コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大沙川隧道と弘法杉(滋賀県湖南市吉永)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:52:26 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

大沙川隧道と弘法杉

滋賀県湖南市吉永

大沙川(おおすながわずいどう)は湖南市吉永に発し野洲川に合流する河川で、ふだんは水がほとんど流れていません。東海道の上を流れる天井川です。奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営において、このあたりの山の木々はほとんど切り倒され、はげ山となりました。大雨のごとに土砂が流れ出して、河床が上がり天井川になったと伝えられています。この隧道は明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造されました。長さ16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ断面で両側壁とも花崗岩の切石積みで頑丈な構造です。地元では「吉永のマンポ」と呼ばれています。隧道の上の河川堤防には「弘法杉」がそびえ立っています。滋賀県観光情報より

 

▲水は流れていない・・・・・・・
 

 

旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手に箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうち1本が倒れたともいわれている。 平成6年3月 甲西町教育委員会

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旧道の様子(湖南町吉永付近)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:52:23 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

旧道の様子(湖南町吉永付近)

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道標(石部宿/水口宿)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:51:17 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

道標(石部宿/水口宿) 

 

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三雲駅(滋賀県湖南市三雲荒川)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:51:14 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

三雲駅

三雲駅(みくもえき)は、滋賀県湖南市三雲荒川にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)草津線の駅である。貴生川駅 (5.2km)← →(3.8km) 甲西駅

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横田橋~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:51:11 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

横田橋

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湖南市へ/東京から456.5km~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:51:08 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

 

湖南市へ/東京から456.5km

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横田渡と横田渡常夜燈~滋賀県甲賀市水口町泉

2011-08-20 17:51:05 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

横田渡と横田渡常夜燈

滋賀県甲賀市水口町泉

東海道横田渡
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、三月から九月の間は四艘の船による舟渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の柚川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。

この巨大な石灯籠は文政5年(1822)、増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都、大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられた物です。その高さは10.5m、燈火を灯す火袋は大人でも通れる程で、道中でも、最大級の物とされています。建造には多額の費用を要した為、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。 

 

横田橋の名は寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人●書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていた事が知られています。江戸時代には、東海道の「渡」の一つとして幕府の管轄下に置かれ、渇水期には土橋が架けられた他は、船渡しとなっていました。明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には、国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移した。

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横田渡への道標~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:50:53 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

横田渡への道標

▲この道の先に横田渡があるはず。

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半鐘?のモニュメント~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:00:38 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

半鐘?のモニュメント

 

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北脇縄手と松並木~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 17:00:25 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

北脇縄手と松並木

東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備に伴い、曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しのよい道路にしたことにちなむと考えられる。江戸時代、道路の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰で涼をとり、旅の疲れを休めたといわれている。 

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林口の一里塚(113里)(滋賀県甲賀郡水口町東林口)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 14:22:21 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

林口の一里塚 

滋賀県甲賀郡水口町東林口

一里塚は街道の両側に一里(約四km)ごとに築かれたもので、東海道で慶長九年(一六〇四)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。 

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真徳寺表門(滋賀県甲賀市水口町城内)~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 14:22:10 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

真徳寺表門

滋賀県甲賀市水口町城内

この門はもと水口城内に所在した家臣屋敷の長屋門を移したものだという。石高60-80石程度の中士の格式を表すのもので、旧城下に残る数少ない遺構である。 

  

当寺の表門は、もと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築したものである。・・・・・・・・・・・水口町教育委員会

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水口石~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 13:48:16 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

水口石

東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。

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百間長屋跡~旧東海道を歩く(15回目)

2011-08-20 13:48:03 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<水口宿~草津宿
2011年8月17日 15回目

百間長屋跡

▲京方向
 

▲江戸方向

 

小坂町に百間長屋がありました。百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180m)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。 南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入り口がなく、町場とは自由に往来が出来ませんでした。これは敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらってそれを引き上げる方法で買い物をしました。明治初期の絵地図によると21軒が明記されています。

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水口城(滋賀県甲賀市水口町)

2011-08-20 13:42:39 | その他の城

2011年8月17日 滋賀県

水口城

滋賀県甲賀市水口町

 

近江鉄道水ロ城南駅の北約150mのところにある城跡。江戸幕府3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)が上洛の際の宿館として築城された後、水ロ藩2万5千石の居城となり、湧水を利用した薬研堀(やげんぼり)に水をたたえていたことから「碧水城(へきすいじょう)」の別名がありました。明治維新後、水ロ城は廃城となり公売に付され、角櫓(すみやぐら)が付近の商家に売却されたり、石垣の一部が近江鉄道の敷石になるなど建物や石垣の大半が処分されました。

水口城御矢倉:これは近年復元されたもの。内部は資料館となっていて、係員の方が丁寧に対応してくれました。

この石垣は水口城でもっとも古い石垣であるとのこと。(門に向かって右側)

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