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台湾から、南太平洋・オセアニアヘ1

2022年09月25日 | 歴史

🌸台湾から、南太平洋・オセアニアヘ1

東南アジア島嶼(しょう)部への人類の拡散
 ☆陸地での集団のテリトリーの拡散は緩やか

 *船を使った海洋での移動は急速なものになる

 ☆その典型が台湾や中国南部に端を発して

 *東南アジアを経由した南太平洋の島々への初期農耕民の展開
 ☆この集団の移動

 *現在に至る東南アジアおよび南太平洋集団の形成に大きな役割を果たす
 ☆東南アジアの半島部の集団の形成が、基層集団と北方からの農耕民の混合
 ☆島嶼部では初期農耕をともなう海洋集団の拡散が鍵である
 ☆東南アジア島嶼部と南太平洋の集団の形成、一体として捉える必要がある

オセアニアヘの初期拡散

 ☆オーストラリアには、約5万年ほど前にホモ・サピエンスが進出していた
 ☆ヨーロッパヘの進出とはぼ変わらない時期にオーストラリアまで到達していた
 ☆旧石器時代を通じて、東南アジアからオセアニアにかけサフールランドが存在
 ☆双方にデニソフ人と交雑した狩猟採集民の集団が居住していた
 *ホモ・サピエンスの初期拡散でアジア・オセアニアに到達した

 *ホモ・サピエンスの人びとの子孫である

 ☆アボリジニ・パプアニューギニアの高地人・フィリピンのネグリトの分岐3万5千年程前

 *現代のこの三つの地域の先住民は、長期にわたり独立し近現代に至った
 ☆オーストラリアの先住民はアボリジニとして一括している

 *当然さまざまな地域ごとの特性が存在したと考えられるが

 *先住民への迫害の歴史が原因で古代ゲノムの解析が行われていない

 *パブアニューギニアに関しても、現代人データのみの考察しかできない

 ☆オセアニア地域の集団の成立史

 *デニソワ人との混血の集団が、非常に古い時代から存続して

 *現代につながっているという大雑把なものしか確定出来てない

ポリネシアヘの進出は「アウトオブ台湾モデル」による
 ☆ニア・オセアニアと呼ばれるメラネシアのソロモン諸島までの地域

 *3万年以上前にホモ・サピエンスが初期拡散によって到達した

 ☆リモート・オセアニアといわれる地域、メラネシアの離島域
 *進出したのは、オーストロネシア語を話す人々

 *「--ネシア」は古典ギリシア語で「諸島」を意味する言葉

 ☆「オーストロネシア語」言語とは

 *台湾から東南アジアの島嶼部、 ハワイ、イースター島などの島々から

 *アフリカ大陸東岸に位置するマダガスカルまで

 *地球上のおよそ半分を占める広大な地域で話されている

 ☆台湾の先住民の使うオーストロネシア語がもっとも古く

 *言語学の研究からは台湾が源郷で

 *祖先は、中国南部の海岸地域に居住していた集団である
 *彼らは土器をつくり、植物を栽培し、家畜を持っていた人びと

 ☆初期農耕民集団の中に台湾を出発したグループがあり

 *メラネシアのビスマルク諸島に到達して

 *特徴的な土器をつくるラピタ文化を生み出した

 ☆ラピタの人びと

 *約3200年前にはポリネシアに進出して

 *長い時間をかけて太平洋の広大な地域に拡散した
 ☆「アウトオブ台湾モデル」は、台湾からの急速な展開を想定している

現代のポリネシア人のDNA

 ☆男性の系統を代表するY染色体DNAの66%はメラネシアの人びとの系統

 ☆母系を代表するミトコンドリアDNAの系統の94%は東南アジアに起源する

 ☆ポリネシアヘの進出が、東南アジアを南下した人びと

 *メラネシアの集団を巻き込む形で行ったと考えれば

 *ポリネシアに双方の系統が見られることは不思議ではない

 ☆男女の比率が違うことなどについては詳細不明

                      (敬称略)                                     
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『人類の起源』

台湾から、南太平洋・オセアニアヘ1

(『人類の起源』記事・ネットより画像引用)

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後醍醐天皇と児島高徳「呉越同舟」

2022年09月25日 | 歴史

🌸後醍醐天皇と児島高徳「呉越同舟」

教育でも「三つ子の魂百まで」

 ☆後醍醐天皇は、戦前では神でした
 ☆天皇の建武政権を破滅させた足利尊氏は日本史上第一の大悪党

 ☆戦前「足利尊氏は再評価に値する」書いた商工大臣、大臣を辞任した
 ☆戦後、皇国史観が退場し足利尊氏が再評価されても

 *後醍醐天皇は基本的に「改革を志した英傑」のままである

 ☆3年持たなかった建武政権は、本来「ダメな」政権と評価されるはずなのに

 ☆唯物史観を信奉する先生たちの間でも「英傑」の評価は続いている
 ☆「三つ子の魂百まで」が心の奥底に残り続けるからと思う

 ☆後醍醐天皇の政治評価はさておいて

 *後醍醐天皇は、信念の人、果敢に行動する人であった

 ☆備前国児島郡に児島高徳という武士がいた

 *彼は後醍醐天皇に心を寄せ、隠岐島への道中で天皇を助けようといた

 *警護が厳しくうまくいかないので

 ☆天皇の宿所に潜人し「天莫空勾践 時非無范蠡」木に記載した

 (天勾践を空しゅうすること莫れ時ときに范蠡無なきにしも非あらず)

 *天は越王・勾践にしたように、決して帝をお見捨てにはなりません
 *范蠡の如き忠臣が現れ、帝をお助けする事でしょう

 ☆戦前この詩句が用いられていた小学校に筆者の母在籍していた

 *筆者の母親、昭和6年の生まれ

 *40歳のとき、正確に唄って聞かせてくれた「三つ子の魂百まで」だ

「呉」に従うふりで国力を蓄える「越」

 ☆蘇州を都とする呉という国(王様、闔閭)

 *当時の超大国・楚を圧倒を強国にのし上げた

 *楚と争う呉の背後から、新興の越が攻撃をかける

 *闔閭は、このとき受けた傷がもとで亡くなる

 *闔閭の子の夫差は復讐を誓い越を減亡寸前まで追い詰める
 *越の子の勾践が謝罪してきたため、夫差は彼の命を助けた

 ☆勾践は屈辱に耐え、呉に従うふりをして国力を蓄えていた
 *夫差はそれに気付かず中国北部へ進出
 *夫差が足元への注意を怠るうちに

 *越は呉に攻勢をかけ、首都を陥落させた

 ☆呉は越のために減びた
 *勾践は1度は夫差の奴隷に身を落とされますが、呉を減ぼす

 ☆先の児島高徳の語句は、それを表現したもの

 *呉と越の激しい戦いは有名な故事「呉越同舟」を生み出す
 ☆「臥薪嘗胆」

 *越に復確言を誓った当時の夫差薪の上で寝る痛みで

 *父を討たれた屈辱を思い出した

 *1度は夫差に敗北した勾践は、富国強兵に励む一方
 *苦い胆を嘗め、屈辱を忘れないようにした

 *二つが合わさって、臥薪嘗胴という言葉ができている

                      (敬称略)                                     
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⛳出典、『THEMIS9月号』

後醍醐天皇と児島高徳「呉越同舟」(ネットより画像引用)

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悲劇の人・ヤマトタケル3(白鳥)

2022年09月25日 | 歴史

🌸悲劇の人・ヤマトタケル3(白鳥)

白鳥と化すヤマトタケル

 ☆ヤマトタケルは、病身を引きずりながら故郷の大和へと旅を続けた

 *桑名市の一本松のもとにたどり着き、さらに進むが、歩くたびに足が痛む

 *故郷はすぐ目の前であり故郷を偲んで歌を詠んだ

 *ヤマトタケルは死期を悟ったのだろうか、次々と歌を詠む

 ☆ヤマトタケルの病は急に切迫し、最期となる歌を詠んだ
 *我が置きし 剣の大刀 (ミヤズヒメのそばに置いてきた草薙の剣)あの大刀よ

 *あの草薙の剣がこの手にあったらなあと歌い終えると息を引き取った

 ☆訃報を聞いたヤマトタケルの妻子たちが、大和から馳せ参じてきた

 *墓をつくり、泣きながら歌を詠んだ

 ☆するとヤマトタケルの霊魂は白鳥となって海辺へ飛んでいった

 *白鳥が河内国にも留まらず、飛び去ってしまう

 *ヤマトタケルの純真な性格と心情が発露している
 *白鳥となっても諸国を飛び回って逆賊の平定を考えていた

鳥越神社(私の氏神)

 ☆祭神は日本武尊、東征の折にこの地に留まったことを

 *近在の者が尊び、白鳥神社を建立したのが始まりとされる

 ☆源義家が奥州征討へ赴く際

 *この付近を渡河しようとし、白い鳥に導かれて浅瀬を渡ることが出来た

 *鳥越神社と改称したという伝承が残る

 ☆鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので

 *「鳥越(飛び越え)」という地名になりこの社名となった

 *将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められた

 *鳥越神社には将門の手が埋められているという

 ☆鳥越神社と将門を結びつけるものはいくつかある

 *宮司鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄

 *全く縁もゆかりもない土地ではない

日本武尊(第12代景行天皇の第2皇子)

 ☆父の命により全国へ征討をおこなう

 *死後白鳥となって飛び立っていったという伝説が残されており

 ☆日本武尊を祀る神社の名称は「白鳥神社」が多い

                      (敬称略)                                     
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⛳出典、『眠れないほど面白い古事記』

悲劇の人・ヤマトタケル3(白鳥)

(ネットより画像引用)

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