証券市場での取引は「自由。」でなければならないという話がある。
おいらはこれにどうしても違和感を感じる。いかなる取引であっても「自由。」であることが本当に「自由。」だと言えるのだろうか。社会の安定を脅かすような極めて利己的な取引であっても「自由。」でなくてはならないというのは、何か不自由さを感じるのである。
「社会の安定を脅かすような相手との取引はしない。」という「自由。」はどうしてないのだろうか。
動物的な欲望に基づいた利己的利益追求だけが資本主義を支配している状態というのは、人間社会のシステムとして不健全だとは言えないだろうか。なぜ資本主義だけが特権的に動物的利己主義を野放しにしておかなければならないのであろうか。
もしかすると生物学的社会形成習性というものと、本質的人間としての社会性というものの区別が不明確な状態を放置していることが、資本主義の動物的「正義。」の言い逃れを許しているのではないか。
生物学的には個々の個体は社会全体のこと、公益倫理的なことは考えなくても「概ねうまくゆく。」という「結果。」的な安定性を。あたかも絶対的安定性証明であるかのごとくすりかえているように思えるのである。
生物が作り出す生態系の安定性というものは、決して絶対的安定性証明があるわけではない。イナゴの大量発生のような「暴走。」を孕んでいる可能性が必ずある。事実証券市場では過去に何度もこうした「暴走。」はあった。
にも関わらず、なぜ資本主義は生物学的な「結果。」論を、あたかも絶対的に信奉し続けていなければならないのであろうか。
金融工学などにおいても、こうした「結果。」的な傾向性を絶対永遠であるかのように扱ったことこそが、起こりうる「暴走。」への対処を失わせた原因である。
ロシアンルーレットというのがある。6連発の回転式拳銃に一発だけ弾を装填して互いに自分の頭に向けて引き金を引くという決闘の形式である。
6連発の拳銃なら誰でも危険性は認識できるが、20億連発の拳銃で同じことを皆でやっていると危険性が麻痺する。そこにあるのは論理的安全性ではなく、気分的な「安心」感だけであることを、多くの人は意識から失うのである。
厄介なのは高学歴な者であっても、気分的安心感というものへの「実感。」こそが現実であると簡単に錯覚してしまうことである。
だから高学歴なバカは要らないと言っているのである。糞の役にも立たないからだ。
end;
おいらはこれにどうしても違和感を感じる。いかなる取引であっても「自由。」であることが本当に「自由。」だと言えるのだろうか。社会の安定を脅かすような極めて利己的な取引であっても「自由。」でなくてはならないというのは、何か不自由さを感じるのである。
「社会の安定を脅かすような相手との取引はしない。」という「自由。」はどうしてないのだろうか。
動物的な欲望に基づいた利己的利益追求だけが資本主義を支配している状態というのは、人間社会のシステムとして不健全だとは言えないだろうか。なぜ資本主義だけが特権的に動物的利己主義を野放しにしておかなければならないのであろうか。
もしかすると生物学的社会形成習性というものと、本質的人間としての社会性というものの区別が不明確な状態を放置していることが、資本主義の動物的「正義。」の言い逃れを許しているのではないか。
生物学的には個々の個体は社会全体のこと、公益倫理的なことは考えなくても「概ねうまくゆく。」という「結果。」的な安定性を。あたかも絶対的安定性証明であるかのごとくすりかえているように思えるのである。
生物が作り出す生態系の安定性というものは、決して絶対的安定性証明があるわけではない。イナゴの大量発生のような「暴走。」を孕んでいる可能性が必ずある。事実証券市場では過去に何度もこうした「暴走。」はあった。
にも関わらず、なぜ資本主義は生物学的な「結果。」論を、あたかも絶対的に信奉し続けていなければならないのであろうか。
金融工学などにおいても、こうした「結果。」的な傾向性を絶対永遠であるかのように扱ったことこそが、起こりうる「暴走。」への対処を失わせた原因である。
ロシアンルーレットというのがある。6連発の回転式拳銃に一発だけ弾を装填して互いに自分の頭に向けて引き金を引くという決闘の形式である。
6連発の拳銃なら誰でも危険性は認識できるが、20億連発の拳銃で同じことを皆でやっていると危険性が麻痺する。そこにあるのは論理的安全性ではなく、気分的な「安心」感だけであることを、多くの人は意識から失うのである。
厄介なのは高学歴な者であっても、気分的安心感というものへの「実感。」こそが現実であると簡単に錯覚してしまうことである。
だから高学歴なバカは要らないと言っているのである。糞の役にも立たないからだ。
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