秋田市の次によく知る街である、弘前市。でも、自分が直接知っているのは1995年以降。それ以前のことはほとんど知らない。
最近、インターネットの2つのサイトなどのおかげで、知らなかった昔の弘前を少し知ることができた。
1つは「弘前市立中央公民館(@hirosakikoumin)」のツイッター。
弘前公園そばの弘前文化センターの中にある施設で、弘前の地理や歴史に関するツイートもしている。
秋田市では(町内会館的なものでなく、市役所の施設としての)公民館はなくなり、今は市民サービスセンターの一部になっているが、その往時のような体育館と文化施設がある地域の拠点みたいなものを連想してしまう。
弘前には市立博物館もあるから、歴史や地理ならそちらの業務な気もするが、担当職員の意欲の現れなんだろうか。
あと、どうせなら、投稿が次々に流れ去るツイッターではなく、自前のHTMLサイトとして残したほうがいいと思うのだが…
中央公民館が昨年秋頃にやっていた(11月の180回でいったん休止)シリーズ物のツイートが「ひろさき写真遺産」。※ツイッターでそう検索すると見られます。
※今は公式インスタグラムで続編が始まった。しかし、インスタはログインしない状態だと、見られる場合とログイン画面に飛ばされる場合が、気まぐれであるようだ。アカウントを持たない人のことを考えれば、不特定多数に見てもらいたい情報は、そのようなサイトに乗せるべきではないと考える。
市などが保存する昔の写真を紹介してくれる。よく知らない場所も多かったが、なるほどと見た。
興味深かったのが、休止前最後の「大町シリーズ(全74回)」。【追記・好評だったようで、2022年に同ツイッターで再掲載されている。】
駅正面の南側、大町地区の町内会が記録していた昭和末と平成初期の風景を、許可を得た上で、現在の写真とともに掲載していくもの。
大町のメインストリートは、今はヒロロ(旧・ジョッパル)の通り。
(再掲)2013年撮影。突き当りが駅
僕が弘前に行った前年にジョッパルがオープンしていて、周りの道路や建物はすでにほぼ今の形になっていた。
いかにも新しそうで、その分画一的でおもしろみがない街と道だと、今でも思ってしまうのだが、それ以前がどうだったかなど、考えたこともなかった。
ひろさき写真遺産では、ジョッパルと同時進行で行われた区画整理事業の、着手前の街並みと、変わりゆく街並みを見ることができた。
そこには、想像も付かないけれど、初めてなのに懐かしくも思える風景があった。
まず道路。今は片側2車線中央分離帯・歩道付きで、駅前ながら郊外のよう。沿道には全国資本の飲食店も複数あるが、駐車場や店でない建物もある。
以前は、歩道のない対面通行1車線。追い越し禁止の黄色いセンターラインで、40キロ制限。今の広い道は、土手町と交わった先、大成小学校方向は狭くなる(追い越し禁止はなし)が、そこと同じ程度(昔、突然道が狭くなるので、いずれ先も拡幅されるのかなと思った気がするが、そうならずに今に至る)。
沿道には、古い造り、もしくは失礼ながら簡素な造りの建物が多く、それらが密集していた。※区画整理を控えていて、古いまま手を付けなかったのもあるでしょう。
店の数は今よりずっと多く、ほとんどが地元のお店だった。ここも昔ながらの商店街(名前や通称はあったのかな)だったのだった。土手町とここを合わせれば、弘前駅周辺はかなりの店舗数になったことだろう。さすが弘前だ。また、イトーヨーカドー正面側の通りよりも、店が多そう【2月1日追記・←よく知らないで書いてしまった。かつてはイトーヨーカドー正面側も今とは違う景色だった。若干道が狭く、アーケードのある商店街。駅側からは今ほどヨーカドーの全体が見えない。だから昔はヨーカドー側も今以上ににぎわっていたのだろう。】。
雑然としながらも、活気があるように見えた。
道路すれすれが全面ガラス戸【2022年8月27日補足・閉店時はそこにカーテンを引く】で、そこに商品を並べたような、懐かしいお店もいくつか。
弘前市内の他の商店街も、昔は似たようなものだったとは思うし、秋田市の通町商店街の拡幅・再開発(1990年代後半)以前の街並みとも似た(飲食店は少ないが)雰囲気が漂う。
印象に残ったもの。
・駅前という場所柄のためだろう、喫茶店と駅前食堂的な飲食店が多かった。「世界のコーヒー」なる店も。
・酒店、不動産店、時計店が複数。※不動産屋は、今も残ったり、他へ移転したりして存続。
・弘前らしくリンゴ店のほか、ポンプ屋、刀剣店、ケース店、鋳造所、表具店と、変わった業種も。
・今も他の場所にある、こがねちゃん弁当やラグノオ(大町店)が、ここの駅寄りにもあった。
・駅寄りでは、車道の上にUFOのようなものがワイヤーで吊り下げられていた。街路灯らしい。
・アートホテル弘前シティとヒロロの間の、今は小さい十字路交差点が、五叉路だった。交わる道路そのものが、区画整理でなくなったらしい。
・駅を出てすぐのシティ弘前の場所に、大きなりんご屋があった。今はシティ内の弘前駅前郵便局も、その並びに単独であった。
・ヒロロの大きな交差点も、交わる並木通り自体が以前はなかった。今、ヒロロ隣接の並木通りになっている場所には、立派な商家らしい造りの「葛西ポンプ商会」。信号はあったが押しボタン式。【2022年6月28日補足・1985年にはポンプ商会現存、押しボタン。1990年にはポンプ商会とその周囲は更地になり、今の並木通りの幅の道路ができていて、押しボタンでない交差点に変わっている。】
(再掲)右奥が駅。左が並木通りだから、そこにポンプ商会があった
【2022年8月27日追記】・区間の西寄り・南側の大町二丁目バス停付近に「佐藤もち店」があった。現在、茂森新町に同名の店があり、看板のデザインが似ている。移転したのだろうか。
ありそうでなかったもの。
・区画整理で1990年に現在の建物になったというホテル新宿(現・弘前駅前ホテル)の旅館時代の姿はなかった。通りには面していなかったのか。【下の追記参照】
・区画整理後は、ジョッパルの駅寄りの隣のビルの1階に「今泉本店(2000年に倒産した地元書店)」の支店があったが、区画整理前にもあったわけではなかった。他にも書店は1つもなかったかな。
【2022年6月14日追記・その今泉本店が入っていたビルの位置(=五差路の角)に、「ライブハウス山唄」があったとのこと。区画整理ではす向かいへ移転し、2016年に閉店。】
貴重な記録である。町内会だけ、ツイッター上だけで残すのはもったいない。
弘前でさえこんな状況だから、秋田市など他の土地ではどうだろう。最近の秋田市では、市民が保管している古い写真や映像を収集する活動を、複数の団体等が実施してはいる。もっと体系的に、誰もが容易に見られるように残すことも大事だと思う。
【2022年6月9日追記】陸奥新報の連載「津軽の街と風景」において、2021~2022年に再開発前後の弘前駅前のことを取り上げていた(10月25日162回、12月6日164回、1月31日167回)。
貴重な情報が多く載っている(再開発前は「弘前第一ホテル」というのがあって、弘前随一のシティホテルだったなど)が、167回で旅館新宿に触れていた。
「駅の南側に位置する大町1丁目には、一軒家に旅館の看板を付けたような小さな旅館が、狭く入り込んだ通りに多数点在していた」「当時の駅前周辺には大きなホテルが少なく、小さな旅館が多数あったのである。」
それらは立ち退き時に旅館を辞めたものの「旅館新宿と旅館晃荘は、代替地を得て弘前駅前ホテルとビジネス旅館晃荘として今も営業を続けている。」
もう1つは、秋田市のことで何度か取り上げている「今昔マップ」。ソフト版もあるそうだが、オンライン版は「時系列地形図閲覧サイト」。
埼玉大学教育学部の谷謙二氏が運営するもので、国土地理院の地形図などを現在と過去を並べて表示・閲覧できる無料サービス。
県庁所在地を優先して公開していて、これまで青森県は青森市だけだった。弘前も歴史ある街だから、見られたらおもしろいと思っていたところ、1月7日、ついに公開!
福島県会津も同時公開で、東北地方の県庁所在地以外では、これらが初。
弘前市だけでなく、黒石市、五所川原市、大鰐町まで公開。【13日補足・前記周辺3市町は全域ではないが、それぞれの中心地は見られる。もちろん、弘前市とそれらとの間にある各地域も。また、つがる市木造や青森市浪岡地区も見られる。浪岡は青森市本体の今昔マップとは別扱いになっていて、浪岡から北へ移動して連続的に見ることはできない。】(いずれも現時点での自治体、地区名)
秋田市では1912年、1970年代、1980年代、2000年代の4つの地形図を閲覧可能。明治末の次は60年後で、その間も、できれば見たいのだけど。
弘前市ではその4つ(ただし、2000年代がなくて1990年代)に加えて、1939年も見られる。
ズームアウトした状態で年代を切り替えると、街の拡大していくさまが分かる。1990年代と今では変わらないが。
秋田市は、土崎と新屋という両隣の町も巻きこみつつ、しかも広範囲でだらだらと拡大したのに対し、弘前はお城から四方へ徐々に広がっている。
細かく見ると、弘前大学周辺はもちろん、松原地区の辺りまでは1970年代で今に近い宅地化がされていた。僕が住んでいた辺りも、大昔は果樹園(=リンゴ畑)で1970年代にはもう今と同じ。
安原地区は、1980年代でもリンゴ畑、1990年代にやっと宅地化が始まっていた。
【13日追記】弘前公園の北西・岩木川対岸の藤代、浜の町は、1939年の図までは藤代村で、浜の町(浜ノ町表記)は弘前市飛地となっていた。
1つ目で触れた、ヒロロ付近は、 ※以下、画像は今昔マップより。
左が1981年、右が今
「駅前町」の下に注目、右側では赤茶の○の位置、たしかに五差路だった。「大町三丁目」の下付近には並木通りもない。
今も遊歩道など入り組んでいて、方向感覚を失いがちな場所だけど、以前も今とは違いながら複雑な道路だったようだ。
あと、左で「駅前三丁目」の「丁目」の辺りはイトーヨーカドー弘前店の場所。当時すでにあったはず。
その下にあるフォークの先を2つ合わせたような地図記号は「営林署」。今だと並木通り~ヨーカドーの敷地の一角・セブン-イレブン辺りになりそう。かつてはここに弘前営林署があったのだろうか。現在は「津軽森林管理署」となり、弘前市豊田にある。
1939年の地図で、弘前駅から奥羽本線を北にたどると、
「わつとく」駅?
「わとく」でなく「わっとく」と呼ばれることが多い(過去の記事)、駅すぐ北の和徳地区(当時は和徳村)に駅が?!
さらに北へ進み、撫牛子駅を過ぎて平川を渡ったところに「とよまき(豊巻)」駅、弘前駅の南方、取上地区の今の跨線橋のところに「おほしみづ(大清水)」駅、さらに南の大和沢川付近に「かどげ?(門外、かどけ)」駅、石川駅を過ぎて大鰐町に入って、弘南鉄道(当時は未開業)鯖石駅の真西に「むつもりやま(陸奥森山)」と、5つも今はない駅があった。
大鰐(現・大鰐温泉)-陸奥森山-石川-門外-大清水-弘前-和徳-撫牛子-豊巻-川部
知らなかったが、Wikipediaを見ると、1935年に大鰐~川部間で「ガソリンカー」が運転され、その時にこの5駅と撫牛子駅が開業していた。その後、1940年には撫牛子以外の4駅が廃止されて、短命に終わった。
おそらく、戦時体制でガソリンカーが廃止されたのだろう。
当時の鉄道省が、地方でこんな短距離輸送をしていたとは。その80年後、秋田市に泉外旭川駅が開業するまで、何十年かかったのを思えば…
黒石方面の弘南鉄道を意識(直接の競合関係ではないが)していたのかもしれないし、逆に戦後に開業する弘前電気鉄道(後の弘南鉄道大鰐線、こちらはやや区間が重なる)へのきっかけになった、ということもなくはないのかも。
弘前大学文京町地区の東側、桝形~富田町~取上・松森町の道を以前取り上げた。
ブックマックスがあった一直線の広い道と、その裏通りのような狭くてくねくねした道がほぼ並行しているが、どちらも古い道のようだった。
(再掲)赤と青の道路のこと
1912年の地形図では、
たしかに両方すでにある
ただ、広いほうは、今は取上交差点から東へ続き、奥羽本線の踏切まで一直線だが、この時点では交差点に突き当たって終わっている。
1912年の地図のこの辺は、軍関係の施設が多い。
今の弘前大学「文京町3番地地区」こと、理工学部と農学生命科学部などがある場所には★マーク。師団司令部(第8師団)など。今の第二体育館付近には、池がある。
その西に縦書きで「号砲台」、付近の道はカーブしている。
80年近く後の弘大生に「バカヤローカーブ」と呼ばれることになる場所。
現在、現地にある標柱は「午砲台跡」。時報として大砲が撃たれ、カーブした軍用通路が市道になって今に至るとされている。
南の今の市立第四中学校の場所は「砲兵営」。向かいの今の市立文京小学校の場所の「M」のような記号は「陸軍所轄」らしい【15日補足・文京小の位置の「T」をT型の枠で囲ったものは凡例には出ていないが、「倉庫」の地図記号ではないかと思う】。その下(今は住宅地)の「×」の先が枝分かれしたのは「監獄」!
※各時代の地図記号は、今昔マップで表示させた状態で、左の「凡例表示」クリックで小さいウインドウに表示されます。
上画像の外側では、今の県立弘前実業高校の敷地や桔梗野小学校一帯には「歩兵営」、最近まで建物が残っていた(上の和徳のリンク参照)松原東には「騎兵営」など、こんなに軍事施設があったとは。軍都弘前を実証している。
1939年の同じ辺り
約30年で、富田町側は宅地化が進んだようで、斜線(現在の「総描建物(大)」)で示されるように。
取上交差点から東側へも道ができた。弘南鉄道が開業して「南弘前」駅(現・弘前東高前)へのアクセス路だったのかも。
今の弘前大学の正門がある「文京町1番地地区」には「高等学校」ができた。弘大の前身である旧制弘前高校。
その西側、斜線が途切れた所に「発電所」の地図記号。現在は「発電所等」として、変電所も同じ記号で示されるが、当時も同じだったようだ。
酒造会社が作った変電所で、廃止後も土地はそのままだったのが、昨年更地にされてしまった、あの場所だ。次の1970年代の地形図では、もう印はない。
高等学校の南隣、3番地地区の第8師団は…ない!
そのほか周囲の軍事施設は、何もないことになっている。
小さいが、画面の右下縮尺の上の地形図の出典を示した枠に注目。下段に「戦時改描の可能性」と出ている。
戦時改描とは、敵の攻撃を避けるため、地図上から重要な施設を消したり、ほかのものに描き換えたりすること。
太平洋戦争末期になると、地図の発行そのものがなくなったが、それ以前は、そのような形で流通していたそうだ。対象の地図には、枠外の価格欄にカッコが付くなど識別できるようになっていて、おそらくそれを元に「~可能性」表示を出している。具体的にどこが改描されたのかは分からないが、弘前のこれらは違いないだろう。
改描された第8師団はいくつかの建物があるように描かれているが、桔梗野や松原のものは、斜線の総描建物があることになっている。集落に偽装したのか。
左は薄い1912年に、1939年を重ねたもの
文京小の監獄だったところ、四中の砲兵営の建物があった場所には斜線。実業高の歩兵営のところには、1912年とは無関係に道ができて、行き止まり付近に斜線。やはり集落か。
秋田市でも、油田や製油所では改描されたのかもしれないが、終戦前夜に空襲を受けた。お見通しだったのか。
知らない昔のことは想像するしかないけれど、その手助けになる貴重な資料を見ることができた。
最近、インターネットの2つのサイトなどのおかげで、知らなかった昔の弘前を少し知ることができた。
1つは「弘前市立中央公民館(@hirosakikoumin)」のツイッター。
弘前公園そばの弘前文化センターの中にある施設で、弘前の地理や歴史に関するツイートもしている。
秋田市では(町内会館的なものでなく、市役所の施設としての)公民館はなくなり、今は市民サービスセンターの一部になっているが、その往時のような体育館と文化施設がある地域の拠点みたいなものを連想してしまう。
弘前には市立博物館もあるから、歴史や地理ならそちらの業務な気もするが、担当職員の意欲の現れなんだろうか。
あと、どうせなら、投稿が次々に流れ去るツイッターではなく、自前のHTMLサイトとして残したほうがいいと思うのだが…
中央公民館が昨年秋頃にやっていた(11月の180回でいったん休止)シリーズ物のツイートが「ひろさき写真遺産」。※ツイッターでそう検索すると見られます。
※今は公式インスタグラムで続編が始まった。しかし、インスタはログインしない状態だと、見られる場合とログイン画面に飛ばされる場合が、気まぐれであるようだ。アカウントを持たない人のことを考えれば、不特定多数に見てもらいたい情報は、そのようなサイトに乗せるべきではないと考える。
市などが保存する昔の写真を紹介してくれる。よく知らない場所も多かったが、なるほどと見た。
興味深かったのが、休止前最後の「大町シリーズ(全74回)」。【追記・好評だったようで、2022年に同ツイッターで再掲載されている。】
駅正面の南側、大町地区の町内会が記録していた昭和末と平成初期の風景を、許可を得た上で、現在の写真とともに掲載していくもの。
大町のメインストリートは、今はヒロロ(旧・ジョッパル)の通り。
(再掲)2013年撮影。突き当りが駅
僕が弘前に行った前年にジョッパルがオープンしていて、周りの道路や建物はすでにほぼ今の形になっていた。
いかにも新しそうで、その分画一的でおもしろみがない街と道だと、今でも思ってしまうのだが、それ以前がどうだったかなど、考えたこともなかった。
ひろさき写真遺産では、ジョッパルと同時進行で行われた区画整理事業の、着手前の街並みと、変わりゆく街並みを見ることができた。
そこには、想像も付かないけれど、初めてなのに懐かしくも思える風景があった。
まず道路。今は片側2車線中央分離帯・歩道付きで、駅前ながら郊外のよう。沿道には全国資本の飲食店も複数あるが、駐車場や店でない建物もある。
以前は、歩道のない対面通行1車線。追い越し禁止の黄色いセンターラインで、40キロ制限。今の広い道は、土手町と交わった先、大成小学校方向は狭くなる(追い越し禁止はなし)が、そこと同じ程度(昔、突然道が狭くなるので、いずれ先も拡幅されるのかなと思った気がするが、そうならずに今に至る)。
沿道には、古い造り、もしくは失礼ながら簡素な造りの建物が多く、それらが密集していた。※区画整理を控えていて、古いまま手を付けなかったのもあるでしょう。
店の数は今よりずっと多く、ほとんどが地元のお店だった。ここも昔ながらの商店街(名前や通称はあったのかな)だったのだった。土手町とここを合わせれば、弘前駅周辺はかなりの店舗数になったことだろう。さすが弘前だ。また、イトーヨーカドー正面側の通りよりも、店が多そう【2月1日追記・←よく知らないで書いてしまった。かつてはイトーヨーカドー正面側も今とは違う景色だった。若干道が狭く、アーケードのある商店街。駅側からは今ほどヨーカドーの全体が見えない。だから昔はヨーカドー側も今以上ににぎわっていたのだろう。】。
雑然としながらも、活気があるように見えた。
道路すれすれが全面ガラス戸【2022年8月27日補足・閉店時はそこにカーテンを引く】で、そこに商品を並べたような、懐かしいお店もいくつか。
弘前市内の他の商店街も、昔は似たようなものだったとは思うし、秋田市の通町商店街の拡幅・再開発(1990年代後半)以前の街並みとも似た(飲食店は少ないが)雰囲気が漂う。
印象に残ったもの。
・駅前という場所柄のためだろう、喫茶店と駅前食堂的な飲食店が多かった。「世界のコーヒー」なる店も。
・酒店、不動産店、時計店が複数。※不動産屋は、今も残ったり、他へ移転したりして存続。
・弘前らしくリンゴ店のほか、ポンプ屋、刀剣店、ケース店、鋳造所、表具店と、変わった業種も。
・今も他の場所にある、こがねちゃん弁当やラグノオ(大町店)が、ここの駅寄りにもあった。
・駅寄りでは、車道の上にUFOのようなものがワイヤーで吊り下げられていた。街路灯らしい。
・アートホテル弘前シティとヒロロの間の、今は小さい十字路交差点が、五叉路だった。交わる道路そのものが、区画整理でなくなったらしい。
・駅を出てすぐのシティ弘前の場所に、大きなりんご屋があった。今はシティ内の弘前駅前郵便局も、その並びに単独であった。
・ヒロロの大きな交差点も、交わる並木通り自体が以前はなかった。今、ヒロロ隣接の並木通りになっている場所には、立派な商家らしい造りの「葛西ポンプ商会」。信号はあったが押しボタン式。【2022年6月28日補足・1985年にはポンプ商会現存、押しボタン。1990年にはポンプ商会とその周囲は更地になり、今の並木通りの幅の道路ができていて、押しボタンでない交差点に変わっている。】
(再掲)右奥が駅。左が並木通りだから、そこにポンプ商会があった
【2022年8月27日追記】・区間の西寄り・南側の大町二丁目バス停付近に「佐藤もち店」があった。現在、茂森新町に同名の店があり、看板のデザインが似ている。移転したのだろうか。
ありそうでなかったもの。
・区画整理で1990年に現在の建物になったというホテル新宿(現・弘前駅前ホテル)の旅館時代の姿はなかった。通りには面していなかったのか。【下の追記参照】
・区画整理後は、ジョッパルの駅寄りの隣のビルの1階に「今泉本店(2000年に倒産した地元書店)」の支店があったが、区画整理前にもあったわけではなかった。他にも書店は1つもなかったかな。
【2022年6月14日追記・その今泉本店が入っていたビルの位置(=五差路の角)に、「ライブハウス山唄」があったとのこと。区画整理ではす向かいへ移転し、2016年に閉店。】
貴重な記録である。町内会だけ、ツイッター上だけで残すのはもったいない。
弘前でさえこんな状況だから、秋田市など他の土地ではどうだろう。最近の秋田市では、市民が保管している古い写真や映像を収集する活動を、複数の団体等が実施してはいる。もっと体系的に、誰もが容易に見られるように残すことも大事だと思う。
【2022年6月9日追記】陸奥新報の連載「津軽の街と風景」において、2021~2022年に再開発前後の弘前駅前のことを取り上げていた(10月25日162回、12月6日164回、1月31日167回)。
貴重な情報が多く載っている(再開発前は「弘前第一ホテル」というのがあって、弘前随一のシティホテルだったなど)が、167回で旅館新宿に触れていた。
「駅の南側に位置する大町1丁目には、一軒家に旅館の看板を付けたような小さな旅館が、狭く入り込んだ通りに多数点在していた」「当時の駅前周辺には大きなホテルが少なく、小さな旅館が多数あったのである。」
それらは立ち退き時に旅館を辞めたものの「旅館新宿と旅館晃荘は、代替地を得て弘前駅前ホテルとビジネス旅館晃荘として今も営業を続けている。」
もう1つは、秋田市のことで何度か取り上げている「今昔マップ」。ソフト版もあるそうだが、オンライン版は「時系列地形図閲覧サイト」。
埼玉大学教育学部の谷謙二氏が運営するもので、国土地理院の地形図などを現在と過去を並べて表示・閲覧できる無料サービス。
県庁所在地を優先して公開していて、これまで青森県は青森市だけだった。弘前も歴史ある街だから、見られたらおもしろいと思っていたところ、1月7日、ついに公開!
福島県会津も同時公開で、東北地方の県庁所在地以外では、これらが初。
弘前市だけでなく、黒石市、五所川原市、大鰐町まで公開。【13日補足・前記周辺3市町は全域ではないが、それぞれの中心地は見られる。もちろん、弘前市とそれらとの間にある各地域も。また、つがる市木造や青森市浪岡地区も見られる。浪岡は青森市本体の今昔マップとは別扱いになっていて、浪岡から北へ移動して連続的に見ることはできない。】(いずれも現時点での自治体、地区名)
秋田市では1912年、1970年代、1980年代、2000年代の4つの地形図を閲覧可能。明治末の次は60年後で、その間も、できれば見たいのだけど。
弘前市ではその4つ(ただし、2000年代がなくて1990年代)に加えて、1939年も見られる。
ズームアウトした状態で年代を切り替えると、街の拡大していくさまが分かる。1990年代と今では変わらないが。
秋田市は、土崎と新屋という両隣の町も巻きこみつつ、しかも広範囲でだらだらと拡大したのに対し、弘前はお城から四方へ徐々に広がっている。
細かく見ると、弘前大学周辺はもちろん、松原地区の辺りまでは1970年代で今に近い宅地化がされていた。僕が住んでいた辺りも、大昔は果樹園(=リンゴ畑)で1970年代にはもう今と同じ。
安原地区は、1980年代でもリンゴ畑、1990年代にやっと宅地化が始まっていた。
【13日追記】弘前公園の北西・岩木川対岸の藤代、浜の町は、1939年の図までは藤代村で、浜の町(浜ノ町表記)は弘前市飛地となっていた。
1つ目で触れた、ヒロロ付近は、 ※以下、画像は今昔マップより。
左が1981年、右が今
「駅前町」の下に注目、右側では赤茶の○の位置、たしかに五差路だった。「大町三丁目」の下付近には並木通りもない。
今も遊歩道など入り組んでいて、方向感覚を失いがちな場所だけど、以前も今とは違いながら複雑な道路だったようだ。
あと、左で「駅前三丁目」の「丁目」の辺りはイトーヨーカドー弘前店の場所。当時すでにあったはず。
その下にあるフォークの先を2つ合わせたような地図記号は「営林署」。今だと並木通り~ヨーカドーの敷地の一角・セブン-イレブン辺りになりそう。かつてはここに弘前営林署があったのだろうか。現在は「津軽森林管理署」となり、弘前市豊田にある。
1939年の地図で、弘前駅から奥羽本線を北にたどると、
「わつとく」駅?
「わとく」でなく「わっとく」と呼ばれることが多い(過去の記事)、駅すぐ北の和徳地区(当時は和徳村)に駅が?!
さらに北へ進み、撫牛子駅を過ぎて平川を渡ったところに「とよまき(豊巻)」駅、弘前駅の南方、取上地区の今の跨線橋のところに「おほしみづ(大清水)」駅、さらに南の大和沢川付近に「かどげ?(門外、かどけ)」駅、石川駅を過ぎて大鰐町に入って、弘南鉄道(当時は未開業)鯖石駅の真西に「むつもりやま(陸奥森山)」と、5つも今はない駅があった。
大鰐(現・大鰐温泉)-陸奥森山-石川-門外-大清水-弘前-和徳-撫牛子-豊巻-川部
知らなかったが、Wikipediaを見ると、1935年に大鰐~川部間で「ガソリンカー」が運転され、その時にこの5駅と撫牛子駅が開業していた。その後、1940年には撫牛子以外の4駅が廃止されて、短命に終わった。
おそらく、戦時体制でガソリンカーが廃止されたのだろう。
当時の鉄道省が、地方でこんな短距離輸送をしていたとは。その80年後、秋田市に泉外旭川駅が開業するまで、何十年かかったのを思えば…
黒石方面の弘南鉄道を意識(直接の競合関係ではないが)していたのかもしれないし、逆に戦後に開業する弘前電気鉄道(後の弘南鉄道大鰐線、こちらはやや区間が重なる)へのきっかけになった、ということもなくはないのかも。
弘前大学文京町地区の東側、桝形~富田町~取上・松森町の道を以前取り上げた。
ブックマックスがあった一直線の広い道と、その裏通りのような狭くてくねくねした道がほぼ並行しているが、どちらも古い道のようだった。
(再掲)赤と青の道路のこと
1912年の地形図では、
たしかに両方すでにある
ただ、広いほうは、今は取上交差点から東へ続き、奥羽本線の踏切まで一直線だが、この時点では交差点に突き当たって終わっている。
1912年の地図のこの辺は、軍関係の施設が多い。
今の弘前大学「文京町3番地地区」こと、理工学部と農学生命科学部などがある場所には★マーク。師団司令部(第8師団)など。今の第二体育館付近には、池がある。
その西に縦書きで「号砲台」、付近の道はカーブしている。
80年近く後の弘大生に「バカヤローカーブ」と呼ばれることになる場所。
現在、現地にある標柱は「午砲台跡」。時報として大砲が撃たれ、カーブした軍用通路が市道になって今に至るとされている。
南の今の市立第四中学校の場所は「砲兵営」。向かいの今の市立文京小学校の場所の「M」のような記号は「陸軍所轄」らしい【15日補足・文京小の位置の「T」をT型の枠で囲ったものは凡例には出ていないが、「倉庫」の地図記号ではないかと思う】。その下(今は住宅地)の「×」の先が枝分かれしたのは「監獄」!
※各時代の地図記号は、今昔マップで表示させた状態で、左の「凡例表示」クリックで小さいウインドウに表示されます。
上画像の外側では、今の県立弘前実業高校の敷地や桔梗野小学校一帯には「歩兵営」、最近まで建物が残っていた(上の和徳のリンク参照)松原東には「騎兵営」など、こんなに軍事施設があったとは。軍都弘前を実証している。
1939年の同じ辺り
約30年で、富田町側は宅地化が進んだようで、斜線(現在の「総描建物(大)」)で示されるように。
取上交差点から東側へも道ができた。弘南鉄道が開業して「南弘前」駅(現・弘前東高前)へのアクセス路だったのかも。
今の弘前大学の正門がある「文京町1番地地区」には「高等学校」ができた。弘大の前身である旧制弘前高校。
その西側、斜線が途切れた所に「発電所」の地図記号。現在は「発電所等」として、変電所も同じ記号で示されるが、当時も同じだったようだ。
酒造会社が作った変電所で、廃止後も土地はそのままだったのが、昨年更地にされてしまった、あの場所だ。次の1970年代の地形図では、もう印はない。
高等学校の南隣、3番地地区の第8師団は…ない!
そのほか周囲の軍事施設は、何もないことになっている。
小さいが、画面の右下縮尺の上の地形図の出典を示した枠に注目。下段に「戦時改描の可能性」と出ている。
戦時改描とは、敵の攻撃を避けるため、地図上から重要な施設を消したり、ほかのものに描き換えたりすること。
太平洋戦争末期になると、地図の発行そのものがなくなったが、それ以前は、そのような形で流通していたそうだ。対象の地図には、枠外の価格欄にカッコが付くなど識別できるようになっていて、おそらくそれを元に「~可能性」表示を出している。具体的にどこが改描されたのかは分からないが、弘前のこれらは違いないだろう。
改描された第8師団はいくつかの建物があるように描かれているが、桔梗野や松原のものは、斜線の総描建物があることになっている。集落に偽装したのか。
左は薄い1912年に、1939年を重ねたもの
文京小の監獄だったところ、四中の砲兵営の建物があった場所には斜線。実業高の歩兵営のところには、1912年とは無関係に道ができて、行き止まり付近に斜線。やはり集落か。
秋田市でも、油田や製油所では改描されたのかもしれないが、終戦前夜に空襲を受けた。お見通しだったのか。
知らない昔のことは想像するしかないけれど、その手助けになる貴重な資料を見ることができた。
回転ドアが洒落ていて印象に残ってます。
(六本木の方で回転ドアに挟まれた子供が居てそれを契機に外された?)
90年代に城東にあった弘前ビブレには当時の秋田では求められなかったペリエが普通にあって驚きました。
やっぱり弘前は秋田市よりお洒落な街だと思います。
ビブレは前身が土手町にあり、1993年に移転したとのこと。当時は100円バスがまだなく、行く機会は少なかったですが、シネコンにボウリング場もあり、注目スポットでした。
ダイエー跡は、秋田では更地のまま10年近く経ちますが、弘前は新たな商業施設として、それなりにうまくやっていて、人も集まっています。
弘前のほうが商売上手? 商売熱心? なんでしょうかね。
こんな風情あるなら再開発なんかいるの?な感もありますが、バブルを乗り切れない店がかなりあると厳しいのかも。
秋田市も通町や大町でやってほしいですが。
たしかにストリートビューの発想。当時としては理解されなかったかもしれません。秋田の商店街では、こんな詳細な記録があるのやら…
バブルただ中で計画と着工され、なるべくしてなってしまったのでしょう。
付近は小規模の旅館が多く、お書きになられた五差路の付近は焼き鳥屋さん、食堂。真下に延びる道路にはスナックの入った小規模なビルが沢山ありました。
虹のマートは今の建物が初代のように思いこんでいましたが、1956年にできたそうですね。ご生家周辺も含めて、食品小売店が多かったのでしょうか。
区画整理以前は、生活感あふれる街並みが広がり、広範囲で街が変わってしまったのだと感じました。それが区画整理であり、時代の変化なのでしょうけれど、少々もったいなくも思えます。
こちらに来た後も年に1,2度は弘前に帰っておりましたが、帰るたびに新しい建物や道路が出来ていたりして、便利になっていくのをうれしく思いながらも、子供時代を過ごした街並みやお店、路地が少しづつ消えていくことに寂しさをおぼえていました・・・
左側の地図の「文」マークは私の母校である今は無き第一大成小学校(第二大成小学校と合併して第二の場所に大成小学校)ですが、家の裏から小学校の校舎が見えるような場所に住んでいました。
学区からすると、同級生は駅前、土手町、大町が多数で、弘前の中では都会っ子気分でしたね。
他の方も書かれてましたが、営林署が確かにありましたし、「駅前町」の町の字の下の角は確か工藤パン(看板は「ユ藤パン」笑)、下に延びる道沿いには「中将湯」という銭湯もありました。(土手町には「赤湯」という銭湯もありました)
大町三丁目の大の字のあたりには通称「こみせ」と呼ばれるおばあちゃんがやってる駄菓子屋があり、小学生時代は毎日のように通っていたものです。
土手町には「中三」「かね長武田」「紅屋」「かくは宮川(その後のハイローザ)」等という百貨店が鎮座しており、ヨーカドー時代到来までは古き良きショッピングセンター群として市民に親しまれてもいました。(駅前にはマルサンという小さいデパートがありました)
またさすが文化都市と言うべきか、あの規模の都市にしては多すぎるくらいの映画館が乱立していて、駅前に宝塚劇場、百石町に東映、元寺町に東宝/スカラ座/オリオン座/松竹、鍛冶町方面にミラノ座があったので、たくさんの映画に触れ合うことができ、スターウォーズ第一作も映画館で鑑賞できる幸運に恵まれました。
(これ以外にも成人映画館2館ありましたが、そちらは未経験)
まだ晩年というほどの年齢ではないつもりですが、かなりのおっさんになってしまったのは事実で、ふとした折に弘前の子ども時代を思い出してノスタルジィにひたっている自分がいたりします。
最近はあまり弘前を訪れる機会もなく、小学、中学時代の同級生と語り合うこともないので誰かと懐かし話がしたい気持ちでいっぱいですね。
雪が多く地方の小都市なので、暮らしに不便なところはありますが、いまだに一番好きな場所は「弘前」です。
素敵なブログありがとうございます。
長文、申し訳ありませんでした。
表面的に分かりやすい土手町など商店街のみならず、多くのものがここ数十年で変わってしまったことでしょう。弘前は古いものを大切にする土地柄だと感じていますが、それでも変化は避けられません。
そんな中、旧・第一大成小学校は、今も建物は残っています。しかし、向かいの弘前市立病院が2022年に閉院(国立病院と統合)しましたので、その後の活用として、変化が起きてしまいそうです。
市立病院の建物は保健センターなどに転用、学校は解体して、その駐車場などにする計画のようです。母校の名のみならず建物も消えてしまうのは、寂しいですね。
20数年前は、弘前大学周辺にはまだ銭湯がありましたが、今はなくなりました。駅周辺にも銭湯があったのですね。「中将湯」は、実は秋田市にも昔は2軒ありました。ツムラの入浴剤にちなむのでしょうか。
「マルサン」はイトーヨーカドーの向かい側、ボウリング場「サンワボウル」があった建物でしょうか。そこは1996年頃の時点ではひっそりと営業しており、いつの間にか閉店、2013年に区画整理事業の一環で解体されました。
映画館も、今はカネ長武田が移転した駅裏のイオンシネマだけになり、成人向け(東北で唯一だとか)は鍛冶町近くにあるのみ。
ほんとうにいろいろと消えていくものです。
昨今、地方都市はどこも厳しい状況にありますが、弘前は街のサイズが広すぎずまとまりがあり、暮らしにくいばかりではないと考えます。住民の街を想う心意気も、他の街より強いと感じます。かつてのにぎわいには及ばないでしょうが、地方都市としての将来は、まだ明るいのではないかと、隣県からうらやましく思っています。
貴重な思い出をありがとうございました。