ヒトという種の生物には、イヌなどに見られる社会形成習性が本能的に受け継がれており。権威や体制といったものに迎合することによって気分的「安心。」を得ようとする傾向がある。
「体制に迎合。」とは言っても、政治社会体制に批判をしないことを指すのではなく。むしろマスコミが垂れ流すような怠惰な政権批判に便乗して批判するような無思考な批判もまた、その時代の「体制に迎合。」していると言える。
ヒトという種の生物は、本能的に組み込まれた気分的に「安心。」な行動を追求する性質というものがある。
「コミュニケーション能力。」などと称して、大多数の一般的観念に迎合して多数のご機嫌取りを行うことこそが人間性であると錯覚するのである。
実際には個人的に自分の気分を害されたことに対して、極めて主観的価値観に基づいて「お前にはコミュニケーション能力がない。」などと言い張る身勝手な者も少なくはない。「モンスター○○。」と形容される人々というのは、自分の価値観こそがあたかも社会の絶対的価値観であるかのごとく錯覚しているからこそ自信たっぷりに自分の観念を他人に押し付けるのである。
何せ錯覚を現実であると認識しているので、地下鉄に毒ガスを撒いても自分が悪いとは思ってはおらず、平気で言い逃れや取り繕いを行うことができるのである。オウム真理教の教祖が「弟子の要求に応えただけだ。」と論ずるのも、「弟子の要求。」という環境依存的な要因に無意識的に反応しただけであることを示唆している。
こうした「体制への迎合性。」というものは、ナチスの絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが論じた「私は忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」という話と同根である。どちらも本質的な自律判断選択というものの欠落が見られる。
多数他人のご機嫌取りを行うことを「コミュニケーション能力。」というのであれば、アイヒマンやオウム真理教幹部の体制迎合性も「コミュニケーション能力。」ということになるのである。
他人のご機嫌取りであればイヌやチンパンジーでも行うものである。ゆえにイヌやチンパンジーというのは封建的社会しか作り出すことはできないのである。
イヌというのは縄張り意識(もちろん無意識である。)が非常に強いため。極めて閉鎖的である。組織の閉鎖性というものは組織内部でのご機嫌取りにばかり意識が働く性質によって、結果的に生物学的社会形成習性の閉鎖性が優先的に働くようになってしまうのである。また、体制内部に腐敗が浸透している場合、こうした閉鎖性は益々増強されることになる。
たとえ学力成績が高くても、生物学的社会形成習性による本能的行動を自律的に抑制することができるわけではなく。むしろ「学力成績=頭が良い。」という無思考な観念を鵜呑みにして学力に執着している場合には、その無思考性ゆえに自律的判断ができない場合も多い。オウム真理教の幹部達が高い学力を有していながら、簡単にカルト宗教に心酔してしまったのも、生物学的社会形成習性という本能に無意識に流された「結果。」だからである。
カルト宗教の教祖や幹部達は、自分達の問題点を認識することはできない。できないからこそ暴走したのであり、彼らは自分達がなぜ不毛な暴力を行ったのかを自律的に認識することは原理的にできない。
彼らにとっては、その場限りの気分的「安心。」という本能を満たすことにしか意識は働いておらず。無意識な本能の「結果。」に対する事後正当化のための屁理屈以外何も意識は働かないのである。なぜならそれこそが彼らの大脳辺縁系の「安心。」を促すからである。
こうした本能的社会形成習性に由来する「ヒトの暴走。」の危険性というものに対して、脳科学を含む生物学者達の誰も論じようとしないのは。彼らにとって本能的社会形成習性と本質的な人間性を伴った自律的社会性との区別を全くしてこなかったという無思考性、怠惰性の露顕を忌避するがゆえの隠蔽工作によるものである。
マスコミもまた、脳トレ類における利益を正当化するため、何が何でも脳トレには意味があることにしておかないといられないのである。
このような状況下において、カルト宗教や通り魔の暴走の原因というものは研究されることは一切ない。どんなに被害者達が議論しようとしても、生物学界においては議論したくない「嫌な話。」でしかないからだ。
今更何か実験によって「立証。」する必要性は何もない。ヒトという種の生物というのは、その行動選択のほとんどが無意識的な本能や固定観念によって支配されている存在であることは明白である。
社会心理学の実験のほとんどは、被験者に実験の意図を隠蔽して行われるものであり。これはつまり被験者の無意識的行動選択を抽出するための実験でしかないのである。こうした実験からは意識的「目的。」行動選択に言及することはなく、無意識的な気分による本能的行動「結果。」しか観測することはできない。
本能的な行動「結果。」だけをどんなにたくさん抽出しても、そこから意識的な「目的」選択とは何かには一切言及できない。
いわば不毛な実験に税金の無駄遣いを繰り返しているだけなのである。山岸俊男の異常に多い実験というのは、スタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験以上の何の成果も導き出してはおらず。徒に胡乱な実験を繰り返すばかりで、その実験を行う論理的根拠とか予測といった基礎が全く存在しない不毛なものである。
試験脳
ゲーム脳などと同様、試験における成績が高くても本質的知能であることの証明にはならない。
たとえ脳科学や認知科学における「論理的思考能力。」試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、試験以外の成績に直接的つながらない事柄に関して論理的思考ができることを証明してはいないのである。
一級建築士の試験に合格したからといって本当に建築士としての能力を常に発揮するわけではないのと同様、論理的思考能力試験で高い成績を獲得しても、常に論理的思考能力を発揮できることの証明にはならない。
どんなに難解な論理的思考ができるとしても、直接成績として評価されないような事柄に対しては、「意欲。」が働くとは限らないし、むしろ多くの場合成績という他人からの評価につられて無意識的に成績に執着してる場合。試験以外には全く興味を示すことはなく、結果として試験が終ればあっさり忘却無能化してしまうのである。
つまり、試験という一種のゲームの成績に対して無意識的機械手続き的条件反射として「学習。」された特定能力というものは、試験以外には何の役にも立つことはない。
そもそも脳科学、認知科学における「論理的思考能力試験。」という基準自体、「試験。」という特定環境下においての能力以外を全く想定していないものであり。どんなに試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、あらゆる事柄において常に論理的思考能力を発揮することの証明でも何でもないのである。
巷で流行している「検定ブーム。」というものも、要するに検定という特定環境における「合否。」という成績評価欲しさの無意識的順位欲を満足させているだけの極めて個人的自己満足に過ぎず。試験脳の一種であり、いうなれば「試験で脳がバカになっている。」だけのことである。
教育機関というのは、構造的に試験によって成績順位で生徒を選定する以外の選別方法は存在しないであろう。しかし、問題なのは「生徒の成績=教育者の成績。」という短絡的基準だけで、生徒の本能的順位欲を利用した過度な競争をけしかける学習手法というものは、生徒の意識を狭窄化させるだけであり。生徒の自発的で純粋な疑問への追求意欲を失わせ、実社会においては学校のような「成績。」が存在しないために、成績の代わりに「報酬。」に対する機械反射的な欲望しか働かなくなってしまうことになるのである。
「天下り。」のような合法的詐欺が横行するのは、彼らの脳が他人からの評価報酬以外に全く意識が働かないように意識狭窄化しているために。限りなく他者から与えられる「エサ。」にしか意識が働かなくなっているためである。従って彼らの意識の狭窄性自体が変わらない限り、どんなに制度改革を行っても「エサ。」にしか興味がない以上、法的逃げ道を探すことには必死になっても、天下り自体を撲滅させることには全く興味「意識。」が働くことはない。
いわば「天下り脳。」とでも言える状態に陥っているのである。それがどんなに論理的に複雑で巧妙な技法を用いていようとも、その動機となっているのは本能的な利己的欲求だけであり。何ら「合理性を追求。」などしていないのである。
洗脳
洗脳というと、多くの人は特定の誰かが意図的「目的。」のために他人の行動を制御するものであると思うであろう。だからこそ地下鉄サリン事件の被害者達はオウムの教祖に真相を求めるのである。
残念ながら、実際の洗脳状態のほとんどは「誰にも目的がない。」という無意識状態によって、本能的に組み込まれた社会形成習性に従って本能的攻撃性を純粋に発露した「結果。」に過ぎない。
歴史書をひもとけば暴力を用いた覇権争いの話だけが歴史を作ったかのように論じられている。「勝てば官軍。」という「結果。」だけしか文系の歴史家は論じたくないのである。特定の誰かを英雄として祭り上げておけば気分的に満足するのは何故か、そのヒトという種の本能の根源が生物学的社会形成習性という無意識性に由来するということには、彼らは触れたくないのである。
「過去に何々が起こらければ、歴史は変わっていたかも知れない。」などという「たられば。」論というのは、決して歴史書に掲載されているような特定の事柄に限ったことではなく。あらゆる物事に言えるものなのである。
カオス理論における「バタフライ効果。」のように、誰にも知られることのない小さな出来事が、結果的に大きな事象の根本原因となっている可能性も充分に有り得る。
単なる「結果。」だけを論じているのであれば、これからどうすべきであるかといった「目的。」には言及されることはない。何が起きても全ては「結果。」だけが全てであるからだ。
戦国武将などというのも、要するに軍事政権の覇権争いの話に過ぎず。全ては「結果。」以外の何も論じてはいない。
武士道精神などというものも、要は暴力性を用いた権力を事後正当化するための「負い目。」から論じられているだけのものであり。根本的には搾取者の文脈でしかない。そもそも武士道というのは主君に対する忠誠忠実性が根底にあり、それを「美しい。」などという主観的観念によって彩ることによって正当化しているに過ぎないのである。
これらのことに一切言及せずに、特定のカルト宗教団体だけにカルト化の原因を求めても無駄である。ヒトである以上同じ生物学上における本能的社会形成習性に言及しなければ、原因の究明は原理的に不可能なのである。
カルト化というもの、洗脳状態というものは日常的に存在しうるものであり。ゆえに振り込め詐欺が横行することが可能なのである。被害者でありさえすれば反社会勢力への資金提供が正当化されるわけではないことを認識すべきである。
バカであること、愚かであることは社会的負荷であり、「罪。」なのである。それは法的な罪ではないかも知れないが、社会的負荷としての罪であることからは逃れられるものではない。
ところがヒトという種の生物というのは、論理的に何が罪であるかを認識することはなく。むしろ観念的、強迫観念的に罪の意識にさいなまされる傾向というのがある。サバイバーズギルドなどの観念的な罪の意識というものは、あくまで気分的に罪悪感を「感じ。」るだけであって、論理的に個人の責任の範囲とは無関係に感覚的に「感じ。」るという錯覚に過ぎない。ヒトは基本的に生物であるため、実感を伴った感覚的「感じ。」こそが客観的事実であるかのように錯覚しがちである。
その逆もあり、感覚的に実感を伴わなず。また法手続き的にも触れていない社会的負荷には罪の意識が働くことはないのである。
人文諸科学の分野において、歴史上の「英雄。」に酔ったり。或は心理的な「心の救い。」などと称して論理整合性の欠落した「哲学書。」に評価を与えたりしているカルト性に言及しないのは。カルトとは何かを追求する「意欲。」「意識。」の欠落という他ない。
どんなにたくさんの書物を「知って。」いても、それは実質的に社会の問題に生かされることはないのである。
北大の山岸俊男らが行っている社会心理学実験というものは、被験者に実験の意図を隠蔽したまま行われるものであり。こうした実験からは被験者の無意識的な行動「結果」の多数抽出しかできない。
それはそれで、たとえばスタンレー:ミルグラムらが行った服従心理実験のように、無意識的なヒトの行動習性を抽出することによって無意識的本能の危険性を導き出すことには意味があるのだが。逆に衆人環視環境における一面的人間性の証明には意味がない。
それはいわば、チンパンジーの利他行動抽出と同じ一面的な立証にかならず。ミルグラムの服従実験における本能の危険性の反証にもならない。
一面的立証だけで人間としての社会性全てを証明することは原理的に不可能である。シエラレオネの少年ゲリラを同じ環境下でどのような行動を採ろうとも、少年ゲリラの人間としての社会性証明にはならないからだ。もし可能であるというのであれば、通り魔に同様の行動を採らせれば社会に復帰させても良いという結論になる。そんなバカげた話は現実的ではない。
山岸らが行っている無意識的な行動習性の抽出からは、人間としての社会性は証明することができないのである。
つまり、山岸らの実験というのは徒労な血税の無駄遣いでしかなく、全く社会的に役に立たない。一時期バスなどに貼られていた「カラス除け。」も、結局は犯罪抑止にはなっておらず。その場限りの一時的効果しかないことは予め予測できていたことである。
本当に社会にとって有用な研究を行うのであれば、むしろアイヒマン実験のようにヒトの無意識的な行動習性を抽出することによって無意識的習性の危険性を広く知らしめることである。山岸は自分が今まで行ってきたことを事後正当化しているだけであり、その動機こそがヒトという種の「心理。」的な拘束によるものであることを、山岸自身が認識していないのである。こんなバカに社会心理学的権威性を与えておいても、実質的な社会的貢献になる結果は導き出されることがないのは明白である。
ヒトは他者との比較による優越を快楽であると「感じ。」る習性がある。
競争「原理。」というのは、こうした本能習性によって作り出されるものである。
個人的に好きな行為において他者との比較競争を「楽しめる。」のであれば、競走は互いを高める有益なものにもなりうるが。過度に強迫観念的な恐怖心を用いて煽られた競争というものの場合、心理的狭窄性を促すことになるため、アインシュタインが懸念した「後に重大な影響を及ぼす。」ことにつながるのである。
本能的な競争心を煽られるということは、そこに本質的自発性は存在せず。環境から与えられた他者との競争への強迫観念的な恐怖心だけに意識が集中させられ、それが意識の狭窄性につながるのである。
これは洗脳の一種である。
教育者はこう述べるであろう、「企業や親が望むからだ。」と。すなはち、教育者自身には社会における教育の公益的役割としての本質的人間としての社会性など最初から頭にないから、こうした環境依存的な言い逃れをすることになるのである。
教育者が教育の目的を企業や生徒の親に依存しており、全く自律的に教育者としての社会的目的意識がないということである。ただ漫然と多数の企業や生徒の親からの要望に応えるだけで、教育というものの目指すべき理念や社会的目的といったものを、教育者自身が全く「考え。」ていないとういことである。
そもそも「多数の企業。」や「生徒の親。」というのは、あくまで企業の利益や個人的な利益といった利己的な動機にしか意識は働いておらず。ゆえにただ漫然と過度な学力競争を要求するのであり。結局誰にも教育というものの社会的役割を意識しないまま「暴走。」した結果として学力が高いだけの通り魔やカルト宗教の幹部を大量生産し続けているのである。
単に個人的利益だけを追求するのであれば、天下り役人は「純粋。」に利益を追求しているに過ぎず。その「純粋。」さというのは機械手続き的条件反射行動として、機械的に「純粋。」であるということである。こうした「純粋。」さというのは、アドルフ:アイヒマンの「純粋。」さや、人類の救済と称して命懸けでテロを行ったカルト宗教幹部の「純粋。」さと同じものである。
機械であれば、予め組み込まれた機構原理以外の行動選択を行うことはない。それなら自動運転の列車が人を轢き殺したとしても「罪。」には問われないことは自明であろう。カルト宗教が暴走しようとも、教育機関が社会的な役割とは何かを自律的に追求しなかろうが、それらが全て自分達には責任が存在しないというのであれば、それはもはや「人間の教育。」ですら最初からないということである。
糞の役にも立たない検察官や、耐震建築強度を偽装する一級建築士をどんなに大量に「生産。」しても。それが「生産。」時点での教育者の評価成績になるとしても。現実的に社会的公益性に貢献しないばかりか、むしろ社会を崩壊に向かわせているだけである。
つまり、誰しもが他人からの成績評価にばかり意識しか働いておらず。社会全体のありようとしての理想理念といったものが欠落したまま機械的に高い学力の生徒を大量生産しているだけなのである。
他人や環境から与えられる評価報酬といった「エサ。」による快楽というのは、その快楽の起点が自己の内部には存在しておらず。常に社会環境から与え続けられなければ充足できないものであるため。その欲望には際限がない。
権力欲に溺れる独裁者というのは、オウム真理教の教祖と同じで。当人的にはただ「純粋。」に周囲の人間の要望に応えただけに過ぎず、目的意識も何もなく。ただ機械反射的に破滅への道を「純粋。」に邁進することに陥るのである。
こうした「純粋。」さというものは、その動機自体が大脳辺縁系が促す欲望という機械的「純粋。」さに由来しているため。そこに抑制ブレーキを効かせるための論理的自律判断が働くことは一切ない。ケダモノは暴走する以外に自律的に自己抑制などしないのである。
厄介なことに、彼らは自分のことを「純粋。」であると認識「実感。」しているため。全く問題意識は働くことがない。
天下り役人の傲慢さというものが通り魔のそれと類似するのは。心理的に同じ意識狭窄性に由来するものであるからだ。
自律的に公益倫理判断を行わないということは、すなはち多数他人が作り出す価値観というものに「従順。」なだけであり。自分の行動責任を自律的に担保するという「素直さ。」の欠落を意味する。
他人との比較に意識を奪われた状態の者というのは、自己内部における自発的価値観を失っている状態である。他人との比較しか認識できない状態であれば、それをどんなに追求しようとも自己内部の自発的価値観が満たされることは一切ないため。欲望に際限が失われることになる。
本質的に自発的行動に価値の重きを置く人の場合。環境に行動が左右されることは少ない。そもそも本質的自己としての自発的価値観を自己自身で充足できるため、他人に対しての過剰な評価報酬の要求をすることはないのである。
バカな奴はそれを「自慰的。」などと言い出すが。それなら多数他人に欲求を満たしてもらうことしか考えられない者を何と形容すべきであろう。「他慰的。」というのなら、それはもはや全裸コートで徘徊するド変態でしかなかろう。事ほど左様に自律判断のできないバカというのは自分の姿を省みる精神的余裕というものが全く存在しないのである。
その場限りの「取り繕い。」や「言い逃れ。」によって多数の大衆凡民をごまかすことができたとしても、それは多数の凡民に対しての優越感を得るだけであり。それは「イヌの優越。」に過ぎない。
イヌというのは他者との関係性、つまり本能的社会形成習性に則った反射的欲求でしか大脳辺縁系を満たすことはできない。イヌは自分の脳を自分で満たすことができず、あくまで他者との関係性によってのみ充足を得ることしかできないのである。従ってイヌの行動というものは徹頭徹尾環境依存であり、自分の運命を自分自身では一切選択することはできない。
よく訓練されたイヌを、一般的には「頭が良い。」などと形容するが。訓練という環境の結果として機械手続き的条件反射行動として従順なだけのイヌを、自分達にとって「都合が良い。」ことを「頭が良い。」と錯覚しているだけであって、イヌは訓練を受けずに甘やかされて育てば簡単に飼い主の手を噛むようにも、野犬の群れに育てば単なる野犬にもなる。その違いは自律的には選択不能であり、あくまで環境という非自律的要因任せの運命論的「結果。」でしかないのである。
ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって他者との関係性に執着する行動習性というものが組み込まれている。進化的にはそれが「生存。」に適したからであるが、ただ「生存。」に適したというだけであるならば、暴力的であろうがバカであろうが構わない。
シエラレオネという環境下においては、より残虐であることこそが「生存。」につながるような条件場面もある。それをただ短絡的に「生存。」という結果だけを絶対基準にしてしまえば公益倫理も持続可能性も無視してしまうことになるのである。それは人間としての基準ではなく、もはやゴキブリの基準にしかならない。単なる生存価だけを論ずるのであればゴキブリで充分であるからだ。
ヒトは他人との比較において、自分だけが愚かでなければ「安心。」して愚かでいることに問題意識が働かなくなる習性がある。多くの他者が環境依存的価値観に流されている場合、自分だけがそれを求めないことに恐怖心を抱き、強迫観念的に同じ価値観を共有していなければ「不安。」に陥る傾向性がある。
いうなれば、バカの集団に「染まって。」しまえば、バカでいる方が「楽。」なのである。
昨今の科学離れの原因というのは、科学的思考の基礎となるべき論理的思考の素となる自発的な謎への素朴な疑問が失われてしまっていることが根底にある。
誰も考えたりしないことを考えることを忌避したり。或は直接他者からの評価報酬に結びつかないような疑問に対して自発的に思索を巡らすことを無駄であるとする価値観一色に染まってしまっているからである。
養老孟司がやたらと論じていた「スルメ見て、イカがわかるか。」という話も。要するに養老自身が自発的に解剖学に対して純粋に取り組んでいないからこそ「悔しい。」などという感情が出てくるのであり。純粋に自発的研究として解剖を行っていれば、「別にイカをわかろうとしているわけではなくて、スルメに興味があっただけです。」で済む話なのである。
それを、わざわざ「悔しい。」と思わなければならないのは、行為自体の不純さと、他人との比較価値観による敗北感情が「悔しい。」と感じさせるのである。
無論、この場合における「純粋。」さというのは、前述の多数他者環境下における自発性を伴わない機械的「純粋。」さとは全く正反対のものである。
科学的思考における最も根底にある「動機。」とは、自発的な疑問に基づく自発的論理思考にある。
周囲の環境に流された「結果。」としての行動というのは、当人にどんなに強い欲求が存在しているとしても、それは本質的には「自発的。」欲求ではない。
それはパチンコやクソゲー、或はギャンブルにハマることと同じである。多くのヒトがハマるとしても、それは人間としての生き甲斐に結び付くような、個人において普遍的な価値観にはならない。
ネコの前にネコジャラシを振れば、ネコは機械反射的にネコジャラシにじゃれるものである。しかし、これはネコ自身が選択して行っているとは言えず、あくまでじゃれる対象があるという「環境。」に依存した行動「結果。」でしかない。
個人的であっても普遍的価値観であれば、それは他者からの評価報酬には左右されることもなく常に自発的に続けられるものであり。また、普遍的に続けられる持続可能性にも意識が働き、さらに自発的思考によって公益倫理的自律選択判断もできるようにもなりうるのである。
しかし、自発的な価値観を持たない場合、自律的に公益倫理判断ができるようには原理的にならない。自律というものは自発の中にあり、他にはないからである。
「体制に迎合。」とは言っても、政治社会体制に批判をしないことを指すのではなく。むしろマスコミが垂れ流すような怠惰な政権批判に便乗して批判するような無思考な批判もまた、その時代の「体制に迎合。」していると言える。
ヒトという種の生物は、本能的に組み込まれた気分的に「安心。」な行動を追求する性質というものがある。
「コミュニケーション能力。」などと称して、大多数の一般的観念に迎合して多数のご機嫌取りを行うことこそが人間性であると錯覚するのである。
実際には個人的に自分の気分を害されたことに対して、極めて主観的価値観に基づいて「お前にはコミュニケーション能力がない。」などと言い張る身勝手な者も少なくはない。「モンスター○○。」と形容される人々というのは、自分の価値観こそがあたかも社会の絶対的価値観であるかのごとく錯覚しているからこそ自信たっぷりに自分の観念を他人に押し付けるのである。
何せ錯覚を現実であると認識しているので、地下鉄に毒ガスを撒いても自分が悪いとは思ってはおらず、平気で言い逃れや取り繕いを行うことができるのである。オウム真理教の教祖が「弟子の要求に応えただけだ。」と論ずるのも、「弟子の要求。」という環境依存的な要因に無意識的に反応しただけであることを示唆している。
こうした「体制への迎合性。」というものは、ナチスの絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが論じた「私は忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」という話と同根である。どちらも本質的な自律判断選択というものの欠落が見られる。
多数他人のご機嫌取りを行うことを「コミュニケーション能力。」というのであれば、アイヒマンやオウム真理教幹部の体制迎合性も「コミュニケーション能力。」ということになるのである。
他人のご機嫌取りであればイヌやチンパンジーでも行うものである。ゆえにイヌやチンパンジーというのは封建的社会しか作り出すことはできないのである。
イヌというのは縄張り意識(もちろん無意識である。)が非常に強いため。極めて閉鎖的である。組織の閉鎖性というものは組織内部でのご機嫌取りにばかり意識が働く性質によって、結果的に生物学的社会形成習性の閉鎖性が優先的に働くようになってしまうのである。また、体制内部に腐敗が浸透している場合、こうした閉鎖性は益々増強されることになる。
たとえ学力成績が高くても、生物学的社会形成習性による本能的行動を自律的に抑制することができるわけではなく。むしろ「学力成績=頭が良い。」という無思考な観念を鵜呑みにして学力に執着している場合には、その無思考性ゆえに自律的判断ができない場合も多い。オウム真理教の幹部達が高い学力を有していながら、簡単にカルト宗教に心酔してしまったのも、生物学的社会形成習性という本能に無意識に流された「結果。」だからである。
カルト宗教の教祖や幹部達は、自分達の問題点を認識することはできない。できないからこそ暴走したのであり、彼らは自分達がなぜ不毛な暴力を行ったのかを自律的に認識することは原理的にできない。
彼らにとっては、その場限りの気分的「安心。」という本能を満たすことにしか意識は働いておらず。無意識な本能の「結果。」に対する事後正当化のための屁理屈以外何も意識は働かないのである。なぜならそれこそが彼らの大脳辺縁系の「安心。」を促すからである。
こうした本能的社会形成習性に由来する「ヒトの暴走。」の危険性というものに対して、脳科学を含む生物学者達の誰も論じようとしないのは。彼らにとって本能的社会形成習性と本質的な人間性を伴った自律的社会性との区別を全くしてこなかったという無思考性、怠惰性の露顕を忌避するがゆえの隠蔽工作によるものである。
マスコミもまた、脳トレ類における利益を正当化するため、何が何でも脳トレには意味があることにしておかないといられないのである。
このような状況下において、カルト宗教や通り魔の暴走の原因というものは研究されることは一切ない。どんなに被害者達が議論しようとしても、生物学界においては議論したくない「嫌な話。」でしかないからだ。
今更何か実験によって「立証。」する必要性は何もない。ヒトという種の生物というのは、その行動選択のほとんどが無意識的な本能や固定観念によって支配されている存在であることは明白である。
社会心理学の実験のほとんどは、被験者に実験の意図を隠蔽して行われるものであり。これはつまり被験者の無意識的行動選択を抽出するための実験でしかないのである。こうした実験からは意識的「目的。」行動選択に言及することはなく、無意識的な気分による本能的行動「結果。」しか観測することはできない。
本能的な行動「結果。」だけをどんなにたくさん抽出しても、そこから意識的な「目的」選択とは何かには一切言及できない。
いわば不毛な実験に税金の無駄遣いを繰り返しているだけなのである。山岸俊男の異常に多い実験というのは、スタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験以上の何の成果も導き出してはおらず。徒に胡乱な実験を繰り返すばかりで、その実験を行う論理的根拠とか予測といった基礎が全く存在しない不毛なものである。
試験脳
ゲーム脳などと同様、試験における成績が高くても本質的知能であることの証明にはならない。
たとえ脳科学や認知科学における「論理的思考能力。」試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、試験以外の成績に直接的つながらない事柄に関して論理的思考ができることを証明してはいないのである。
一級建築士の試験に合格したからといって本当に建築士としての能力を常に発揮するわけではないのと同様、論理的思考能力試験で高い成績を獲得しても、常に論理的思考能力を発揮できることの証明にはならない。
どんなに難解な論理的思考ができるとしても、直接成績として評価されないような事柄に対しては、「意欲。」が働くとは限らないし、むしろ多くの場合成績という他人からの評価につられて無意識的に成績に執着してる場合。試験以外には全く興味を示すことはなく、結果として試験が終ればあっさり忘却無能化してしまうのである。
つまり、試験という一種のゲームの成績に対して無意識的機械手続き的条件反射として「学習。」された特定能力というものは、試験以外には何の役にも立つことはない。
そもそも脳科学、認知科学における「論理的思考能力試験。」という基準自体、「試験。」という特定環境下においての能力以外を全く想定していないものであり。どんなに試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、あらゆる事柄において常に論理的思考能力を発揮することの証明でも何でもないのである。
巷で流行している「検定ブーム。」というものも、要するに検定という特定環境における「合否。」という成績評価欲しさの無意識的順位欲を満足させているだけの極めて個人的自己満足に過ぎず。試験脳の一種であり、いうなれば「試験で脳がバカになっている。」だけのことである。
教育機関というのは、構造的に試験によって成績順位で生徒を選定する以外の選別方法は存在しないであろう。しかし、問題なのは「生徒の成績=教育者の成績。」という短絡的基準だけで、生徒の本能的順位欲を利用した過度な競争をけしかける学習手法というものは、生徒の意識を狭窄化させるだけであり。生徒の自発的で純粋な疑問への追求意欲を失わせ、実社会においては学校のような「成績。」が存在しないために、成績の代わりに「報酬。」に対する機械反射的な欲望しか働かなくなってしまうことになるのである。
「天下り。」のような合法的詐欺が横行するのは、彼らの脳が他人からの評価報酬以外に全く意識が働かないように意識狭窄化しているために。限りなく他者から与えられる「エサ。」にしか意識が働かなくなっているためである。従って彼らの意識の狭窄性自体が変わらない限り、どんなに制度改革を行っても「エサ。」にしか興味がない以上、法的逃げ道を探すことには必死になっても、天下り自体を撲滅させることには全く興味「意識。」が働くことはない。
いわば「天下り脳。」とでも言える状態に陥っているのである。それがどんなに論理的に複雑で巧妙な技法を用いていようとも、その動機となっているのは本能的な利己的欲求だけであり。何ら「合理性を追求。」などしていないのである。
洗脳
洗脳というと、多くの人は特定の誰かが意図的「目的。」のために他人の行動を制御するものであると思うであろう。だからこそ地下鉄サリン事件の被害者達はオウムの教祖に真相を求めるのである。
残念ながら、実際の洗脳状態のほとんどは「誰にも目的がない。」という無意識状態によって、本能的に組み込まれた社会形成習性に従って本能的攻撃性を純粋に発露した「結果。」に過ぎない。
歴史書をひもとけば暴力を用いた覇権争いの話だけが歴史を作ったかのように論じられている。「勝てば官軍。」という「結果。」だけしか文系の歴史家は論じたくないのである。特定の誰かを英雄として祭り上げておけば気分的に満足するのは何故か、そのヒトという種の本能の根源が生物学的社会形成習性という無意識性に由来するということには、彼らは触れたくないのである。
「過去に何々が起こらければ、歴史は変わっていたかも知れない。」などという「たられば。」論というのは、決して歴史書に掲載されているような特定の事柄に限ったことではなく。あらゆる物事に言えるものなのである。
カオス理論における「バタフライ効果。」のように、誰にも知られることのない小さな出来事が、結果的に大きな事象の根本原因となっている可能性も充分に有り得る。
単なる「結果。」だけを論じているのであれば、これからどうすべきであるかといった「目的。」には言及されることはない。何が起きても全ては「結果。」だけが全てであるからだ。
戦国武将などというのも、要するに軍事政権の覇権争いの話に過ぎず。全ては「結果。」以外の何も論じてはいない。
武士道精神などというものも、要は暴力性を用いた権力を事後正当化するための「負い目。」から論じられているだけのものであり。根本的には搾取者の文脈でしかない。そもそも武士道というのは主君に対する忠誠忠実性が根底にあり、それを「美しい。」などという主観的観念によって彩ることによって正当化しているに過ぎないのである。
これらのことに一切言及せずに、特定のカルト宗教団体だけにカルト化の原因を求めても無駄である。ヒトである以上同じ生物学上における本能的社会形成習性に言及しなければ、原因の究明は原理的に不可能なのである。
カルト化というもの、洗脳状態というものは日常的に存在しうるものであり。ゆえに振り込め詐欺が横行することが可能なのである。被害者でありさえすれば反社会勢力への資金提供が正当化されるわけではないことを認識すべきである。
バカであること、愚かであることは社会的負荷であり、「罪。」なのである。それは法的な罪ではないかも知れないが、社会的負荷としての罪であることからは逃れられるものではない。
ところがヒトという種の生物というのは、論理的に何が罪であるかを認識することはなく。むしろ観念的、強迫観念的に罪の意識にさいなまされる傾向というのがある。サバイバーズギルドなどの観念的な罪の意識というものは、あくまで気分的に罪悪感を「感じ。」るだけであって、論理的に個人の責任の範囲とは無関係に感覚的に「感じ。」るという錯覚に過ぎない。ヒトは基本的に生物であるため、実感を伴った感覚的「感じ。」こそが客観的事実であるかのように錯覚しがちである。
その逆もあり、感覚的に実感を伴わなず。また法手続き的にも触れていない社会的負荷には罪の意識が働くことはないのである。
人文諸科学の分野において、歴史上の「英雄。」に酔ったり。或は心理的な「心の救い。」などと称して論理整合性の欠落した「哲学書。」に評価を与えたりしているカルト性に言及しないのは。カルトとは何かを追求する「意欲。」「意識。」の欠落という他ない。
どんなにたくさんの書物を「知って。」いても、それは実質的に社会の問題に生かされることはないのである。
北大の山岸俊男らが行っている社会心理学実験というものは、被験者に実験の意図を隠蔽したまま行われるものであり。こうした実験からは被験者の無意識的な行動「結果」の多数抽出しかできない。
それはそれで、たとえばスタンレー:ミルグラムらが行った服従心理実験のように、無意識的なヒトの行動習性を抽出することによって無意識的本能の危険性を導き出すことには意味があるのだが。逆に衆人環視環境における一面的人間性の証明には意味がない。
それはいわば、チンパンジーの利他行動抽出と同じ一面的な立証にかならず。ミルグラムの服従実験における本能の危険性の反証にもならない。
一面的立証だけで人間としての社会性全てを証明することは原理的に不可能である。シエラレオネの少年ゲリラを同じ環境下でどのような行動を採ろうとも、少年ゲリラの人間としての社会性証明にはならないからだ。もし可能であるというのであれば、通り魔に同様の行動を採らせれば社会に復帰させても良いという結論になる。そんなバカげた話は現実的ではない。
山岸らが行っている無意識的な行動習性の抽出からは、人間としての社会性は証明することができないのである。
つまり、山岸らの実験というのは徒労な血税の無駄遣いでしかなく、全く社会的に役に立たない。一時期バスなどに貼られていた「カラス除け。」も、結局は犯罪抑止にはなっておらず。その場限りの一時的効果しかないことは予め予測できていたことである。
本当に社会にとって有用な研究を行うのであれば、むしろアイヒマン実験のようにヒトの無意識的な行動習性を抽出することによって無意識的習性の危険性を広く知らしめることである。山岸は自分が今まで行ってきたことを事後正当化しているだけであり、その動機こそがヒトという種の「心理。」的な拘束によるものであることを、山岸自身が認識していないのである。こんなバカに社会心理学的権威性を与えておいても、実質的な社会的貢献になる結果は導き出されることがないのは明白である。
ヒトは他者との比較による優越を快楽であると「感じ。」る習性がある。
競争「原理。」というのは、こうした本能習性によって作り出されるものである。
個人的に好きな行為において他者との比較競争を「楽しめる。」のであれば、競走は互いを高める有益なものにもなりうるが。過度に強迫観念的な恐怖心を用いて煽られた競争というものの場合、心理的狭窄性を促すことになるため、アインシュタインが懸念した「後に重大な影響を及ぼす。」ことにつながるのである。
本能的な競争心を煽られるということは、そこに本質的自発性は存在せず。環境から与えられた他者との競争への強迫観念的な恐怖心だけに意識が集中させられ、それが意識の狭窄性につながるのである。
これは洗脳の一種である。
教育者はこう述べるであろう、「企業や親が望むからだ。」と。すなはち、教育者自身には社会における教育の公益的役割としての本質的人間としての社会性など最初から頭にないから、こうした環境依存的な言い逃れをすることになるのである。
教育者が教育の目的を企業や生徒の親に依存しており、全く自律的に教育者としての社会的目的意識がないということである。ただ漫然と多数の企業や生徒の親からの要望に応えるだけで、教育というものの目指すべき理念や社会的目的といったものを、教育者自身が全く「考え。」ていないとういことである。
そもそも「多数の企業。」や「生徒の親。」というのは、あくまで企業の利益や個人的な利益といった利己的な動機にしか意識は働いておらず。ゆえにただ漫然と過度な学力競争を要求するのであり。結局誰にも教育というものの社会的役割を意識しないまま「暴走。」した結果として学力が高いだけの通り魔やカルト宗教の幹部を大量生産し続けているのである。
単に個人的利益だけを追求するのであれば、天下り役人は「純粋。」に利益を追求しているに過ぎず。その「純粋。」さというのは機械手続き的条件反射行動として、機械的に「純粋。」であるということである。こうした「純粋。」さというのは、アドルフ:アイヒマンの「純粋。」さや、人類の救済と称して命懸けでテロを行ったカルト宗教幹部の「純粋。」さと同じものである。
機械であれば、予め組み込まれた機構原理以外の行動選択を行うことはない。それなら自動運転の列車が人を轢き殺したとしても「罪。」には問われないことは自明であろう。カルト宗教が暴走しようとも、教育機関が社会的な役割とは何かを自律的に追求しなかろうが、それらが全て自分達には責任が存在しないというのであれば、それはもはや「人間の教育。」ですら最初からないということである。
糞の役にも立たない検察官や、耐震建築強度を偽装する一級建築士をどんなに大量に「生産。」しても。それが「生産。」時点での教育者の評価成績になるとしても。現実的に社会的公益性に貢献しないばかりか、むしろ社会を崩壊に向かわせているだけである。
つまり、誰しもが他人からの成績評価にばかり意識しか働いておらず。社会全体のありようとしての理想理念といったものが欠落したまま機械的に高い学力の生徒を大量生産しているだけなのである。
他人や環境から与えられる評価報酬といった「エサ。」による快楽というのは、その快楽の起点が自己の内部には存在しておらず。常に社会環境から与え続けられなければ充足できないものであるため。その欲望には際限がない。
権力欲に溺れる独裁者というのは、オウム真理教の教祖と同じで。当人的にはただ「純粋。」に周囲の人間の要望に応えただけに過ぎず、目的意識も何もなく。ただ機械反射的に破滅への道を「純粋。」に邁進することに陥るのである。
こうした「純粋。」さというものは、その動機自体が大脳辺縁系が促す欲望という機械的「純粋。」さに由来しているため。そこに抑制ブレーキを効かせるための論理的自律判断が働くことは一切ない。ケダモノは暴走する以外に自律的に自己抑制などしないのである。
厄介なことに、彼らは自分のことを「純粋。」であると認識「実感。」しているため。全く問題意識は働くことがない。
天下り役人の傲慢さというものが通り魔のそれと類似するのは。心理的に同じ意識狭窄性に由来するものであるからだ。
自律的に公益倫理判断を行わないということは、すなはち多数他人が作り出す価値観というものに「従順。」なだけであり。自分の行動責任を自律的に担保するという「素直さ。」の欠落を意味する。
他人との比較に意識を奪われた状態の者というのは、自己内部における自発的価値観を失っている状態である。他人との比較しか認識できない状態であれば、それをどんなに追求しようとも自己内部の自発的価値観が満たされることは一切ないため。欲望に際限が失われることになる。
本質的に自発的行動に価値の重きを置く人の場合。環境に行動が左右されることは少ない。そもそも本質的自己としての自発的価値観を自己自身で充足できるため、他人に対しての過剰な評価報酬の要求をすることはないのである。
バカな奴はそれを「自慰的。」などと言い出すが。それなら多数他人に欲求を満たしてもらうことしか考えられない者を何と形容すべきであろう。「他慰的。」というのなら、それはもはや全裸コートで徘徊するド変態でしかなかろう。事ほど左様に自律判断のできないバカというのは自分の姿を省みる精神的余裕というものが全く存在しないのである。
その場限りの「取り繕い。」や「言い逃れ。」によって多数の大衆凡民をごまかすことができたとしても、それは多数の凡民に対しての優越感を得るだけであり。それは「イヌの優越。」に過ぎない。
イヌというのは他者との関係性、つまり本能的社会形成習性に則った反射的欲求でしか大脳辺縁系を満たすことはできない。イヌは自分の脳を自分で満たすことができず、あくまで他者との関係性によってのみ充足を得ることしかできないのである。従ってイヌの行動というものは徹頭徹尾環境依存であり、自分の運命を自分自身では一切選択することはできない。
よく訓練されたイヌを、一般的には「頭が良い。」などと形容するが。訓練という環境の結果として機械手続き的条件反射行動として従順なだけのイヌを、自分達にとって「都合が良い。」ことを「頭が良い。」と錯覚しているだけであって、イヌは訓練を受けずに甘やかされて育てば簡単に飼い主の手を噛むようにも、野犬の群れに育てば単なる野犬にもなる。その違いは自律的には選択不能であり、あくまで環境という非自律的要因任せの運命論的「結果。」でしかないのである。
ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって他者との関係性に執着する行動習性というものが組み込まれている。進化的にはそれが「生存。」に適したからであるが、ただ「生存。」に適したというだけであるならば、暴力的であろうがバカであろうが構わない。
シエラレオネという環境下においては、より残虐であることこそが「生存。」につながるような条件場面もある。それをただ短絡的に「生存。」という結果だけを絶対基準にしてしまえば公益倫理も持続可能性も無視してしまうことになるのである。それは人間としての基準ではなく、もはやゴキブリの基準にしかならない。単なる生存価だけを論ずるのであればゴキブリで充分であるからだ。
ヒトは他人との比較において、自分だけが愚かでなければ「安心。」して愚かでいることに問題意識が働かなくなる習性がある。多くの他者が環境依存的価値観に流されている場合、自分だけがそれを求めないことに恐怖心を抱き、強迫観念的に同じ価値観を共有していなければ「不安。」に陥る傾向性がある。
いうなれば、バカの集団に「染まって。」しまえば、バカでいる方が「楽。」なのである。
昨今の科学離れの原因というのは、科学的思考の基礎となるべき論理的思考の素となる自発的な謎への素朴な疑問が失われてしまっていることが根底にある。
誰も考えたりしないことを考えることを忌避したり。或は直接他者からの評価報酬に結びつかないような疑問に対して自発的に思索を巡らすことを無駄であるとする価値観一色に染まってしまっているからである。
養老孟司がやたらと論じていた「スルメ見て、イカがわかるか。」という話も。要するに養老自身が自発的に解剖学に対して純粋に取り組んでいないからこそ「悔しい。」などという感情が出てくるのであり。純粋に自発的研究として解剖を行っていれば、「別にイカをわかろうとしているわけではなくて、スルメに興味があっただけです。」で済む話なのである。
それを、わざわざ「悔しい。」と思わなければならないのは、行為自体の不純さと、他人との比較価値観による敗北感情が「悔しい。」と感じさせるのである。
無論、この場合における「純粋。」さというのは、前述の多数他者環境下における自発性を伴わない機械的「純粋。」さとは全く正反対のものである。
科学的思考における最も根底にある「動機。」とは、自発的な疑問に基づく自発的論理思考にある。
周囲の環境に流された「結果。」としての行動というのは、当人にどんなに強い欲求が存在しているとしても、それは本質的には「自発的。」欲求ではない。
それはパチンコやクソゲー、或はギャンブルにハマることと同じである。多くのヒトがハマるとしても、それは人間としての生き甲斐に結び付くような、個人において普遍的な価値観にはならない。
ネコの前にネコジャラシを振れば、ネコは機械反射的にネコジャラシにじゃれるものである。しかし、これはネコ自身が選択して行っているとは言えず、あくまでじゃれる対象があるという「環境。」に依存した行動「結果。」でしかない。
個人的であっても普遍的価値観であれば、それは他者からの評価報酬には左右されることもなく常に自発的に続けられるものであり。また、普遍的に続けられる持続可能性にも意識が働き、さらに自発的思考によって公益倫理的自律選択判断もできるようにもなりうるのである。
しかし、自発的な価値観を持たない場合、自律的に公益倫理判断ができるようには原理的にならない。自律というものは自発の中にあり、他にはないからである。