街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
愛知川西の一里塚跡
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
愛知川西の一里塚跡
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
愛知川の様子2
▲高札場(跡)▼
▲問屋場(跡)▼
▲竹平楼:創業宝暦八年、竹平楼は江戸時代から続く老舗の料理旅館▼
▲不飲川:このあたりが宿外れ
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2013年6月8日 21回目
愛知川の様子1
▲この和菓子屋でお土産購入 「びん細工手まり」など
▲中山道 愛知川宿 左 高宮宿二里
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2013年6月8日 21回目
愛知川宿北入口
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2013年6月8日 21回目
愛知川宿ゲートなど
▲愛知川宿ゲート
▲近江商人亭 三角屋中宿店
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愛知川宿への街道の様子
▲愛知川宿2.1km
▲モチーフは愛知川名物「「びん細工てまり」
▲ルートは右
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2013年6月8日 21回目
歌詰橋
▲江州音頭発祥地の碑 残念ながら柳で一部隠れてしまっている。
▲歌詰橋▼
▲宇曽川
▲宇曽と歌詰橋
宇曽川
宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみでなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は、丸太のまま上流から流したという。このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。
歌詰橋
宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗りこめた土橋であった。天慶三年(960)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。
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2013年6月8日 21回目
又十屋敷
滋賀県犬上郡豊郷町
江戸時代後期、又十(またじゅう)という商号で呉服屋を始め、後に北海道に雄飛して松前藩の信頼を得て多くの漁場を開き、廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌(ふじのきへいよしまさ)の旧宅です。
▲白壁の民家
▲江州音頭発祥の地ある。(豊郷町下枝)
▲又十屋敷▼
▲屋敷内に一里塚碑があるがここに一里塚があったわけでもなく、どこかにあったものを、ここに移設したものらしい
当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した近江商人藤野家本宅跡です。明治初期に入ると我国初めての鮭缶の製造を始め五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。今日では「アケボノ缶詰」として受け継がれています。亦天保の大飢饉には住民救済の為行われた又十の飢饉普請は有名で江州音頭発祥の地千樹寺の再建と当家の建造物及び湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」勝本宗益作等何れも当時の原形を今日までほどよく保存されています。また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています。
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2013年6月8日 滋賀県
伊藤忠兵衛旧宅
滋賀県犬上郡豊郷町八目128-1
伊藤忠兵衛
現在の大手商社伊藤忠・丸紅創始者で近江商人の筆頭としてあげられる伊藤忠兵衛(1842-1903)が住んでいた屋敷
伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、“近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。
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2013年6月8日 21回目
伊藤忠兵衛旧宅など
滋賀県犬上郡豊郷町八目128-1
▲伊藤忠兵衛翁碑
▲伊藤忠兵衛家屋敷跡
伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、“近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
一里塚の里石畑
▲石畑は高宮と愛知川との間の宿なんだ
私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都‥石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉二年)に創建した称名寺があります。
また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。
▲上の表示版そばにあるこの塚はレプリカ!実際は先の豊郷町役場のところにあったとのこと。
▲豊郷町役場
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2013年6月8日 滋賀県
豊郷小学校旧校舎
滋賀県犬上郡豊郷町大字石畑
中山道の石畑と四十九院の間に、白鷺が羽を広げたような洋風建築の豊郷小学校旧校舎群が見えます。この校舎は、昭和12年一人の近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、当時は東洋一の教育の殿堂と言われました。
建築家ウィリアム・メレル・ウォーリズが手がけた建物
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
豊郷小学校旧校舎
滋賀県犬上郡豊郷町大字石畑
中山道の石畑と四十九院の間に、白鷺が羽を広げたような洋風建築の豊郷小学校旧校舎群が見えます。この校舎は、昭和12年一人の近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、当時は東洋一の教育の殿堂と言われました。
建築家ウィリアム・メレル・ウォーリズが手がけた建物
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
豊郷町四十九院 (滋賀県犬上郡)
▲四十九院公民館
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街道ウォーク<旧中山道<高宮宿(駅)~武佐宿(駅)
2013年6月8日 21回目
愛知川宿へ向かう旧道の様子
▲中山道 葛籠町の碑
▲出町信号
▲中山道出町の碑
▲一種の雨乞いなのだろう
▲ケヤキ
▲ベンガラの塀が美しい
▲外から提灯、花、踊る女性がモチーフ
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