街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目
鈴鹿峠の登り始め
鈴鹿峠(378m)を越える初めて の官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
八町二十七曲といわれるほど、急な曲が り道の連続するこの険しい峠道は、平安時 代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲わ れた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとな えて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、 坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕ら えたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師(さいぎょうほうし)に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にある時は、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886)、近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波(あすは)道と称する新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。
峠越えが開通して間もない昌泰元年(898)、伊勢神宮へ向かった勅使が山賊に襲われている。建久5年(1194)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや、「今昔物語集」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する逸話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。
『拾遺集』
思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇
世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ 斎宮女御
『新古今集』
鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行
このほか、鈴鹿峠には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。
江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。平成十九年三月 亀山市教育委員会
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