人的価値観とは切り離して考えなければならないのです。
要するに「分別」が大切なのです。ですからおいらのことを嫌うのは勝手ですが、言っている内容自体を「理解したくない。」という個人的気分による価値観で無意識的判断をされては話にならないのです。
本来芸術に関わる人であっても、公益倫理的自律というものの理解はしておいて欲しいものではあります。「社会環境が人を悪人にする。」というような無意識性の正当化を芸術作品においてするべきではないと思うからです。特に芸術作品というものはヒトの感情に訴え、「実感。」を伴った気分的誘導を伴います。マスコミと同じで洗脳プロパガンダに利用されかねないものでもあるからです。それを単に「メディアリテラシー。」だとか言い張り、視聴者の判断力だけに依存するというのは傲慢でもあるからです。
洗脳プロパガンダというものは、必ずしも行っている人自身に、その「意識。」があるとは限りません。むしろない場合の方が圧倒的に多いからこそ「暴走。」を招くことになるのです。あれば暴走させずに自分に都合の良いように制御しますからね。養老孟司の手口がそうでしょう。糞の役にも立たないのに人気だけは維持できるわけです。養老はバカでもわかるような簡単な不祥事は起こしていませんが、論理整合性のない支離滅裂な話を、あたかも科学的な見識であるかのように錯覚させて大衆人気を得ることを、単に多くのヒトがその不遜さを多くのヒトが認識していないだけに過ぎない。
オウム真理教の教祖とか、あれは完全に目的意識も何にもなかったからこそ異常暴走に至ったわけです。ナチス政権も同じです。当人に問題意識がないからこそ危険なんです。それを「難しいから、わかんな~い。」で済まされては困るわけです。私が個人的に困るのではありません、社会全体が困った結末に陥るんです。
「個人的にあたしが嫌な気分だから、お前は失礼だ。」というのは、あなたの個人的な好き嫌い「主観。」でしかありません、ご自分の言うことが本当に「客観的。」であるかどうかも検証せずに、他人の個人的好き嫌いを「主観的だ。」などと言い出すのは戯言寝言の類でしかありません。芸術に関わる話というのは、最終的に全て個人的好き嫌いに帰結することものであり、論争しても何ら建設的「結論。」が導き出されないことはわかっています。「カレーが好き。」か、「コーンスープが好き。」かをどんなに論争しても何にもならないからです。
芸術というのはそうした主観的で個人的な好き嫌いの話でしかなく、それによって社会的に成功するかどうかと、人間としての価値とは無関係です。たとえクソゲーで社会的に成功して金儲けをしても、それが人間としての価値、人間としての社会性を証明するわけではないからです。
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意図的に相手を誹謗中傷することで「失礼。」と感じるか、その意図がないにも関わらず、言われた方が気分的に嫌な気分的に陥って「失礼。」と感じるか。それな感じている当人にとって、その「感じ。」方自体に違いはないであろう。
どう「感じ。」るかどうかと、言っている方の意図とは必ずしも一致するものではない。ましてや個人的好き嫌いでしかない芸術に関わる話であればなをのことであろう。
とかくヒトという種の生物は感覚的「感じ。」こそが世界の全てであると錯覚しがちである。だから「恐い。」と感じない危険行為が減らないし、振り込め詐欺も減らない。
こうした現象というのは、大脳辺縁系の反射である「感情。」だけで物事を判断してしまう無意識性が根本原因であり。こうした無意識性の愚かさの注意喚起として意識に関する話をしているのである。
一般の「普通の人。」の多くはこうした本質的意識の重要性を感覚的には「感じ。」てはいないであろう。
占い師の細木数子は、多数の人から人気を得ていたが。実際には糞の役にも立たないペテン師に過ぎない。言い回しだけ「失礼。」と「感じ。」させなければ多くの大衆凡人からの人気を得ることも可能なのである。
心理学上での「ヒステリー。」とは、心理的拘束のことを言う。特定の価値観に対して反射的に拒絶したり固執したりする行動習性というものは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識下に刷り込まれた価値観に由来するものである。
ヒトは、自分が既に行ってしまったこと、或は長く信じ込んでいたものなどを、事後正当化することによって気分的に満足安心する習性がある。これが本質的な「思考。」を阻害し、感情という無意識性の反射的行動を促すことに陥る原因である。虐待の連鎖も、カルト宗教の信者がやめられないのも、原因だけを論ずればこうした「簡単。」なものに過ぎない。だが、当人にとってはその呪縛から逃れるのは容易ではない。
単に「簡単。」で表面的な話だけしていれば、多くの大衆の脳を酔わせることは「簡単。」であろう。しかし、そうした「簡単。」な話によって、多くのヒトは騙され、社会の崩壊につながるような結果に無意識的に陥ることになりかねない危険性を認識できなくなるのである。多数のご機嫌をとって、話を丸めておけば気分的には「安心。」なのかも知れないし、それを「コミュニケーション能力。」だと「思う。」のかも知れない、そういった「気分。」的なご機嫌取りというのは生物学的社会形成に過ぎない。それは別に「人間としての公益倫理的自律判断による本質的社会性。」とは無関係であり、気分の問題に過ぎない。
これは実は「体制。」といったもの全般に言えることであり、体制、団体といったものの閉鎖性に関わる話でもある。
従って単なるご機嫌取りだけのイエスマンだけでは体制の閉鎖性や腐敗といったものを排除することはできないのである。場合によっては嫌な話にも耳を傾ける論理的思考という「心の広さ。」も必要なのである。
個人的気分という、いわば身勝手な観念だけで「失礼」かどうかを論じられても、そんなことは私の知ったことではない。それこそ養老孟司のように、わけの解らない話で撹乱しておけば、その話が本当に「失礼。」であるかどうかすら、多くのヒトには認識できなくなるのである。そんなバカみたいな話は要らない。
この国では体制としては民主主義の制度を採用しているが、民衆自体がバカであるからバカ主義にしかならない。この話を読んであなたのご機嫌が悪かろうがどうなろうが、そんなことは社会の安全性とか持続可能性とは無関係な話である。
かつてのドイツでは、民族主義という気分的「安心。」の追求によって社会の崩壊を招いた。アイヒマン実験の被験者の多くのように、多数という無意識的「流れ。」によって社会の崩壊を導いた。
ご機嫌を取って欲しいのであれば、閉鎖的で非公開なサイトの中だけで満足しておけば良いであろう。そうすれば意図的誹謗中傷もされずに済む。仲間内での観念を共有して気分的満足をするのは勝手だが、それをあたかも社会全体における普遍性を持った価値観であるかのように言うことこそが、むしろ傲慢で「失礼。」な話ではなかろうか。
それこそ京都大学や東京大学の生物学のように、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという論理的に不可能な研究に税金を無駄遣いしていても、誰も指摘できなければそれは「失礼。」であるとすら認識していない。
私が「ムカついて。」いるのも私の個人的な気分の問題に過ぎません。その「結果。」として言い回しが攻撃的「風味。」であっても、そんなことは気にする必要はありません。むしろ、プリミティブであっても反論をすることは必要なことです。より普遍的な価値観というものは反証主義によって磨かれなければならないからです。ただ、あまりに単純過ぎると反証にすらなりませんが。
よく、プリミティブな意見に対して反射的に「あほばかしね。」の一言で説明すら放棄する人は結構いるが、それこそが本当に「失礼。」だと思います。できるできないに関わらず、やはり説明はきちんと「しようとする。」ことは必要でしょう。私ができているかどうかはわかりませんけど、その意欲はあるつもりです。
多分、「あほばかしね。」とか書いて無視しておけば、面倒臭くないので気分的には楽でしょう。多くのヒトがそういう対応をするのは、そのヒトの大脳辺縁系が楽なので、反射的無意識にそういう対応になってしまうことが「多い。」わけです。
それこそ相手が誰なのかすらわからない状態で懇切丁寧に、噛んで含めるような説明をするのは非常に面倒臭いことではあります。重要なのは論理的に理解することであり、論理的に「考える。」ことを自律的にできるようになることです。心理的拘束に触れる話というのは、得てして気分を損ねる場合が少なくありません。嫌な相手が正しいことを言うこともあれば、好きな相手が間違っていることも、世の中にはあるわけです。
ですから個人的な「気分。」を普遍的価値観であるかのように錯覚すべきではないのです。だから「既に存在しているだけの自己。」というものは本質的には自己ではないと論じているのです。
面倒臭いですか、難しいですか。でも、それから逃げてきたからヒトという種の生物の習性が引き起こす問題が解決しないんです。これは「ヒト。」という種の生物であり、かつ人間社会で生活する以上不可避な「本質的人間性。」に関わる話です。ヒトという種の生物の大脳辺縁系というのは感情が優先するようにできているからです。
芸術というものも、「時に。」は必要なものだと思います。震災の後にバカ番組が復帰したことで被災者の気分を和らげる効果もあったそうです。バカ番組にもバカ番組なりの価値は存在するわけです、重要なのはバカげた話と、そうでない話を区別する認識力と思考力であり。それを支えるのが本質的意識であり。それは感情や気分といった個人的価値観とは切り離して考えなければならないのです。
要するに「分別」が大切なのです。ですからおいらのことを嫌うのは勝手ですが、言っている内容自体を「理解したくない。」という個人的気分による価値観で無意識的判断をされては話にならないのです。
本来芸術に関わる人であっても、公益倫理的自律というものの理解はしておいて欲しいものではあります。「社会環境が人を悪人にする。」というような無意識性の正当化を芸術作品においてするべきではないと思うからです。特に芸術作品というものはヒトの感情に訴え、「実感。」を伴った気分的誘導を伴います。マスコミと同じで洗脳プロパガンダに利用されかねないものでもあるからです。それを単に「メディアリテラシー。」だとか言い張り、視聴者の判断力だけに依存するというのは傲慢でもあるからです。
洗脳プロパガンダというものは、必ずしも行っている人自身に、その「意識。」があるとは限りません。むしろない場合の方が圧倒的に多いからこそ「暴走。」を招くことになるのです。あれば暴走させずに自分に都合の良いように制御しますからね。養老孟司の手口がそうでしょう。糞の役にも立たないのに人気だけは維持できるわけです。養老はバカでもわかるような簡単な不祥事は起こしていませんが、論理整合性のない支離滅裂な話を、あたかも科学的な見識であるかのように錯覚させて大衆人気を得ることを、単に多くのヒトがその不遜さを多くのヒトが認識していないだけに過ぎない。
オウム真理教の教祖とか、あれは完全に目的意識も何にもなかったからこそ異常暴走に至ったわけです。ナチス政権も同じです。当人に問題意識がないからこそ危険なんです。それを「難しいから、わかんな~い。」で済まされては困るわけです。私が個人的に困るのではありません、社会全体が困った結末に陥るんです。
「個人的にあたしが嫌な気分だから、お前は失礼だ。」というのは、あなたの個人的な好き嫌い「主観。」でしかありません、ご自分の言うことが本当に「客観的。」であるかどうかも検証せずに、他人の個人的好き嫌いを「主観的だ。」などと言い出すのは戯言寝言の類でしかありません。芸術に関わる話というのは、最終的に全て個人的好き嫌いに帰結することものであり、論争しても何ら建設的「結論。」が導き出されないことはわかっています。「カレーが好き。」か、「コーンスープが好き。」かをどんなに論争しても何にもならないからです。
芸術というのはそうした主観的で個人的な好き嫌いの話でしかなく、それによって社会的に成功するかどうかと、人間としての価値とは無関係です。たとえクソゲーで社会的に成功して金儲けをしても、それが人間としての価値、人間としての社会性を証明するわけではないからです。
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