書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ど忘れ。

2011年12月25日 23時21分25秒 | 日記
 親父の耳が聞こえなくなってしまって、単なる加齢かどうか医者に診断してもらったところ。ミミクソを綿棒で押し込んでしまっていたらしい。

 んで、母親が時折何かをど忘れした時。思い出せないことを気に病んで鬱々と悩んでいることがある。

 何の関連性があるのかと言うと、ど忘れというのはミミクソと一緒で、無理に取り出そうとすると返って奥に押し込んでしまって出てこなくなることがあるようだ。

 いつもなら簡単に思い出せるような日常的記憶であっても、何かの拍子に思い出せなくなった場合。無理にその場で思い出そうとはせずに、ディティールだけを書き留めておいて、他のことに意識をずらすことによって、ふと思い出すことが簡単にできることが多い。



 そういえば作家の「うるまでるび」さんが、仕事をヘビーローテーションするという話を聞いたことがある。特定の仕事や作業というものに集中し過ぎると、頭が煮詰まって働かなくなってしまう性質というのがあるらしい。

 極度に集中を必要とする作業というものあるのだが、あんまり努力辛抱根性的に集中し過ぎると返って効率が悪い場合というのもある。

 っつう話です。
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大衆観念。

2011年12月25日 23時16分00秒 | 意識論関連
 一般大衆的には「説得力」というのは気分的満足によって相手を「丸め込む。」能力のことを言う。

 こうした「説得力。」というのは論理的合理性が伴うわけではなく、単に相手の気分を捩曲げ、無視し、観念的に否定する意欲を失わせるだけの「力。」である。

 「決断力。」というのも、一般的には単に物事の短絡的決定性を言う場合がほとんどである。こうした大衆観念的な「決断力。」というものにも論理的合理性が伴う必要性はない。

 「指導力。」というのも同様である。単なる「仕切りたがり屋。」のことを「指導力がある。」などと形容している場合がほとんどである。

 仕切りたがる者の決断に、論理的合理性に基づいた根拠が伴うとは限らない。

 単に他者との比較において、他人を誘導したがる者であるという先天的、或は後天的習性として、結果的に周囲の者を服従させることになるだけであれば。それは服従させるための「目的。」自体が最初からないということでもある。

 単なる本能習性的な行動の「結果。」として、生物学的本能に由来する社会形成習性を発揮するだけであるならば。それは誰にも「目的。」のない集団を形成するだけである。こうした無目的な集団というのは制御する者がいないために暴走に至る場合が多い。

 特定の目的に基づき、その目的のための統率手段としてのヒエラルキー構造であるならまだしも。誰にも目的がない状態において、本能習性的行動の「結果。」としての統率というものというのは。むしろ、その集団の内部における個体の本能を満足させること自体が「目的。」となってしまうことになる。

 なにがしかに対する忠誠忠実性に対して、ヒトという種の生物は美徳を感じるようにできている。なにがしかに対して固定観念的に忠実であることを人間性であると錯覚するのである。

 イヌにとって服従は阿片である。イヌは服従すること自体が快楽で「目的。」なのである。

 生物学における本能的社会形成習性というものは、社会形成そのものへの「美徳。」という名の本能的満足によって目的が存在しなくても行うようにできているのである。

 「美しい。」というのは主観である。人それぞれであり、普遍的美などというものは存在せず、時代や環境に左右されるものである。たとえどんなに「傾向性。」を統計的に集計しても、それが「全ての者にとって普遍的に美しいと感じるものである。」ことの論理的証明にはならない。

 そもそも「美しい。」というのは論理的根拠では最初からない。こうした論理的合理性のない本能由来の観念を基準にして行動選択をしていれば、そこに本質的意識に基づく「目的。」行動が行われず、無意味に習性的な統率だけが一人歩きを始め、結果的に暴走を招くことにつながるのである。

 一般大衆的な「説得力。」だの「決断力。」だの「統率力。」といった、論理的根拠を持たない「大衆観念=ヒトという種の本能習性。」に無意識に流されているから、ヒトという種の起こすあらゆる問題というのが改善されないのである。

 

 とは言っても専門家にしか判断できないことというのも少なくはない。重要なのはわからない場合に判断自体を行わないことであり。観念的に丸め込まれて大衆観念的な「説得力。」に左右されないことである。

 単なる説得力だのコミュニケーション能力であれば詐欺師の能力に過ぎない。わからないことであるなら判断を行わないというのも、論理的合理性のある判断の一つなのである。

 最も悪い判断というのは、多数や権威といったものに迎合して気分的満足をしてしまうことであり。これは論理的合理性のある判断から最も遠い、気分的「観念。」なのである。




 動物が同一種に暴力を振るう「理由。」には論理的根拠はない。殺人も含めて暴力性の根源というの本能的気分であり、合理性はない。

 ウサギ等の野生生物が交配相手の選択において暴力を振るう行為に対し、「種の存続。」だのといった大局的目的など存在することはなく。ただ気分的に本能の満たされないことに腹を立て反射的に暴力を振るっているだけである。

 その「結果。」として偶発的に「種の存続。」に貢献する行動として観測することができたとしても、それはこうした「種の存続。」などに貢献しない行動習性を持たない種が淘汰された「結果。」に過ぎず。個体においての「目的。」とは無関係な「結果。」でしかない。

 個体に存在しない「目的。」というものを生物学的にこじつけても、それは超自然的なオカルトにしかならず。全く科学的論証にはなっていない。

 これに対して生物学は、「生存戦略や目的とは、比喩である。」という訳のわからぬ言い逃れを「支持。」するのだという。

 論理整合性を放棄する理由とは、論理的説明を「したくない。」或は「されては困る。」から以外にない。

 生物学における、こうした論理整合性の放棄というものは、ヒトという種の生物における習性と、それを認識するべき本質的意識の区別の存在を隠蔽するものである。

 生物学者達は詐欺師の手法についての説明をしてしまうことによって自分達の詐欺行為にまで言及されてしまうことを忌避して、本質的意識とは何かや本質的合理性の重要性を隠蔽しておかなければならないのである。

 その隠蔽の手法とは、本能的習性としての権威への服従性を利用して、習性こそが正しい判断を促すものであると「説得。」し、本能のままに行動することこそが正しい結果を導き出してくれるものであるという嘘で塗り固めることである。

 それによって観念的本能を満足させ、思考を停止させることが可能となるのである。

 思考が停止していれば正確な判断は行うことはできず、本能的習性のままに権威や多数に迎合することで「安心。」するヒトの習性を利用したペテンの手法、或は無意識的洗脳の結果である。

 無意識的洗脳であれば罪がないという話にはならない。そもそも脳科学分野であれば積極的に研究されていなければならない領域であり。研究すべき生物学者が認識できないというのは許されるような怠慢ではない。

 しかし、現状において脳科学界は特定の無意識的特殊能力の一面的優位性ばかりを取り上げ、優位性によって大衆観念的社会的成功が得られるかのような大衆迎合ばかりを取り上げることによって、意識の重要性を撹乱しているのである。

 スポーツ選手などの社会的成功というものは、それ自体には本質的人間としての価値。自律的公益倫理判断とは無関係である。

 大衆人気による社会的成功を取り上げることによって、大衆は利己的欲望だけに意識を奪われ。公益倫理的自律などという個人的には旨味のない話からは意識を失うのである。

 動物の本能的行動というのは、あくまで個人的欲望本能を満たすことが優先し、大局的公益性には意識が働かないものなのである。だからこそ本質的意識によって自律的に自己の本能習性を制御することが重要なのである。

 ただ漫然と気分的な「安心。」によって満足する怠惰によって、ヒトは目先の欲望に基づく行動選択しかしなくなるものである。「怠惰。」というのは必ずしも行動自体の「量。」とは無関係である。命懸けで地下鉄に毒ガスを散布することこそが意識の「怠惰。」なのである。

 ヒトは考えることが本能的に嫌いである。考えることが本能的に嫌いであるからこそ「ヒト。」でしかないのである。

 しかし、ヒトの全てが本能的に嫌いなわけではない。全く新しい発見や発明をする人というのは、むしろ大脳新皮質の容積の大きさに由来する、自発的思考の快楽を知っているのである。

 こうした「ヒトと人の違い。」というものは、本質的自発性の有無に因るものである。詳細は既に論じた記憶があるが、今回の趣旨とは少し異なるので割愛する。

end;
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感覚。

2011年12月25日 00時27分23秒 | 意識論関連
 特定の人にしかできない能力のことを、それができない多くの人は天才的で「素晴らしい。」ことだと認識する傾向がある。

 逆に言うと、多くの人ができる能力のことは平凡で「つまらない。」ことだと認識しがちである。

 当然であると「思われて。」いるこうした傾向性であるが、こうした価値観というのは必ずしも本当に能力的高度さを「形容。」しているわけではない。

 二本の脚でバランスをとって歩行したりする能力や、普通に音声言語を発することというのは、実は非常に複雑で高度な機能であるが。こうした機能は「多くの人。」が平均的に持つため、多くの人は平凡でたいした機能ではないと「思う。」ものである。

 歩行機能とか音声言語機能といったものは、子供の頃に無意識的に習得してしまうため、その機能の高度さを認識することなく習得してしまう。

 しかし、大人になってから脳梗塞などで一度これらの機能を失ってから取り戻すことは、とても困難である。


 子供の頃に無意識的に習得する機能というのは、大人になってから習得するものとは困難さに違いがあるというある種のハンディキャップもあるのだろうが。大人になってから意識的に再度習得することになると、その機能の高度さを体感することになる。

 本当の機能的高度さと、一般「感覚。」的高度さの基準とは同じではない。


 いわば、凡人の「感覚。」的基準というものは、実際にはアテにならないのである。

 アイヒマン実験において被験者が服従する「感覚。」とは、こうした一般的凡人の「感覚。」的基準によって、無意識的に本能による社会形成習性として服従するのである。アイヒマン実験の被験者というのは、ごく普通の一般人であり、決して特異な人達だけにしか観測されないようなものではないことを、忘れてはいけない。

 一般的なごく普通の人達というのは、その感覚的「共感。」によって、アイヒマン実験のような珍しい状況における普遍的性質というものを、自分自身の行動選択とは無関係であると「思う。」傾向がある。

 多くの場面において関係のないことを、ヒトは無関係であると「整理。」してしまうのである。

 凡人の「感覚。」的な優先順位というものは、日常的に多い場面における平均的対処だけに意識が「整理。」されてしまう。

 動物の行動を「整理。」するのは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」の作用である。

 凡人の凡人たる所以とは、つまり平凡な行動に意識が「整理。」されているからに他ならない。

 また、ヒトという種の生物には、自然淘汰の結果として社会形成という「習性。」が組み込まれているため。平均的であることに対しての強迫観念的執着を持つ習性があり、平凡であることへの感覚的「安心。」というものがある種先天的に組み込まれているようなものである。

 倉田真理子の漫画にあるように、「みんな、同じなんだ。」と、平均的であることに異常なまでに執着することを共感するからこそ、倉田真理子の漫画には「人気。」がある。それが凡人基準の「共感性。」とか「コミュニケーション能力。」の正体である。

 「合理性追求。」という言葉に対しての一般的「感覚。」として、利己的利益追求のようなものであると「思う。」ものであり。また、こうした「思い。」に対する論理的検証自体もまた「合理的。」であるとして忌避するのである。その結果固定観念的「思い込み。」という、いうなれば心理的拘束、ヒステリーを生み出すことになるのである。

 心理的拘束、ヒステリーというのは。ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識に刷り込まれることによって作り出されるものであり。認知行動療法などの心理療法においては、こうした無意識的心理拘束の原因を論理的に「考え。」させることによって意識化し、それが論理的には無意味であることを自分自身で認識することによって心理的拘束を取り除くことが可能なのである。

 認知行動療法においては治療者は心理的拘束の原因を直接指摘したりはせず、あくまで患者自身によって「気付かせる。」ように促すだけである。それは、他者から心理的拘束の原因を直接指摘されると拒絶反応を示すことがあるため、あくまで患者自身が自律的に「気付く。」ように仕向けるだけなのである。

 無意識的な心理的な拘束というのは、患者の内部における無意識的価値観においては優先順位が高い傾向があり。他人から直接指摘されると反射的に拒絶することが多いという傾向習性があるために採られる臨床的手法である。

 しかし、患者が自分自身で心理的拘束の原因を論理的に認識することによって。こうした反射的拒絶を回避できるのである。

 本論においては、こうした感情的作用自体を論じているの以上。一般的なヒトの作用を利用するような一種のネゴシエーションは行うつもりはない。よって多数の「人気。」が得られないのは、むしろ必然である。



 一般的な感覚として、平均的で普通であることに対して強迫観念的に執着しておきながら。その一方で特殊能力を習得した者に対しての憧れも抱くという支離滅裂な「他人との比較。」にばかり意識を奪われている場合も多い。こうした「他人との比較。」にばかり意識を無意識的に奪われているからこそ「自分。」が何をしたいのかが見えなくなるのである。

 これはさておき。



 特殊な能力、感覚を習得した者のことだけを取り上げて、「直感的感覚こそに価値がある。」かのような番組作りというのはプロパガンダ的で、洗脳的である。

 そもそも視覚障害もないのにエコーロケーションは不要であり、サッカー選手でもないのに視野の広さや空間認知能力を論じても一般人にとっては無意味であり。また、公益的でもない。

 特定の人にしか認識できない差異であるならば、特定でない人達にとって本来価値を持たないものであり。どんなに味覚や嗅覚の優れたソムリエや料理人が勧めるものというのは、特定の特殊感覚を持たない凡人にとっては価値自体を認識できず、無意味である。

 特殊能力が優れていることというのは、社会的注目とか評価にはなるであろうが。こうした「社会的。」評価というのは大衆迎合的な価値観に基づくものであり。現実的に社会公益的価値に直結するようなものではない。

 特殊で社会的注目を得るような能力が社会の安全性や持続可能性に貢献しているわけではない。

 こうした本質的社会的価値というものを無視して、目先の注目評価に意識を奪われているというのは、目先の享楽に溺れて本質を見誤っている。

 気分の悪い話を無視するというのであれば、戦争や事故の記録から教訓として未来に活かすことを拒絶するということであり。それは頭のおかしい原発研究者の主張とほとんど同じである。

 「忘れてはいけないもの。」を忘れるから「人間。」性を喪失するのである。


 ヒトは自らの異常性を認識することを拒絶する性質がある。「自分だけは大丈夫。」という論理的根拠のない身勝手で過剰な確信によって自らの異常性を認識することを拒絶するのである。

 そういう「習性。」がある。

end;
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