昨日の日曜日は、菩提寺でのお施餓鬼法要に行って来ました。今年は二人揃っての参加です。
母の初施餓鬼の折とは違い、ゆっくり施餓鬼を考えてみました。
お施餓鬼は文字通り飢えに苦しむ餓鬼への施しで、阿難尊者の説話に習って食べ物や水を供えるわけですが、欲深の自分のやがて墜ちる行き先の先住たちに、想いをこめてお供えをしました。
この功徳が自分だけではなく先祖達の追善供養にもなるならばというわけです。
一年のうち一度くらいは、食べることでー他の命を奪うことでー命を繋いでいる自分の罪深さを自覚し、今も生きながら飢えに苦しむ何億という地球上の人々に想いを馳せ、食べ物に感謝する法要と考えれば意味があることです。
寺の昼食の接待は薄味で、お吸物も二段の弁当も全部残さずに頂きました。今日ばかりは宮崎駿氏の「天空のラピュタ」の”生き物は自分だけで生きているわけではない”を思い浮かべながら心から「いただきます」を唱えました。
お施餓鬼法要の日

母の初施餓鬼の折とは違い、ゆっくり施餓鬼を考えてみました。

この功徳が自分だけではなく先祖達の追善供養にもなるならばというわけです。
一年のうち一度くらいは、食べることでー他の命を奪うことでー命を繋いでいる自分の罪深さを自覚し、今も生きながら飢えに苦しむ何億という地球上の人々に想いを馳せ、食べ物に感謝する法要と考えれば意味があることです。
寺の昼食の接待は薄味で、お吸物も二段の弁当も全部残さずに頂きました。今日ばかりは宮崎駿氏の「天空のラピュタ」の”生き物は自分だけで生きているわけではない”を思い浮かべながら心から「いただきます」を唱えました。
お施餓鬼法要の日
