雀の手箱

折々の記録と墨彩画

今年の文楽

2014年03月07日 | 雀の足跡






 毎年1回のお愉しみ巡回公演の人形浄瑠璃、文楽が今年もウエル戸畑の市民会館ホールで上演されました。今年の演目は「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)で、途中笑い薬の段を挟んで、悲しみと可笑しさで、見応え聞きごたえがありました。

 筋書きは土台に大内家のお家騒動があるのですが、この上演では、一途に阿曾次郎への恋を貫く深雪が、悲しみのあまり盲目となってなお恋しい人を追って門付け芸人となって流浪し、二人がすれ違いを繰り返す哀れが人の同情を惹く恋物語となっています。歌舞伎でも「生写朝顔日記」として上演されてきました。
 人形だけに動きも大きく、請われて恋人の前でそれと知らずに唄う贈られた朝顔の歌と、その弾く琴の音は、人形の指の動きが音に忠実に動く確かさに驚きました。

 歌舞伎に比較すると、おなじ文化遺産として登録されながら恵まれていない文楽ですが、この確かな芸は,義太夫の語りと共に大事に伝えていかねばならないものと、改めて思った一日でした。
 人間国宝の竹本住大夫さんも、今年5月で引退なさるとか。 文楽の最長老が語るあの野太い声での絶品の近松の世話物は、もう聞けなくなるのは寂しい限りです。






山の神々

2013年11月22日 | 雀の足跡





 徳川の至宝展を見た後、4階で開催中のトピック展示「山の神々」展に立ち寄りました。
 今年が竈門神社の肇祀から1350年になるのを記念した企画だそうです。

 ここでは思いがけず端正なお顔立ちの十一面観世音菩薩にお会いできました。熊本は阿蘇外輪山の北麓南小国町の千光寺に氏子の方々に大事に保存されてきた平安時代の作で、全身を包む光背も、この仏像に最初からつけられていた木彫という珍しいものです。159㎝という等身大で、慈愛に満ちたお顔、天衣の素朴なさりげなさなど、弟はことのほか気に入っていました。
 諫早からお出ましの不動明王と二童子は多良岳伝来の珍しい動きのあるものでした。地元英彦山神宮の祭神三座の中の一座は、厳しい修験道の聖地の祭神にしては、ふくよかで柔和なお顔立ちです。
阿吽一対の狛犬は、室町時代のもので竈門神社所蔵の福岡県指定文化財です。

 遠い記憶の「本地垂迹説」など思い起こしながら日本人の宗教の持つおおらかな包容力をうれしいものに思いました。
 富士の御山は信仰の対象として尊崇されてきた歴史があって文化遺産と認められたのだし、山は確かに水分(みくまり)の神が宿る水が生まれる場所であり祖霊が帰ってゆく場所でもありました。












竈門神社(かまどじんじゃ)は、九国博から少し離れた所にあります。宝満山の山麓で、大宰府の北東にあたり、大宰府建設の折、天智天皇が鬼門除けとして八百万の神を祭ったのが始まりだそうです。

尾張 徳川の至宝展

2013年11月21日 | 雀の足跡


 九州国立博物館で開催中の「尾張 徳川の至宝」展を思いがけず観覧できました。
 10月以来の夫の入院で、体重が3キロ減少した私をを気遣ってか、弟がリフレッシュにと言ってくれました。ちょうど九国博で、尾張徳川の至宝展が開催中なので、弟夫婦は二度も名古屋で徳川美術館を訪れているのを承知の上で、九国博を希望しました。

 午前中に予定されていた用を済ませ、午後から1時間の道のりです。目当てはかねて一度見たいと思っていた日本一の嫁入り道具と言われる将軍家姫君の「初音の調度」と、後期に2週間のみ展示される源氏物語絵巻絵「竹河」でした。現存の源氏絵巻の中でも華やかな断簡として知られる1枚です。

 博物館周辺は小高い山懐に位置しているので里よりは紅葉の進みが早く、今が見ごろでした。平日の駐車場、会場はゆとりがあって存分の鑑賞ができました。

 武家の表道具の武具はさすがの名品ぞろいで、国宝の来孫太郎の気品ある太刀や、政宗の短刀、それに伝説の村正も展示されていました。
 茶道具も御三家筆頭の至宝、見ものが多く、家康形見分けの「駿府御分物」の茶壺「松花」の釉薬の流れ、古備前の水差しのすっきりとした直線的な形や、白天目などに目が行きました。二人ともこれが一番と意見が一致したのは小ぶりな織部筒茶碗“冬枯”でした。現代に通用するモダンな思い切りのいい直線のデザインに惹かれました。
 能衣装、能面、のほか、光悦の新古今和歌集抜書、広沢切貼込屏風、などの書画。そして目当ての初音の調度の数々は、いずれも愛らしくも豪華絢爛の一語に尽きました。貝桶は前期の展示で見ることはできませんでしたが、化粧道具の数々、百人一首を収めた蒔絵の箱の見事なこと。こうした精巧な調度、道具に囲まれていれば、日暮眺めていても退屈はしなかったでしょう。
 こうした多方面にわたる宝物が、明治維新による大名家の困窮にも散逸せず、さらには戦禍をも免れ。よくぞ保存されてきたと感動しました。充実の2時間余をプレゼントされて満足して帰宅しました。、




尾張 徳川の至宝展

「中国王朝の至宝」展

2013年07月30日 | 雀の足跡

 

 昨29日は月曜日で九州国立博物館は休館日でした。時々企画される障碍者を招待する日で、友人のKさんが応募されたのに同行しました。二人とも入場料も、駐車料も無料でした。休館日のうえ、華やかな展覧会ではないので、人が少なくて、ゆっくり鑑賞できました。

 学生の頃、暗記した中国古代王朝の名は、私には我が国古代の場合同様、半ばお伽話の世界を彷彿させるものでしかありませんでした。

 目前に展示されている3000年の興亡の中ではぐくまれた美の文化は、我が国の弥生時代から、古墳時代に相当する創成期のものから、すべての文化の一つの頂点二到達した宋までのものです。ただただそのレベルの高さ,特異さに驚くばかりでした。
 夏、殷から宋までの王朝の中心だった地域を代表する文物を対比しながら、各王朝の相違を私たちのような素人にも理解できるように展示解説されていました。

 あるものは北の騎馬民族文化を、さらにはユーラシア大陸の西の国々の影響を思わせる文様など、目を驚かすものばかりです。志賀島出土の金印や、正倉院御物の鏡を想起させるものなどもありました。160点余の展示のうち110点ほどが中国第1級文物、つまり我が国の国宝にあたるものです。

 中国の故事を思い出す「完璧」の元になった玉壁や「矛盾」の矛、紀元前3世紀のころにベルトのバックルに用いられた猿のデザインの斬新さは、感動モノでした。
 唐の女性俑は、ふっくらとしていて、かの楊貴妃もぽっちゃり系だったとか。そういえば、鳥毛立屏風の樹下美人もこの手の顔立ちの豊満でした。「これからは8世紀系の美人」と言ってもらおうと二人笑いあったことでした。

 2008年に南京市の寺院跡から出土した阿育王塔が最後の部屋を飾っていました。釈迦の前世の物語が四面に細かく彫刻された銀板に鍍金をほどこし、宝玉をはめ込んだきらびやかな輝きが圧巻でした。

 日本の弥生時代に、すでにこのような文化を築いていた国。シルクロードの到着点ともいえる日本です。同じアジア圏の仲間として手を携えた文化交流のよすがにと、認識を新たにした展覧会でした。

 



 

会場風景や、展示品の映像は九州国立博物館の提供によるものです。
横幅がきれるようです。下の><をスライドしてご覧ください。
スライドは、右下の四角の拡大マークで少し大きな画像が見られます。


施餓鬼法要の季節

2013年07月19日 | 雀の足跡

  今日は菩提寺のお施餓鬼に行ってきました。毎年の夏の行事ながら、格別の思いがあります。

 三悪趣(さんあくしゅ 地獄・餓鬼・畜生)の一つで、飢えと渇きに苦しむのが餓鬼です。この地球上には今、現実にこの餓鬼さながらの苦しみの中に生きるのを余儀なくされている人たちがいます。遠いアフリカならずとも、程度に差はあるにせよ、私の世代は、戦中戦後の一時期、食べる物に苦しみを味わった経験を持つ世代です。
 南方で戦場をさまよった兵士、シベリア抑留を経験した人たちも同様です。
 ほしいままの贅沢が可能な、飽食の時代を生きる若い人たちには想像することすら難しいでしょう。

 やがて終戦記念日が来るだけに、お寺の行事には参加しないことが多くなってきた私ですが、お施餓鬼だけは欠かさずに参加し、この日ばかりはしみじみと「いただきます」と手を合わせて食べ物に感謝しています。

 布施の心で、人だけでなく動物にも布施をし、食べ物を分かち合うという考え方から、お詣りには数々のお供えの食べ物を持参します。 施餓鬼の日の大願寺表門 今日は六角堂も扉はすべて開かれてお供えがしてありました。 開会前の祭壇に向かって永代経を上げるご住職 施餓鬼なので菓子果物野菜、もろもろの食べ物が供えられた供物棚  補注 お施餓鬼の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれる物語に基づくものと聞きました。
 この物語の主人公は、お釈迦さまの身近に奉仕し、お釈迦さまに一番多くの教えを聞いたので「多聞(たもん)第一」といわれる、「十大弟子」の一人、阿難(あなん)尊者です。 <


道すがら

2013年06月27日 | 雀の足跡

 現役で仕事を抱える若い人たちは、遅れて合流し、ご隠居組を残して一足先に帰りました。大学時代にスキーでたびたび訪れたという裏磐梯の景観を案内したいという誘いに乗ってレンタカーの仲間になりました。磐梯吾妻スカイラインの道のところどころに残る雪渓、荒涼とした砂礫の原、標高2000m級の山々に囲まれる殺伐とした浄土ヶ原は冥府を思わせました。

 五色沼の磐梯高原まで下ると、風景は一変して、夏木立の繁みでは、工事現場かと疑わせるほどのエゾハルゼミの大合唱でした。歩けるといいのだけどと残念がる湖畔の遊歩道も、ターコイズブルーの一色だけを眺めて、造化の妙に満足していました。山間を走る有料道路はレークラインもすべて解放されていました。

 磐梯吾妻スカイライン

 

 帰りの仙台空港出発は4時過ぎなので、時間があるからと、海岸近くまで走ってみました。予想はしていたのですが、潮をかぶった農地の土を入れ替える工事の車が行き交うだけ。一面に広がる荒涼の寒々しい風景は、海岸に近づくにつれ、かつての暮らしを示す基礎のコンクリートだけが不気味にむきだしになっていました。
 何にもない中で、そこここに、真新しの黒御影の墓石が林立する塊が目立ち、悲劇の現実をつきつけていました。荒浜海岸は堤防工事がおこなわれていましたが、広々とした平野では、逃げようにも遥かの高台までの手段はなかったと思われます。

 誰も無口で、身じろぎもせず、いまさらながら価値観が変わるという呟きが聞こえました。今回の旅の最後が一番強烈な印象で今も頭の中を占拠しています。

何も残さず

 

明日回線変更の工事がはいります。インターネットも設定をやり直さねばならないので4,5日はお休みになるかと思いますので、慌ててのUPです。


山寺と上の山温泉

2013年06月25日 | 雀の足跡

 四寺回廊の最後は立石寺、通称山寺です。慈覚大師が開山した比叡山延暦寺の別院で、 古くから人々の 信仰を集める東北を代表する霊場です。悪縁切りで有名。

 元気な人たちが登ってゆくのを山門のところで見送って、年寄り三人は根本中堂まで引き返し、茶店で休んでいました。前回も、私は仁王門までしか登れなかった実績があり、中尊寺と違って、ここは急な石段を1015段も上るので到底無理とはじめから諦めていました。

 今年は、4月末から一か月間は、50年に一度の立石寺ご本尊の薬師如来坐像御開帳の年で、大勢のお参りで賑わったようです。遥か山上の五大堂も下から眺めていました。

立石寺

 山寺行きのため宿泊した上の山温泉は、「古窯」でした。大きなホテルで、有名人たちの残した楽焼の大皿が目を惹きました。蔵王連山を望む高台にあり、朝焼けの山々を眺めながらの入浴はすがすがしいものでした。

 食事も手の掛かった上質のもので、地方色豊かな芋煮の椀は、満腹でも美味と賞味しました。朝のバイキングでは、オープンキッチンも数が多く、出来立ての料理を愉しめ、ずんだ餅のサービスまであって感激でした。

上の山、「古窯」


奥州藤原三代の栄耀のあと

2013年06月21日 | 雀の足跡

 40年近い歳月が経過していますので、再訪の平泉は、高速道の整備で近くなっていました。

 瑞巌寺から一気に走り、昼食前にはもう中尊寺です。

 

 先に毛越寺に参詣して、浄土庭園を回遊する若い人たちを見送って、ひとり、かっての南大門址の礎石の列を眺めていました。金堂円隆寺はじめ、堂塔40、僧坊500あまり、中尊寺を凌ぐ華麗さを誇っていたという、堂宇は打ち重なる兵火で何一つ残っていなくて、大泉ガ池を持つ広大な浄土庭園だけがその名残をとどめています。
 この池にかかる橋を渡って参詣したいにしえ人の眼には、金堂や堂塔は極楽浄土を思わせたことと想像を巡らせながら、池に揺らぐ波紋を追っていました。
 中尊寺と共に世界遺産に登録されて、その昔はひっそりと人の気配もないお寺でしたが今は見学者も増えていました。

毛越寺

 初めての平泉に、期待の大きい一行の中尊寺では、心配する弟を先にゆかせて、昔より道幅が少し広くなった気がする月見坂を休みながらゆっくり登りました。藤原三代の栄華のシンボル金色堂は、夏木立の中にどっしりとした姿で、人々を受け止めていました。芭蕉の見た旧鞘堂や経蔵を見落とさないように伝えて、見違えるほど立派になった宝物館 讃衡蔵で、寺内17ヶ院に伝わる文化財を拝観。一字金輪坐像、紺紙金字一切経や、泰衡の首桶などに、昭和25年の学術調査の折の三代のミイラ像の話題をつい最近のことのように思い出しました。下りは若い甥が従業員用の別の通路を車で迎えに来てくれて無事下山できました。

中尊寺

 金色堂に関しては、次のサイトに案内を譲ります。

岩手日報 金色堂 学術調査
尚、豊富な画像は、ユーチューブで。

毛越寺の歴史や、復元想像図はこちらから.

 おまけの記録

 この日の宿は秋保(あきう)温泉で、政宗はじめ伊達家代々の藩主の休憩所だった、かの「佐勘」が予約されていました。「伝承千年の宿」といううたい文句通り、格式のある宿で、川沿いの風呂の中には、バラが浮かべてあるのもありました。

[佐勘」に泊まる


瑞巌寺詣で

2013年06月18日 | 雀の足跡

 次の朝は、早朝から五大堂にお詣りしたのち、出発前から期待していた瑞巌寺の開門を待って参詣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平成の大修理中の本堂はすっぽり覆われていましたが、国宝の庫裡殿と、大書院は特別公開されており、修理中、大書院に移管された秘仏、襖絵などを明るい光の中で間近に拝観することができました。おまけに撮影も許可されていて、修理中ならではの、降三世明王(国宝)を青竜殿で拝む幸運にも出会えました。
 私にとっては、念願の瑞巌寺参詣で、今回の挙式参加の目的外の観光はこれで達成でした。

五大堂
 

 あとは東北は初めてという一行のため、一番足ののろい頼りない先達?案内の役で、平泉、中尊寺や毛越寺、山寺などを車での「四寺回廊」をすることになりました。

瑞巌寺

 

公開の至宝


みちのくの旅

2013年06月18日 | 雀の足跡

 挙式の前に、初めて東北を訪れる弟たちと一緒に少しだけ「みちのく」の旅をすることになっていました。私にも今回が最後の東北になると思うので、気兼ねなく助けが求められる機会に便乗することにしました。

松島へ
 仙台空港到着後、レンターカー2台に分乗して出発です。津波の爪痕は際立ったものはもう見られませんでしたが、車を借りるとき、この辺りは4mの水没で、信号機も使って新しくなっていると聞きました。、市内を走り、青葉城跡にあがりました。政宗公に敬意を表し市内を一望したのち、東北大学の構内を抜けて、政宗公霊屋随鳳殿に回りました。ひっそりとした境内に驚きの標識「熊目撃情報があり、立ち入り禁止」が出ていて、御子様御廟への道は立ち入り禁止でした。1週間ほど前のことだそうです。

 仙台 政宗公のゆかり

 

 夕刻松島入りです。弟が予約した宿は、「松島一の坊」でした。松島湾に面した新しいホテルで、設備も整っていて、島々を一望する9階の部屋も、展望の浴室、料理、地酒のもてなしもいうことなしで寛ぎました。殊に活け花は趣向を凝らした見応えのある花が各所に展開されていました。

松島一の坊

 

  300余の大小の島々は「負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹たはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。その気色(けしき)えん然として美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。」と記した芭蕉も、ついに句は断念。写真でもその雰囲気を表現するのはむつかしいようです。

 九州にも長崎の九十九島などこうした多島海はあるものの、やはり日本三景の貫禄はゆったりとした気品と変化に富み、津波の災害も島々が防波堤となってほとんどなかったようです。