弘前シリーズ。引き続き、弘前大学文京町地区周辺。
気になっていたことその2は、ネットで知ったことの現地確認。
場所の説明(下の航空写真も参照ください)。文京町地区のキャンパスは、正門のある東辺が、富田大通りこと青森県道127号線に面する。
裏の西側には狭い市道があり、さらに西に弘南鉄道大鰐線、そして土淵川が南北に通る。
キャンパス中央は東西の市道で区切られ、正門のある北側が文京町1番地、南側が3番地。学生はあまり使わないと思うが、(少なくとも20年前の)大学当局側は施設管理などの際に「文京町○番地地区」と呼称する場合があった。
1・3番地を分ける市道を西へ進むと、弘南鉄道西ヶ丘踏切を越えて「寒沢スキー場」。
3番地地区の西側では、大学敷地と市道の間に家が並んで面していないが、そこは何度もカーブする「バカヤローカーブ」。
3番地側のバカヤローカーブと線路の間には、行き止まりの道や砂利道しかないはず。
一方、1番地(西側だから教育学部)側では、その市道と線路の間に、もう1本、細い市道が並行している。つまり、大学側から行くと、西ヶ丘踏切の手前で、右(北)へ曲がる道がある。地名も富士見町に変わる。
その道沿いのお話。
Googleマップ航空写真に加筆。赤い★の場所のこと
その道は、大学裏の道と幅はあまり違わないが、車の通行はずっと少ない、生活道路。
僕は、学部と家の方角・ルート的に遠回りになる(しかも、ここを通る=バカヤローカーブを通ることになる)ため、あまり通ったことはなく、なじみは薄い道。
ただ、まれに通ると、印象的な場所があった。
低い塀と門で閉ざされた、樹木がうっそうと茂る土地。
南から
↑↓2枚は、2019年10月撮影Googleストリートビューより。
北寄りにある大きな門。ほかにも小さい門があった
路上から見る限り、道路に面した南北方向も、奥行きの東西方向も長く、広い土地だった。航空写真でざっと比べると、弘大3番地の多目的グラウンドと同じくらい。後述の保存樹林の説明板には「約1ヘクタール」とあった。
Google航空写真でズーム
道路から大きい門をのぞくと、樹木の奥にレンガ造りの建物も見えた。航空写真でもちらりと屋根が見える。
表示などはなく無人のようで、空いたお屋敷の跡か何かかと思っていた(後述の保存樹の表示はあったはずだけど)。
その後、ネットでわずかに情報があり(もしかしたら在学中の「学園だより」にも載っていたか??)、正体を知った。
大正末に造られた、私設の変電所の跡。
造ったのは、前回も登場した、酒造会社経営者(でいいのかな?)・福島藤助。
旧相馬村エリアの紙漉沢という所に水力発電所も造り、この変電所で降圧して、吉野町の醸造所で使ったということのようだ。
いつからか変電所は使われなくなり、醸造所は美術館になったが、発電所は今も現役で、吉井酒造が運営しているらしい。
敷地内の木々は、ソメイヨシノ。1991年に弘前市の「保存樹林」第六号に指定されていた。剪定されない、自然のままの樹形が特徴。花の時期に通ったことはなかったはず。
近年は、吉井酒造(の経営者個人?)の所有だったようで、「富士見町吉井氏所有叢林」として登録。
変電所やその跡としての名称は、一定していないようだ。ネット上では、頭に「旧」や末尾に「跡」を付けた上で、「福島醸造変電所(稼働当初の所有者?)」や「吉井酒造変電所(末期の所有者?)」と呼ばれている。
変電所がいつまで稼働したかは不明。かつてはレンガの建物がほかにも建っていたとの情報があった。
国土地理院のサイトで、1975年の航空写真を見ると、木が小さく、緑の地面が多く見えていた。ソメイヨシノの寿命は長くないから、稼働当初からあったのではなく、後年植えられ、この30~40年で繁茂したということか。
※1939年の地形図には記載されていた。1970年代の地形図では地図記号なし。この記事後半で少々。
非公開だけでなく、存在自体が大々的には公表されない、知る人ぞ知る場所であった。
しかし、2014年のJR東日本「駅からハイキング」では、「変電所跡」としてコースに組み入れられていた(敷地内に入れたのかは不明)。注目されるようになったのかなと思った。
産業遺産であり、緑豊かな空間でもある。この付近には公園(児童公園・街区公園)は少ないはずだし、整備して開放すれば、住民の憩いの場になるのにと考えていた。
弘前駅裏の長四郎公園がそうだと思うが、大規模な「近隣公園」にしてもいいかと思ったら、国は2ヘクタールを標準とすることとしていたから、足りない。街区公園としては充分な広さ。
ところが、今年8月頃、ネット上でここに関する新たな動きを知ったので、現地へ。
南から。奥の工事は無関係
見覚えがあるのは塀だけ。
樹木もれんがの建物も、すっかりなくなって、更地になってしまっていた!
地元の不動産業者名の「管理地」の看板が立っていた。ちなみに、マルサンビル解体の発注主の不動産屋とは別。
保存樹の指定解除は、難しいことではないようだ。秋田市では、旭北寺町の大ケヤキが道路建設という理由で解除・伐採された事例がある。
7月2日に開催された「弘前市みどりの審議会」会議録が、弘前市サイトに掲載されている。会長は弘大農学生命科学部の元先生(現・名誉教授)だ。
それを見ると、「所有者の手入れがままならない」「弘南鉄道線路上へ枝が張り出すので、毎年刈払いをしている」「近隣住民からも、強風時など不安という声」と、所有者による管理が手に負えなくなり、「特別の理由」で指定解除された。
近年は、てんぐ巣病や、木が大きくなって競合も起きていて、剪定もしていたという。弘前市役所側では、土地の買い取りを考えたものの、金銭的に実現できないとの結論。
伐採作業は8月頃。会議録がネットに上がっているのだから、マスコミも知り得ることだが、報道はされたのだろうか。
個人所有の木や建造物が、その持ち主の負担ならば、壊したり手放したりするのはやむを得ないだろう。古いものを大切にする弘前にあっても、それは避けられない。2016年には、松原東にあった、旧・陸軍第八師団のレンガ造りの「覆馬場」の建物を使っていた生協のスーパーが、解体されている(この記事参照)。
でも、勝手な意見として、ここの場合、もう少し残すための努力ができたようにも思う。もっと早い段階で、市に伝わったり、マスコミやネットで広まっていれば、残す道があったかもしれない。今はふるさと納税とかクラウドファンディングとかもある。
吉野町の倉庫はきれいになって注目されているのに、遠くない場所にある同じ起源を持つ場所が、ひっそりとなくなってしまったというのは、少々やるせない。
更地になったから、西側の視界は開けた。
ここからも岩木山がよく見えるようになった
昔の寒沢スキー場の記事(冒頭にリンクあり)で取り上げたように、この辺りの地形は、土淵川を底にした坂で、寒沢スキー場もその1つ。
変電所跡では、西辺が線路に向かった崖状になっているようだ。線路向こうも家が建っているはずで、弘南鉄道の車内からでないと、見ることはできないと思うが、意識して見たことがない。
上の写真では、線路の架線がかろうじて見えているようだから、崖は電車の車高分の高低差がありそう。
その向こうの家並みは、手前が線路向かいの寒沢町、その奥の少し高いのは、土淵川対岸の桔梗野のはず。
【26日補足】そういう地形的なこともあって、ここが「富士見町」で、実際に津軽富士がよく見えるわけだ。
“変電所跡の跡”はどうなるのだろう。
店舗には不向きな場所。学生向けアパートなら最適だろうけど、広すぎる? この辺では珍しい新しい宅地も、市街地回帰でいいかも?
でも、やっぱり公園? 眺めが良さそうだけど、向こうの家の中が見えちゃうか。
弘前大学さんが買って、何か施設(体育施設とか)を建てつつ、一般に開放するなんてのもいいかもしれませんよ。
【2021年5月18日追記】ここが建築条件付宅地分譲「サンヒルズ富士見町」として、44区画が分譲されることになった。2021年5月に、不動産会社による特設サイト開設、テレビCMが始まっている。
サイトには「建設した変電所として利用されていた場所でした。その後は林地となり、ソメイヨシノの名所ともなっていました。」などと、発電所跡であることも明示されている。「弘前中心エリアにありながら、これだけの広大な土地が残っているのはとても稀です。」ともあるが、だったら、違う使いみちで残してくれても…
北寄りの崖際には「緑地」もできることになっていて、そこからの眺めはどうなるだろう。→2021年12月の状況
弘前の話題は続く。
気になっていたことその2は、ネットで知ったことの現地確認。
場所の説明(下の航空写真も参照ください)。文京町地区のキャンパスは、正門のある東辺が、富田大通りこと青森県道127号線に面する。
裏の西側には狭い市道があり、さらに西に弘南鉄道大鰐線、そして土淵川が南北に通る。
キャンパス中央は東西の市道で区切られ、正門のある北側が文京町1番地、南側が3番地。学生はあまり使わないと思うが、(少なくとも20年前の)大学当局側は施設管理などの際に「文京町○番地地区」と呼称する場合があった。
1・3番地を分ける市道を西へ進むと、弘南鉄道西ヶ丘踏切を越えて「寒沢スキー場」。
3番地地区の西側では、大学敷地と市道の間に家が並んで面していないが、そこは何度もカーブする「バカヤローカーブ」。
3番地側のバカヤローカーブと線路の間には、行き止まりの道や砂利道しかないはず。
一方、1番地(西側だから教育学部)側では、その市道と線路の間に、もう1本、細い市道が並行している。つまり、大学側から行くと、西ヶ丘踏切の手前で、右(北)へ曲がる道がある。地名も富士見町に変わる。
その道沿いのお話。
Googleマップ航空写真に加筆。赤い★の場所のこと
その道は、大学裏の道と幅はあまり違わないが、車の通行はずっと少ない、生活道路。
僕は、学部と家の方角・ルート的に遠回りになる(しかも、ここを通る=バカヤローカーブを通ることになる)ため、あまり通ったことはなく、なじみは薄い道。
ただ、まれに通ると、印象的な場所があった。
低い塀と門で閉ざされた、樹木がうっそうと茂る土地。
南から
↑↓2枚は、2019年10月撮影Googleストリートビューより。
北寄りにある大きな門。ほかにも小さい門があった
路上から見る限り、道路に面した南北方向も、奥行きの東西方向も長く、広い土地だった。航空写真でざっと比べると、弘大3番地の多目的グラウンドと同じくらい。後述の保存樹林の説明板には「約1ヘクタール」とあった。
Google航空写真でズーム
道路から大きい門をのぞくと、樹木の奥にレンガ造りの建物も見えた。航空写真でもちらりと屋根が見える。
表示などはなく無人のようで、空いたお屋敷の跡か何かかと思っていた(後述の保存樹の表示はあったはずだけど)。
その後、ネットでわずかに情報があり(もしかしたら在学中の「学園だより」にも載っていたか??)、正体を知った。
大正末に造られた、私設の変電所の跡。
造ったのは、前回も登場した、酒造会社経営者(でいいのかな?)・福島藤助。
旧相馬村エリアの紙漉沢という所に水力発電所も造り、この変電所で降圧して、吉野町の醸造所で使ったということのようだ。
いつからか変電所は使われなくなり、醸造所は美術館になったが、発電所は今も現役で、吉井酒造が運営しているらしい。
敷地内の木々は、ソメイヨシノ。1991年に弘前市の「保存樹林」第六号に指定されていた。剪定されない、自然のままの樹形が特徴。花の時期に通ったことはなかったはず。
近年は、吉井酒造(の経営者個人?)の所有だったようで、「富士見町吉井氏所有叢林」として登録。
変電所やその跡としての名称は、一定していないようだ。ネット上では、頭に「旧」や末尾に「跡」を付けた上で、「福島醸造変電所(稼働当初の所有者?)」や「吉井酒造変電所(末期の所有者?)」と呼ばれている。
変電所がいつまで稼働したかは不明。かつてはレンガの建物がほかにも建っていたとの情報があった。
国土地理院のサイトで、1975年の航空写真を見ると、木が小さく、緑の地面が多く見えていた。ソメイヨシノの寿命は長くないから、稼働当初からあったのではなく、後年植えられ、この30~40年で繁茂したということか。
※1939年の地形図には記載されていた。1970年代の地形図では地図記号なし。この記事後半で少々。
非公開だけでなく、存在自体が大々的には公表されない、知る人ぞ知る場所であった。
しかし、2014年のJR東日本「駅からハイキング」では、「変電所跡」としてコースに組み入れられていた(敷地内に入れたのかは不明)。注目されるようになったのかなと思った。
産業遺産であり、緑豊かな空間でもある。この付近には公園(児童公園・街区公園)は少ないはずだし、整備して開放すれば、住民の憩いの場になるのにと考えていた。
弘前駅裏の長四郎公園がそうだと思うが、大規模な「近隣公園」にしてもいいかと思ったら、国は2ヘクタールを標準とすることとしていたから、足りない。街区公園としては充分な広さ。
ところが、今年8月頃、ネット上でここに関する新たな動きを知ったので、現地へ。
南から。奥の工事は無関係
見覚えがあるのは塀だけ。
樹木もれんがの建物も、すっかりなくなって、更地になってしまっていた!
地元の不動産業者名の「管理地」の看板が立っていた。ちなみに、マルサンビル解体の発注主の不動産屋とは別。
保存樹の指定解除は、難しいことではないようだ。秋田市では、旭北寺町の大ケヤキが道路建設という理由で解除・伐採された事例がある。
7月2日に開催された「弘前市みどりの審議会」会議録が、弘前市サイトに掲載されている。会長は弘大農学生命科学部の元先生(現・名誉教授)だ。
それを見ると、「所有者の手入れがままならない」「弘南鉄道線路上へ枝が張り出すので、毎年刈払いをしている」「近隣住民からも、強風時など不安という声」と、所有者による管理が手に負えなくなり、「特別の理由」で指定解除された。
近年は、てんぐ巣病や、木が大きくなって競合も起きていて、剪定もしていたという。弘前市役所側では、土地の買い取りを考えたものの、金銭的に実現できないとの結論。
伐採作業は8月頃。会議録がネットに上がっているのだから、マスコミも知り得ることだが、報道はされたのだろうか。
個人所有の木や建造物が、その持ち主の負担ならば、壊したり手放したりするのはやむを得ないだろう。古いものを大切にする弘前にあっても、それは避けられない。2016年には、松原東にあった、旧・陸軍第八師団のレンガ造りの「覆馬場」の建物を使っていた生協のスーパーが、解体されている(この記事参照)。
でも、勝手な意見として、ここの場合、もう少し残すための努力ができたようにも思う。もっと早い段階で、市に伝わったり、マスコミやネットで広まっていれば、残す道があったかもしれない。今はふるさと納税とかクラウドファンディングとかもある。
吉野町の倉庫はきれいになって注目されているのに、遠くない場所にある同じ起源を持つ場所が、ひっそりとなくなってしまったというのは、少々やるせない。
更地になったから、西側の視界は開けた。
ここからも岩木山がよく見えるようになった
昔の寒沢スキー場の記事(冒頭にリンクあり)で取り上げたように、この辺りの地形は、土淵川を底にした坂で、寒沢スキー場もその1つ。
変電所跡では、西辺が線路に向かった崖状になっているようだ。線路向こうも家が建っているはずで、弘南鉄道の車内からでないと、見ることはできないと思うが、意識して見たことがない。
上の写真では、線路の架線がかろうじて見えているようだから、崖は電車の車高分の高低差がありそう。
その向こうの家並みは、手前が線路向かいの寒沢町、その奥の少し高いのは、土淵川対岸の桔梗野のはず。
【26日補足】そういう地形的なこともあって、ここが「富士見町」で、実際に津軽富士がよく見えるわけだ。
“変電所跡の跡”はどうなるのだろう。
店舗には不向きな場所。学生向けアパートなら最適だろうけど、広すぎる? この辺では珍しい新しい宅地も、市街地回帰でいいかも?
でも、やっぱり公園? 眺めが良さそうだけど、向こうの家の中が見えちゃうか。
弘前大学さんが買って、何か施設(体育施設とか)を建てつつ、一般に開放するなんてのもいいかもしれませんよ。
【2021年5月18日追記】ここが建築条件付宅地分譲「サンヒルズ富士見町」として、44区画が分譲されることになった。2021年5月に、不動産会社による特設サイト開設、テレビCMが始まっている。
サイトには「建設した変電所として利用されていた場所でした。その後は林地となり、ソメイヨシノの名所ともなっていました。」などと、発電所跡であることも明示されている。「弘前中心エリアにありながら、これだけの広大な土地が残っているのはとても稀です。」ともあるが、だったら、違う使いみちで残してくれても…
北寄りの崖際には「緑地」もできることになっていて、そこからの眺めはどうなるだろう。→2021年12月の状況
弘前の話題は続く。
富士見町の変電所跡が更地になったことを知り、衝撃を受けています。
私は長く京都に住んでいますが、さかのぼること50年前の1970年4月~1972年3月にかけて、現地北隣(富士見町25-5)にあった木造二階建ての民家に居住し、非常になじみ深い場所でした。
当時の建物は、老朽化のため1972年に取り壊され(そのために退去させられたと記憶しています)、私が弘前を離れた1973年11月以降、同地に新たに恵荘なるアパートが建てられましたが、平成になってから、それも取り壊されて、昨年2019年のGoogleストリートビューでは駐車場となっています。
当時からこの変電所跡は立入禁止であり、もちろん敷地内に入ったことはなかったのですが、キツツキの木をたたく音が静寂な空気のなかで響いていたことや、うっそうとした木立のざわめきは、50年たった今でも鮮明な記憶として残っています。
記事にあるように、この地はソメイヨシノの保存樹林が指定されていることで知られているようですが、私の記憶は少々異なります。
私が居住していた当時は、樹木はむしろポプラの高木が主であり、桜の記憶はあまりありません。
当時から桜がメインであったなら、花時の印象があるはずなのですが、それがないのです。
ただその後1983年3月に現地を訪ねたときの写真では、樹木は大部分桜となっており、ポプラは伐採されていたのかもしれません。
私にとって弘前の大きなビュースポットであった変電所跡は、記憶の中だけのものとなってしまい、非常に残念です。
国土地理院サイトに、1975年のカラー航空写真がありますが、近年とはだいぶ違っていた印象でした。樹種は違っても、緑豊かなのは変わらなかったようですね。
ポプラは、葉ずれの音がサラサラと特徴的(小学校のグラウンドにあり印象的でした)ですから、すてきな光景だったことでしょう。弘前のあの辺りにも、キツツキが来るのですね。20年前はカッコウとキジしか遭遇したことがなかったです。
立ち入れないにせよ、長きにわたって管理はされていたことになると思います。こんな結果になってしまったのは、やはり惜しいです。