書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

星 元紀:放送大学生物学

2011年12月30日 00時53分21秒 | 意識論関連
 種としてのヒトであるだけでは、一個の互換不能な人間としての存在価値を証明したことにはならない。

 従来の生物学においては、全ては結果の枚挙だけから個体の本能的行動とは無関係な、個体の意図を超越した超自然的目的意識の存在を証明したことになってしまっている。

 単なるヒトという種の生物の存続「生存。」だけを論じても全く意味がない。人間としての存在価値を持たないのであれば、殺戮と略奪の世界を次の世代に受け継ぐことになりかねない。

 「教育をすることがヒトの優位性。」であると星元紀は勝手に定義する。

 単に教育をするだけなら、ヒトでなくても行うものであり。また、その「量。」だけを論じても人間としての価値にはならない。

 単に教えられたことを鵜呑みにするだけであれば、どんなに大量の情報を鵜呑みにして「知って。」いても、そこからは既存の知識以外の何も新しい知識の拡大は生まれることはない。

 教育における「質。」とは何か。それは単に既存の知識を漫然と鵜呑みにすることではなく、既存ではない新しい発見や発明によってのみ、知能は拡大することが可能であるからだ。

 本能習性によって無意識的に獲得「してしまった。」特殊能力とは異なる、本能習性に依存しない自発的な知見の拡大が可能でなければ、本質的には人間の知能ということはできない。

 学力成績が高いテロリストや通り魔や天下り役人がいるように。既存の学力成績基準というものは本質的知能としての人間としての公益倫理的自律判断を伴う知能の証明とは無関係なのである。

 現代社会においては学力学歴と生活は直結しているが、それは「現代社会。」という「時代。」に依存した「結果。」に過ぎず。普遍的な人間としての価値の証明ではない。それが個人的な「生存。」価に適するというのも、結局は本能に直結した「結果。」的行動習性に過ぎず、普遍的な人間としての価値とは無関係である。

 単にヒトという種の生物でありさえすれば人間としての価値が証明されるわけではなく。個体としての存在価値、「その人でなければならない根拠。」としての存在価値がなければ人間としての価値にはならない。

 ところが現在の生物学の文法上においては、結果こそが絶対的正義として扱われ、結果的効果さえ断片的に立証されれば個体の本能的選択の存在の有無に関わらず「生存戦略。」などという短絡的こじつけがまかり通っている。

 ひどい場合は「そうしないと説明ができない。」などと言い出す始末である。これは説明すること自体が目的になってしまっているのであり。論証の厳密性が二の次になってしまっているのである。これでは自然科学とはいうことができない。

 現在の生物学上において、ヒトという種の生物の優位性をどんなにたくさん枚挙しても、そこからは「ヒトが人間としての存在価値を持ちうる。」ことの論証には到達することは原理的にない。

 本能習性に由来する「結果。」だけを論じている限り、そこには意識的「目的。」行動選択の存在を証明したことにはならないのである。特定環境下において実験者の観念に都合の良い結果だけを枚挙する現在の生物学の手口からは、個体としてのヒトが自律的、意識的に行動選択した「目的。」には原理的に言及できないからである。

 星 元紀は、あたかもヒトという種における問題点を挙げたような雰囲気だけは作り出しているが。実際には従来の生物学における固定観念の問題には言及しておらず、全くもって日和見に過ぎない。

 単なる生存だけを論ずるならば、殺戮や略奪であろうが「生物学的生存価。」に適していさえすれば良いのであって、当人が過酷であろうがなかろうが、生物学者達にとってはどうでも良いのである。生物学的な「種の存続。」だけを論じても、そこから個人の尊厳を伴った人間としての存在価値にはならないことを、星 元紀は無視しているのである。

 実際、具体的には生物学の問題点には全く言及しておらず、実際の問題解決に関しては「ヒトは必ず解決できると信じている。」などとアカの他人に丸投げである。これは最初から問題意識が存在しない証拠である。

 「人はどこに向かうのか。」というのは、あくまで個人の自律的、意識的な判断に基づくものであって。「ヒトはどこから来たのか。」という単なる「結果。」とは何ら無関係なものである。従って、どんなにヒトという生物種の起源を論じても、「どこへ向かうのか。」という「目的。」意識に基づく帰結には原理的に到達不可能なのである。

 要は無駄ということ。

 個人の起源について、たとえば虐待をされて育ったという起源をどんなに強弁しても、虐待を連鎖することの正当性が証明できないのと同じである。

 ヒトという種の生物には本能的な社会形成習性というものが存在し、ヒエラルキーを形成して権威に服従したり、多数に迎合したりすることが「安心。」なように進化的に組み込まれている。

 機械条件反射的に「安心。」を求めるようにできていること自体が「結果。」であって、こうした「結果。」的行動習性の枚挙からは何ら個人の自律的「目的。」意識は原理的に抽出不可能なのである。

 従来の生物では、「ヒトという種の生物は、概ねこういうものである。」ことを論ずることはできても、「人間として、かくあるべき。」には言及できないのである。

 大衆迎合的に「子孫の存続。」だけを論じても、それは具体的に「どのような社会を子孫に引き継ぐのか。」が抜け落ちており、生物学的な「生存。」にしか言及したことにしかなっていないのである。星 元紀自身にその意図があるかどうかとは無関係であるが、結果的に無為無策な大衆迎合にしかなっていないのであれば、こんなバカが放送大学の講師をやっているのは間違いである。

 単なる大量の知識にひけらかしをしているだけで、具体的に当人の自発的思考に基づく「考え。」は存在せず。要約すれば、「ヒトという種の生物なら、そのうち誰かが何とかしてくれるだろう。」という日和見をしているだけである。自分自身に何ができるのかには一切言及しておらず、全くもって無為無策なバカとしか形容不可能である。



 「生存戦略。」などという、個体の本能的行動意図とは無関係の超自然的目的意識の存在は証明できない。

 結果的に生存につながる行動習性を偶然獲得「してしまった。」個体にとって、生存だの種の存続などというのは個体の本能的行動選択にとってどうでも良いことであり。単なる外見上の「結果。」以上の何物でもない。

 こうした「結果。」だけを抽出してきて、それを「目的。」だとか「生存戦略と採った。」などと形容するのはこじつけ以外の何物でもない。結果的に生存に適さなかったあらゆる種の行動については全く評価されておらず、結果的に生存に適した種においてだけしか評価されていない屁理屈なのである。

 これに対して生物学者は「比喩に過ぎない。」としておきながら、それを「支持する。」という支離滅裂な判断を下すのである。もはやキチガイとしか思えない。

 無意識的結果と、意識的目的を厳密に区別できない現在の生物学においては。「人間は、これからどのような選択をすべきであるか。」には理論的に言及することができない。こうした状況を放置する神経が私には全く理解できない。最初から意欲が存在しないとしか考えられないのである。



 畑村洋太郎が論ずる「自律的に社会的責任を負う。」行動というのも。それは判断をする個人の意識に負うところがほとんど全部である。決して無意識的刷り込み学習によって「勇気がわく。」だの「元気が出る。」から選択されるような簡単なものではない。元気だの勇気といった気分、すなはち大脳辺縁系の反射に依存した行動選択からは自律的社会的責任行動選択などというものが常に選択される保障など全くないのである。

 逆に、気分的な後天的刷り込み学習行動によって、ヒトはナチスの絶滅収容所の吏官と同じ行動を採ってしまう習性もあり。これはむしろ「普遍的。」に観測されるヒトの行動なのである。決して無意識的行動習性から人間としての存在価値など「立証。」することはできない。

 シエラレオネの残虐な少年ゲリラの行動であっても、これもまたヒトという種の生物における行動習性であり。こうした残虐性というものはどのような社会においても発生しうるものでもある。あまりに残虐な事件の場合報道も取り上げない場合も少なくはない。イジメというのはヒトにおいて普遍的に行われるものであり、イジメというのは組織的統率がとれているからこそ行われるものであり、こうした統率というのはヒトが持つ社会形成習性が促す服従本能によって作り出されるものである。

 ヒトという種の生物は特定の誰かに服従していることに気分的安心を抱く性質がある。そこに生物学的なこじつけは不要である。単なる習性というのは、本能的にはそれ自体が「目的。」であり、どのような結果になるかといった意識的に選択される「目的。」とは無関係だからであり。決して超自然的「目的。」意識など存在しないからである。

 イジメには意識的目的は存在しない。イジメというのは本能的な社会形成習性が促す統率によって無意識的に行われるものであり。無意識的な多数他人との共感自体が「目的。」だからである。

 これはオウム真理教のテロにおいても同じことが言える。オウムの幼稚性というのは、構造的には子供のイジメと何ら違いはないのである。ただ資金面における優位性によって暴走に全く歯止めがかからなかったが故に大事件にまで発展しただけである。

 目先の多数他者と同じ観念を共有していると気分的に「安心。」なのである。「みんな、同じなんだ。」と安心する習性は、漫画「だめんずうぉーかー。」に典型的事例として掲載されている。バカというのは強迫観念的に「安心。」だけしか追求せず、論理的安全性などどうでも良いのである。

 気分的「安心。」というものは論理的「安全。」性を証明しえない。むしろ酔っ払い運転だの運転中の携帯電話なども、これらは気分的に「安心。」だからこそ危険なことを平気で行えるのであって。気分的「安心。」こそが重大事故や事件といったものの人為的原因の根源であると言っても過言ではない。


 脳科学者達が特殊な特異能力の優位性における無意識的機能の話ばかりしたがるのは、意識機能が不利であるという「結果。」だけを強調し、その重要性を隠蔽するためのものである。

 高速高機能な特殊能力の優位性だけを強調しておけば、社会的成功にしか興味を持たぬ大衆凡民のウケが良いことを利用し、社会的成功とは無関係の本質的意識機能による自律的社会的責任行動選択という大衆にとっては気分の悪い話から意識を遠ざけるための一種の洗脳プロパガンダであり。脳科学者の社会的貢献を放棄した悪質なペテンである。

 ヒトが人間足りうる所以としての、低速繁雑な理論的思考を必要とする本質的意識なくして、社会の安全性は確保されることはない。機械手続き的な「お役所仕事。」の無能性とは、役人達の自律的責任意識の低さによるものであり、無意識性によるものである。

 他人には意識の高さを求める癖に、自分自身は呆然と無意識に感情のおもむくままでいたがるというのは、社会的「甘え。」であり。人間として出来損ないである。

 最初から学習障害などで責任が負えないのであれば、それは他人にも意識の高さを求めたりはしないので罪はないが。そうではないにも関わらず自分だけ無責任でいようとするのは「甘え。」だと言っているのである。これは無責任であり、罪である。

 放送大学のように、技術者だけに倫理の全てを押し付けようとする考えは間違いである。倫理は全ての人に必要なものであり、特定の技術者などだけに要求するような偏った責任意識は社会的「甘え。」に過ぎない。

 それなら、私一人だけに生物学や哲学の体制腐敗に対する問題提起を丸投げするのも、充分「甘え。」である。

 ただ単に、本論を読んでいるROM専門では本質的に意味を理解したとは言うことができない。本論はあくまで自律的社会責任を負うことこそが人間としての価値であると言っているのであり。漫然と読むだけ、知っているだけでは単なるバカと同じである。

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