簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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宿場の飯盛り女(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-20 | Weblog


 「ごゆ、あかさかは昔より遊女の名高し」

 御油とその次の赤坂宿には、昔から飯盛り女が多い事が知られていた。
鴨長明もその旅日記にこのように書き残しているという。
御油は、次の宿場赤坂までは16丁(約1.7㎞)と近く、宿場町続きの様
な状態であったらしい。



 御油には姫街道の追分けが有り、これから向かう人や、一本坂を越えた
旅人の利用も多かったようだ。
そんな旅人は、城下町である吉田宿での窮屈な泊まりを嫌って、このどち
らかの地を選んだからとも言われている。
当地には茶屋町という地名も残されていて、茶屋の数も多かったらしい。



 当地には、そんな地らしい逸話も残されている。
明治の初め頃、大きな旅籠で働く飯盛り女五人が、近くの池に飛び込ん
で自殺をした。
これを機に宿(大津屋)の主人は、女に稼がせる家業をきっぱりと諦め、
味噌の製造に乗り換えた。
主人は、宿中程の東林寺に遊女達の墓を建て、手厚い供養をしたという。



 東林寺境内の墓地には、五基の飯盛り女の墓が残されているらしい。
ここは、三河領主の徳川家康が二度も立ち寄ったという由緒有る寺だ。
供養の墓を建てたのは遊女達の雇い主、旅籠・大津屋の主人である。

 この大津屋は、宿場内に工場を構えるイチビキの前身であり、同社の
製品を通信販売する会社として、その名を今に残している。



 宿場には連子格子を構える旧家などは、幾らかは残されている。
しかし、多くは改装され往時の姿を留めない建物も多く、加えて真新し
い家も混在している。
それでいて何となく落ち着きを感じるのは、旧道を思わせる道路の幅と、
低い家並み等、戦後の再開発があまり進まなかった町並のせいであろう。
その町並の先に有名な御油の松並木が見えてきた。(続)





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コメント
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