書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自由市場。

2011年12月12日 16時45分22秒 | 意識論関連
 証券市場での取引は「自由。」でなければならないという話がある。

 おいらはこれにどうしても違和感を感じる。いかなる取引であっても「自由。」であることが本当に「自由。」だと言えるのだろうか。社会の安定を脅かすような極めて利己的な取引であっても「自由。」でなくてはならないというのは、何か不自由さを感じるのである。

 「社会の安定を脅かすような相手との取引はしない。」という「自由。」はどうしてないのだろうか。

 動物的な欲望に基づいた利己的利益追求だけが資本主義を支配している状態というのは、人間社会のシステムとして不健全だとは言えないだろうか。なぜ資本主義だけが特権的に動物的利己主義を野放しにしておかなければならないのであろうか。

 もしかすると生物学的社会形成習性というものと、本質的人間としての社会性というものの区別が不明確な状態を放置していることが、資本主義の動物的「正義。」の言い逃れを許しているのではないか。

 生物学的には個々の個体は社会全体のこと、公益倫理的なことは考えなくても「概ねうまくゆく。」という「結果。」的な安定性を。あたかも絶対的安定性証明であるかのごとくすりかえているように思えるのである。

 生物が作り出す生態系の安定性というものは、決して絶対的安定性証明があるわけではない。イナゴの大量発生のような「暴走。」を孕んでいる可能性が必ずある。事実証券市場では過去に何度もこうした「暴走。」はあった。

 にも関わらず、なぜ資本主義は生物学的な「結果。」論を、あたかも絶対的に信奉し続けていなければならないのであろうか。

 金融工学などにおいても、こうした「結果。」的な傾向性を絶対永遠であるかのように扱ったことこそが、起こりうる「暴走。」への対処を失わせた原因である。


 ロシアンルーレットというのがある。6連発の回転式拳銃に一発だけ弾を装填して互いに自分の頭に向けて引き金を引くという決闘の形式である。

 6連発の拳銃なら誰でも危険性は認識できるが、20億連発の拳銃で同じことを皆でやっていると危険性が麻痺する。そこにあるのは論理的安全性ではなく、気分的な「安心」感だけであることを、多くの人は意識から失うのである。

 厄介なのは高学歴な者であっても、気分的安心感というものへの「実感。」こそが現実であると簡単に錯覚してしまうことである。

 だから高学歴なバカは要らないと言っているのである。糞の役にも立たないからだ。


end;
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肩書。

2011年12月12日 12時57分37秒 | 意識論関連
 大臣とか、検察官とか。そういった肩書自体が人間の価値になるわけではない。

 一級建築士という肩書自体が人間性を何ら保障しないのと同様に、単に司法試験に合格して検察官でありさえすれば「偉い。」わけでも何でもないのである。

 とかく少数の人しか合格できないような難関を突破すると。あたかもそれ自体に価値があるかのような錯覚に陥るバカが少なからずいるが、どんなに少数しか合格できないような難関試験に合格しても、それはその仕事を行うための基礎でしかないのである。

 司法に携わる者にとって、法手続きこそが「具体的。」であると錯覚するようであるが。現実には法手続きこそが抽象であり、「現実。」の事案においてどのような法律的適用が相当するのかを考えるのが、司法試験を合格した者の仕事のはずである。

 法律上における解釈を行うのは司法に携わる者におけるContextに基づくものであり。「現実」の事案に対して法律上の解釈に翻訳できないようなバカであれば、「社会的。」には糞の役にも立たないということなのである。

 いうなれば、プログラマに対して「これこれ、こうしたプログラムを作って欲しい。」と要望されたにも関わらず。「具体的にどのような関数を用いて実現するのかが書かれていない。」などと言い出すプログラマなんぞ糞の役にも立たないのは明白である。

 ところが司法においては、こうしたバカげた「常識。」が通用するらしいのである。

 福島の農家が検察に起訴状を書いたそうであるが、それに対して検察からは「具体的でない。」などと称して突き返してきたという。肩書は検察官かも知れないが、こんなバカは社会において無用の長物、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。

 どのような法律が適用可能であるのかを考えるのが司法試験を合格した者の仕事でありながら、「具体的にどの法律に触れているのかが書かれていない。」などというのは甘ったれにも程がある。こんな糞検察官こそ「マツリ。」上げるべきなのである。公務員なら情報開示は義務である。

 そもそも現在の司法において、懲役服役後の再犯に対して全く責任を取らない無責任性を放置しておきながら、それを「法律上規定されていない。」などと称して何ら改善しないこと自体、司法としての社会的役割を全く果たしていないのである。

 法律家にとって、法律だけが「正義。」になっているのは法律家の身勝手な思い込みでしかないのである。それは生物学者が従来の生物学の文法に則って無意味な観念を振り回していることや。通り魔の類が仲間内での「正義。」を振り回すのと同じことであり。そんなものを当人が「具体的。」だとか言い張るのは、現実には当人の感覚的「錯覚。」に過ぎない。

 ヒトは感覚的「実感。」こそが「現実。」の全てであると錯覚しがちである。大衆凡民においてそれこそが「常識。」なのかも知れない、だから養老孟司の権威性がなくならないのであろう。

 感覚的「実感。」というものは個人的には現実ではあるが、客観的には現実ではない。こうしたプリミティブな区別自体ができないことを利用して、養老は大衆の脳を撹乱しているのである。これがペテンや占い、スピリチュアルなんとかの類へと大衆の意識を引き込み、振り込め詐欺の蔓延を許していることを認識すべきである。「SQ」の類で自分のランク付けをして「社会性。」云々を論じていること自体が、そもそも人間としての社会性の欠如の左証である。こんなものは出版業界が仕掛けた金儲けイベントの一つでしかないのである。それを誰も認識しないというのは一体どういうことであろう。

 司法については、国政選挙のときに最高裁判官の選挙が伴うことがあるが、マスコミは「具体的。」にどの判事がどういった判断を下したのかといった情報を全く公表しない。情報が周知されていない状態で、一体何を選挙しろというのであろう。マスコミは大衆のウケ狙いに終始していて、ウケの悪そうなことを見事に一切行わないのは手抜きという他ない、やる気のない奴がマスコミに従事しているから、こうした手抜きが平然と行われるのである。問題意識がないのであればとっとと辞めちまえ。


end;
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イモリの足の裏。

2011年12月12日 01時21分51秒 | 日記
 ファンデルワールス力(最後のは漢字の「ちから」って字ね。)っていうのを利用してガラスの表面に張り付くことができるんだそうです。

 人肌プリンゲルのペトペトもこれなのかな。

 「ペトペトさん。」を人肌プリンゲルでフィギュアにしたらどうかな。

 あ、人肌プリンゲルでラジコンカーのタイヤ作ったらどうなんでしょう。ペトペトコンパウンド。スピードが出なさそう。
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