コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

一里塚跡~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:58 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

 一里塚跡

 

旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8(1603)家康が日本橋を仮設 し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折一里(36町)毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎などの木を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里山に起因している。塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で、塚の上には椋が植えられている。土山の町並みを愛する会 平成7年3月土山町教育委員会

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土山宿石柱と土山宿の町並み~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:55 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

土山宿石柱と土山宿の町並み

 

▲屋号札

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猿が・・・・(猪鼻村にて)~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:52 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

猿が・・・・(猪鼻村にて)

 

 

▲猿が二匹写っていました。
 

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山中/一里塚公園~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:49 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

山中/一里塚公園

 

 

 ▲文部大臣 小杉 隆 書 とある。小杉 隆は目黒区選出!?

 

▲櫟野(いちの)観音道(大原道)道標

櫟野観音道(いちのかんのんみち・大原道)道標。 山中地区の旧東海道沿いから南西に伸びる道は、古くから東海道と神(かみ)村(甲賀町大字神)・櫟野(いちの)村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道(おおはらみち)とも呼ばれていた。 当時、道標は東海道との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には櫟野寺(らくやじ)本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心(だいひしん)」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。平成15年3月 土山町教育委員会

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日本橋から435km地点/国道1号の様子~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:47 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月309日 14回目

日本橋から435km地点/国道1号の様子

▲三重県から滋賀県へ

 

▲気温26度

 

▲モチーフは雉?

 

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鈴鹿峠~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:44 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

鈴鹿峠

▲頂上は土山町!土山宿はもうすぐか?
 

 

▲峠の茶畑

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鈴鹿峠の登り始め~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:42 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目 

鈴鹿峠の登り始め

 

 鈴鹿峠(378m)を越える初めて の官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
八町二十七曲といわれるほど、急な曲が り道の連続するこの険しい峠道は、平安時 代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲わ れた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとな えて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、 坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捕ら えたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師(さいぎょうほうし)に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。

 

伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にある時は、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886)、近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波(あすは)道と称する新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。
峠越えが開通して間もない昌泰元年(898)、伊勢神宮へ向かった勅使が山賊に襲われている。建久5年(1194)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや、「今昔物語集」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する逸話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。
  『拾遺集』
   思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく     村上天皇
   世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ   斎宮女御
  『新古今集』
   鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行
このほか、鈴鹿峠には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。
江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。平成十九年三月 亀山市教育委員会

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片山神社の階段~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:40 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

片山神社の階段

片山神社:明治以前は鈴鹿明神や鈴鹿権現と呼ばれ、室町時代には「鈴鹿姫と申す小社」と書かれた古い神社。現在も地域の人々の氏神として厚い信仰を集めています。鈴鹿峠中腹の木立に包まれ、四季折々の趣がありますが、特に美しいのは秋の紅葉です。亀山市観光協会HPより

 

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片山神社の入り口~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:38 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月309日 14回目

片山神社の入り口

 

 

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坂下宿の様子~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:35 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

坂下宿の様子

▲旧道の曲がり具合がたまりません!
 

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坂下宿~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:33 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

 

坂下宿

 

東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢悛日記』)。同様に応永29年(1422)中原康富が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。 大永4年(1524)、連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長手記』)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。 しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。江戸時代には、東海道53次のうち48番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅龍48軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」とされるほどであった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた。 平成19年3月  亀山市教育委員会

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鈴鹿馬子唄発祥ノ地の碑~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:31 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

鈴鹿馬子唄発祥ノ地の碑

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東海道53次が刻まれた柱とマンホール(せき)~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:27 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

東海道53次が刻まれた柱とマンホール

 

 

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筆捨山~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:24 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

筆捨山

 

  

亀山市名勝  筆捨山  昭和五十三年九月二十二日指定
東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高289mの山である。もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。 江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。 歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪の下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。平成十九年三月 亀山市教育委員会

 

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坂下宿へ向かう国道~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-10 19:49:18 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

坂下宿へ向かう国道

 

 ▲カエル^^ 旧道にて

 

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