個々の技術者などに自律的な社会的責任を求めるということは、本質的合理性とは厳密には何かに言及しなければならない。本質的合理性を追求しないということは、あくまで気分感情に依存した結果しか導き出されることはないからである。
放送大学の技術者倫理の講義などにおいては、あくまで「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だのといった精神論に帰結しており。これでは自律的に社会的責任を負うことであっても「気分の問題。」にすりかえられてしまう。
畑村洋太郎は他人には「想定外という線引きをするな。」などと言っておきながら、自分の専門分野外の問題に関しては在野の部外者に丸投げするつもりである。これを無責任と言わずして何を無責任と言うであろう。
哲学であろうが生物学であろうが、脳科学であろうが社会心理学であろうが。科学的検証性を伴わず内部腐敗による閉鎖性があるのであれば言及する「社会的責務。」が存在するのである。同じ税金で食っている仲間同士の馴れ合いというものこそが体制腐敗の根本原因なのである。それは無視するつもりか畑村は。
ヒトという種の生物が、自律的に社会的責任を追求するためには。気分的バイアスという不確定な要素だけでは追求されることはない。
それこそスペースシャトルチャレンジャー号の技術者のように、社会的役割を果たすためには自分自身の社会的地位を投げ出さなくてはならない場合もある。
実際に重大事故が発生してから社会的責任云々に言及するのは簡単である。そんなものは「後だしジャンケン。」と一緒である。バカでも勝てる。
重要なのは実際に重大事故が起こる以前において、起こるか起こらないかわからない確率の低い危険性に言及するためには、個人の自律的社会的責務を押し通す自律的「意識。」が必要不可欠である。
もし、チャレンジャー号の技術者が危険性を予め警告のために一般に公表したとして。実際には偶然事故が起こらなかった場合、技術者の主張は単なる「うるさい小言。」としてしか扱われない。
原発の危険性について言及した学者においても同様の事例がある。危険性について学会で論じたら、脅迫的に排除された経緯がある。こうした異常性というものは本能的な社会形成習性に由来する気分的バイアス=本能的行動選択だけによって無意識的に形成された「社会。」においては無為無策に迎合されることしか行われない。
本能習性に由来する「社会形成習性。」が混入することによって、ヒトの意識は目先の服従だけに狭窄化される習性があり。こうした無意識性こそが体制腐敗や閉鎖性を生み出し、個人の自律的社会的責務を蔑ろにしてしまう大きな原因となっていることに疑う余地はない。
本質的意識の存在について言及しなければ、こうした習性に由来するあらゆる問題行動は改善することは不可能である。
危険性について、未然の段階において言及するには、自律的に社会的責任=公益倫理的自律判断を行うためには。個人の気分感情に基づくあやふやな基準に基づいた行動においては、ヒトという種の本能的社会形成習性や、自律的判断に伴う損失の責任といったものが不可避である。これら全てを技術者個人の自律だけに押し付けても、その個人には何の利益も報酬も伴わない場合には自律判断は放棄される可能性は非常に高く。実際に重大事故が発生していない状態においての自浄作用が働かないことが最も事故を助長するのである。
北大の山岸俊男らが研究費を無駄遣いするような、衆人環視環境におけるあらゆる「結果。」の枚挙からは、習性としてのヒトの行動結果しか抽出されることはない。論理的原理的に存在しないのである。
こうした「結果。」万歳な理論しか論じられないのは、根本的に生物学特有の「個体の意図を超越した超自然的意識の存在を立証したがる。」オカルト性に由来するものである。
故にNHKの室山は「人類は絶滅する。」などと断言するのである。同時に他の解説委員の誰も、こうした異常性には言及しない。これ自体が充分異常であることを認識すべきである。
脳科学界においても本質的意識の重要性には一切言及せず、漫然と特殊能力における無意識的機能万歳な観念によって大衆迎合するばかりである。脳トレ類が現実的には何ら「頭が良くなる。」証明が存在しないばかりか、脳トレ類において「頭が良くなる根拠とした脳血流増加。」自体も既に反証されているのである。こうした事実が隠蔽されたままなのはどういうことであろう。畑村洋太郎の「手抜き。」によるものではないのか。
畑村にとって生物学、脳科学、社会心理学、哲学は専門外かも知れないが。私からすれば同じ「税金で食っている。」同類であり。「部内者。」或は「関係者。」である。在野の部外者には言及不可能なことについても言及可能なはずである。
「失敗をした他人。」に対してだけ偉そうに「線引きをするな。」と論じておきながら、自分は「専門外だから。」などという言い逃れが通用すると思ったら大間違いである。言っていることとやっていることが支離滅裂ではないか。
失敗学の社会的責務として、実際に重大事故が発生する以前におけるヒトの習性に起因するあらゆる問題にまで言及するべきである。線引きによる手抜きをするべきではない。
あと勘違いされては困るのが、「準備を未然にしておけば事故は回避可能であった。」という話を基に。あたかも「原発は充分な準備をしてさえおけば絶対に安全である。」ことにすりかえられてはたまらない。
あらゆる想定をするというのであれば、テポドンや隕石、テロといったあらゆる状況を想定しておかねばならない。それら全てを想定して対策すれば核分裂型原発は採算が取れないことは明白である。かといって核融合型原発の採算性が証明されているわけでもない。
end;
放送大学の技術者倫理の講義などにおいては、あくまで「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だのといった精神論に帰結しており。これでは自律的に社会的責任を負うことであっても「気分の問題。」にすりかえられてしまう。
畑村洋太郎は他人には「想定外という線引きをするな。」などと言っておきながら、自分の専門分野外の問題に関しては在野の部外者に丸投げするつもりである。これを無責任と言わずして何を無責任と言うであろう。
哲学であろうが生物学であろうが、脳科学であろうが社会心理学であろうが。科学的検証性を伴わず内部腐敗による閉鎖性があるのであれば言及する「社会的責務。」が存在するのである。同じ税金で食っている仲間同士の馴れ合いというものこそが体制腐敗の根本原因なのである。それは無視するつもりか畑村は。
ヒトという種の生物が、自律的に社会的責任を追求するためには。気分的バイアスという不確定な要素だけでは追求されることはない。
それこそスペースシャトルチャレンジャー号の技術者のように、社会的役割を果たすためには自分自身の社会的地位を投げ出さなくてはならない場合もある。
実際に重大事故が発生してから社会的責任云々に言及するのは簡単である。そんなものは「後だしジャンケン。」と一緒である。バカでも勝てる。
重要なのは実際に重大事故が起こる以前において、起こるか起こらないかわからない確率の低い危険性に言及するためには、個人の自律的社会的責務を押し通す自律的「意識。」が必要不可欠である。
もし、チャレンジャー号の技術者が危険性を予め警告のために一般に公表したとして。実際には偶然事故が起こらなかった場合、技術者の主張は単なる「うるさい小言。」としてしか扱われない。
原発の危険性について言及した学者においても同様の事例がある。危険性について学会で論じたら、脅迫的に排除された経緯がある。こうした異常性というものは本能的な社会形成習性に由来する気分的バイアス=本能的行動選択だけによって無意識的に形成された「社会。」においては無為無策に迎合されることしか行われない。
本能習性に由来する「社会形成習性。」が混入することによって、ヒトの意識は目先の服従だけに狭窄化される習性があり。こうした無意識性こそが体制腐敗や閉鎖性を生み出し、個人の自律的社会的責務を蔑ろにしてしまう大きな原因となっていることに疑う余地はない。
本質的意識の存在について言及しなければ、こうした習性に由来するあらゆる問題行動は改善することは不可能である。
危険性について、未然の段階において言及するには、自律的に社会的責任=公益倫理的自律判断を行うためには。個人の気分感情に基づくあやふやな基準に基づいた行動においては、ヒトという種の本能的社会形成習性や、自律的判断に伴う損失の責任といったものが不可避である。これら全てを技術者個人の自律だけに押し付けても、その個人には何の利益も報酬も伴わない場合には自律判断は放棄される可能性は非常に高く。実際に重大事故が発生していない状態においての自浄作用が働かないことが最も事故を助長するのである。
北大の山岸俊男らが研究費を無駄遣いするような、衆人環視環境におけるあらゆる「結果。」の枚挙からは、習性としてのヒトの行動結果しか抽出されることはない。論理的原理的に存在しないのである。
こうした「結果。」万歳な理論しか論じられないのは、根本的に生物学特有の「個体の意図を超越した超自然的意識の存在を立証したがる。」オカルト性に由来するものである。
故にNHKの室山は「人類は絶滅する。」などと断言するのである。同時に他の解説委員の誰も、こうした異常性には言及しない。これ自体が充分異常であることを認識すべきである。
脳科学界においても本質的意識の重要性には一切言及せず、漫然と特殊能力における無意識的機能万歳な観念によって大衆迎合するばかりである。脳トレ類が現実的には何ら「頭が良くなる。」証明が存在しないばかりか、脳トレ類において「頭が良くなる根拠とした脳血流増加。」自体も既に反証されているのである。こうした事実が隠蔽されたままなのはどういうことであろう。畑村洋太郎の「手抜き。」によるものではないのか。
畑村にとって生物学、脳科学、社会心理学、哲学は専門外かも知れないが。私からすれば同じ「税金で食っている。」同類であり。「部内者。」或は「関係者。」である。在野の部外者には言及不可能なことについても言及可能なはずである。
「失敗をした他人。」に対してだけ偉そうに「線引きをするな。」と論じておきながら、自分は「専門外だから。」などという言い逃れが通用すると思ったら大間違いである。言っていることとやっていることが支離滅裂ではないか。
失敗学の社会的責務として、実際に重大事故が発生する以前におけるヒトの習性に起因するあらゆる問題にまで言及するべきである。線引きによる手抜きをするべきではない。
あと勘違いされては困るのが、「準備を未然にしておけば事故は回避可能であった。」という話を基に。あたかも「原発は充分な準備をしてさえおけば絶対に安全である。」ことにすりかえられてはたまらない。
あらゆる想定をするというのであれば、テポドンや隕石、テロといったあらゆる状況を想定しておかねばならない。それら全てを想定して対策すれば核分裂型原発は採算が取れないことは明白である。かといって核融合型原発の採算性が証明されているわけでもない。
end;