書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

うるさい小言。

2011年12月28日 15時37分05秒 | 意識論関連
 個々の技術者などに自律的な社会的責任を求めるということは、本質的合理性とは厳密には何かに言及しなければならない。本質的合理性を追求しないということは、あくまで気分感情に依存した結果しか導き出されることはないからである。

 放送大学の技術者倫理の講義などにおいては、あくまで「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だのといった精神論に帰結しており。これでは自律的に社会的責任を負うことであっても「気分の問題。」にすりかえられてしまう。

 畑村洋太郎は他人には「想定外という線引きをするな。」などと言っておきながら、自分の専門分野外の問題に関しては在野の部外者に丸投げするつもりである。これを無責任と言わずして何を無責任と言うであろう。

 哲学であろうが生物学であろうが、脳科学であろうが社会心理学であろうが。科学的検証性を伴わず内部腐敗による閉鎖性があるのであれば言及する「社会的責務。」が存在するのである。同じ税金で食っている仲間同士の馴れ合いというものこそが体制腐敗の根本原因なのである。それは無視するつもりか畑村は。

 ヒトという種の生物が、自律的に社会的責任を追求するためには。気分的バイアスという不確定な要素だけでは追求されることはない。

 それこそスペースシャトルチャレンジャー号の技術者のように、社会的役割を果たすためには自分自身の社会的地位を投げ出さなくてはならない場合もある。

 実際に重大事故が発生してから社会的責任云々に言及するのは簡単である。そんなものは「後だしジャンケン。」と一緒である。バカでも勝てる。

 重要なのは実際に重大事故が起こる以前において、起こるか起こらないかわからない確率の低い危険性に言及するためには、個人の自律的社会的責務を押し通す自律的「意識。」が必要不可欠である。

 もし、チャレンジャー号の技術者が危険性を予め警告のために一般に公表したとして。実際には偶然事故が起こらなかった場合、技術者の主張は単なる「うるさい小言。」としてしか扱われない。

 原発の危険性について言及した学者においても同様の事例がある。危険性について学会で論じたら、脅迫的に排除された経緯がある。こうした異常性というものは本能的な社会形成習性に由来する気分的バイアス=本能的行動選択だけによって無意識的に形成された「社会。」においては無為無策に迎合されることしか行われない。

 本能習性に由来する「社会形成習性。」が混入することによって、ヒトの意識は目先の服従だけに狭窄化される習性があり。こうした無意識性こそが体制腐敗や閉鎖性を生み出し、個人の自律的社会的責務を蔑ろにしてしまう大きな原因となっていることに疑う余地はない。

 本質的意識の存在について言及しなければ、こうした習性に由来するあらゆる問題行動は改善することは不可能である。

 危険性について、未然の段階において言及するには、自律的に社会的責任=公益倫理的自律判断を行うためには。個人の気分感情に基づくあやふやな基準に基づいた行動においては、ヒトという種の本能的社会形成習性や、自律的判断に伴う損失の責任といったものが不可避である。これら全てを技術者個人の自律だけに押し付けても、その個人には何の利益も報酬も伴わない場合には自律判断は放棄される可能性は非常に高く。実際に重大事故が発生していない状態においての自浄作用が働かないことが最も事故を助長するのである。


 北大の山岸俊男らが研究費を無駄遣いするような、衆人環視環境におけるあらゆる「結果。」の枚挙からは、習性としてのヒトの行動結果しか抽出されることはない。論理的原理的に存在しないのである。

 こうした「結果。」万歳な理論しか論じられないのは、根本的に生物学特有の「個体の意図を超越した超自然的意識の存在を立証したがる。」オカルト性に由来するものである。

 故にNHKの室山は「人類は絶滅する。」などと断言するのである。同時に他の解説委員の誰も、こうした異常性には言及しない。これ自体が充分異常であることを認識すべきである。

 脳科学界においても本質的意識の重要性には一切言及せず、漫然と特殊能力における無意識的機能万歳な観念によって大衆迎合するばかりである。脳トレ類が現実的には何ら「頭が良くなる。」証明が存在しないばかりか、脳トレ類において「頭が良くなる根拠とした脳血流増加。」自体も既に反証されているのである。こうした事実が隠蔽されたままなのはどういうことであろう。畑村洋太郎の「手抜き。」によるものではないのか。

 畑村にとって生物学、脳科学、社会心理学、哲学は専門外かも知れないが。私からすれば同じ「税金で食っている。」同類であり。「部内者。」或は「関係者。」である。在野の部外者には言及不可能なことについても言及可能なはずである。

 「失敗をした他人。」に対してだけ偉そうに「線引きをするな。」と論じておきながら、自分は「専門外だから。」などという言い逃れが通用すると思ったら大間違いである。言っていることとやっていることが支離滅裂ではないか。

 失敗学の社会的責務として、実際に重大事故が発生する以前におけるヒトの習性に起因するあらゆる問題にまで言及するべきである。線引きによる手抜きをするべきではない。



 あと勘違いされては困るのが、「準備を未然にしておけば事故は回避可能であった。」という話を基に。あたかも「原発は充分な準備をしてさえおけば絶対に安全である。」ことにすりかえられてはたまらない。

 あらゆる想定をするというのであれば、テポドンや隕石、テロといったあらゆる状況を想定しておかねばならない。それら全てを想定して対策すれば核分裂型原発は採算が取れないことは明白である。かといって核融合型原発の採算性が証明されているわけでもない。

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依存症。

2011年12月28日 00時37分09秒 | 意識論関連
 依存症の類に陥るのは、ドーパミンが作り出す「常習性。」によって、脳の本能的行動として無意識的に「学習。」してしまうからである。

 クソゲーだのパチンコだのというのは、アルコールやニコチンと同様に脳を麻痺させる効果がある。麻痺するのは大脳新皮質であって、大脳辺縁系ではない。麻痺するのは「意識。」である。

 依存症に陥る原因というのは、なにがしかに依存し続けていないと「恐い。」という感情が脳に作り出されてしまうからである。

 ヒトに限らず、脳を持つ生物の多くは恐怖に対しての逃避行動が優先されるように「進化。」的に組み込まれている。しかし、恐怖というものが促す行動の全てが生存につながるという保障など全くないのである。進化過程において恐怖が促す行動の「多く。」が生存につながった「結果。」として組み込まれることになった(組み込まれていない個体が淘汰された結果。)だけであって、「概ね生存につながりやすい。」だけなのである。

 たとえば、生物本能的な社会形成習性によって作り出されるカルト宗教的な集団に対し、その集団に対して気分的に安心して洗脳されていた方が生存につながるというような状況を考えると、むしろ依存症に陥りやすいようなバカほど生存価に適する結果を導く状況というのも少なくはない。

 現代社会のように知識情報が少ない環境ほど、シエラレオネのような残虐性を競争するような結果になることが多く。つまり、現代社会が築かれる以前の長い進化過程においてはバカである方が生存に適した可能性も充分にある。

 いわば、ヒトというのは洗脳されやすいように進化してしまっている可能性も充分にある。

 依存症というのも洗脳や振り込め詐欺の被害と同様、大脳辺縁系の感情が論理的思考を阻害することによって生ずるものである。

 洗脳や依存症に陥りやすい「習性。」や「傾向性。」があるからといって、これらの先天的性質が回避不可能であることの証明ではない。

 依存症に陥る原因というのは、心理的な欠落。「心の穴。」、恐怖心といったものが大きく関わっている。

 逆に依存症などに陥りづらい人の傾向として、自発的純粋行為を持っている場合が多い。



 実は、私の母親が編物が好きで、毎月二回講習会にリビングを無償提供しているのだが。この講習会に参加している人の一人が鬱症状を持っていたことがあり。編物を始めて熱中するようになってすっかり改善してしまった経緯がある。

 個人的に好きなことを見つけ、これに熱中することによって心理的「穴。」に意識を奪われることなく、積極的(自発的)に人生を楽しむことができるようになる。こうした純粋行為を持たないと依存症などに簡単に陥るのである。

 また、自発的純粋行為を持つことにより。物事に没頭熱中することによる自発的集中力が認知症に対する予防にも効果があると言われる。

 それに対して環境依存的に集中させられる行為というのは、集中できる環境でなくなった場合に自発的集中ができないために効果は極めて限定的である。脳トレの類はこれに相当するものであり、逆に環境依存性を持ってしまうと返って認知症に陥りやすくなる可能性も充分にある。

 しかし、個人が一体何に熱中して心理的「穴。」に意識を奪われなくなるのかについては、人それぞれであり、「これさえやれば、どうにかなる。」ような短絡的で簡単な解答は存在しない。こればかりは「実際にある程度やってみないとわからない。」のである。また、「どの程度。」なのかも明確に存在するわけではない。

 重要なのは他人からの評価報酬とは無関係なものであり。多数平均的行為に対する本能的社会形成習性に基づく気分的安心とは異なるものである。たとえ純粋行為を共感することができるとしても、他人環境のない状態であっても集中できないことでは純粋行為とは言えず。効果を持たない。

 「自分一人だけが楽しいと思う。」場合、他人との比較をしてしまうと、本当の自発的純粋行為を見失うことにもなりかねない。純粋行為というのは他人との比較とは無関係であることを忘れてはいけない。

 倉田真由美の漫画にあるように、「みんな同じなんだ。」と強迫観念的に安心するということは。他人と同じでないことに対しての強迫観念的恐怖心、「恥ずかしい。」という感情を抱くことでもある。

 個人趣味、個人的純粋行為というものは、多数他人から見て、ある種の「バカらしさ。」が伴うことがある。趣味を共有できない者からすれば「そんなことして何になる。」という見解が出る場合が多く、共感を得られないことも珍しくはない。

 こうした「雑音。」に惑わされることによって純粋行為としての「自分。」を見失うことは非常に多い。



 本能的社会形成習性を利用すれば、場合によっては依存症や鬱症状につけこんで「これさえやっておけば完治する。」と称して、短絡的解決方法論に意識を奪わせることも簡単であり。そうしたエセ心理治療ビジネスは少なくない。

 本当に治療効果があるのであれば、それは決して金銭を要求するようなセミナーなどではなく。むしろ一般に公開されているはずである。

 真面目な臨床心理医であれば、効果のあるものを隠蔽したりはせずに一般公開するものである。


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畑村洋太郎。

2011年12月28日 00時34分33秒 | 意識論関連
 「自分にとって、社会的役割とは何かを自律的に考えることが重要。」言われたことを漫然と行うだけではダメなのである。

 ところが、自律的判断というものには必ず責任というものが伴うことになる。言われたこと以外のことに言及することというのは社会的役割であるとしても個人の地位や立場を脅かすことになる場合もある。これは実際にスペースシャトルチャレンジャー号の技術者が経験している。

 「システムや設備、マニュアルを作ることで気分的に安心してしまう。」形を作ったことで安心してしまう。

 形や形式といったものは、気分的「安心。」を作りだし。この気分的「安心。」こそが思考を停止させてしまうことになるのである。

 想定内のことを整備することを「防災。」という、想定外のことについても準備することを「減災。」という。厄介なのは減災対策というのは想定を超えた場面を想定するという矛盾した基準に基づき整備しなければならず、これは責任の所在が明確にできなくなることになる。

 想定外の準備に人員や予算を使うとなると、対策の効果に対する責任の所在を誰が担保するのか。制度手続き的上の責任問題が生ずることになる。

 実際に事故や災害が発生した後に、想定外についても考えておくべきであったと言うことなら誰でもできる。しかし、災害が未だ発生していない状況において想定外についての準備をすることは困難である。畑村洋太郎はこのことについても言及すべきである。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者と同様、事故が発生する以前において「危険性。」というのは「危険である可能性。」であって、「危険の想定。」でしかない。確率の低い危険性に対する対策のために生じる損失を、一体誰が担保するのかを問われることになるのである。

 恐ろしいことに確率の低い危険性に対する対策を行わなかった責任は誰も取らない。

 重大事故が起こった後に危険性の重要性を論じることは簡単である。問題なのは事故が起こらない状態において、一体どこまで危険性の重要性をどこまで論じることが可能かどうかが、今後の危険学においての大きな課題なのである。

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