🌸「三英傑」の知られざる女性観7
『要旨』
☆家康が愛した女性は、有能な女性が多かった
*家康の側室阿茶局という女性も、非常に優秀だった
*淀殿たちと交渉する和平交渉の場に出ていったのも、阿茶局
*三男の秀忠と四男の忠吉という息子たちの育ての母です
☆後年になって出現した、家康の少女好み
*大田道灌の血筋に当たる英勝院、通称・お梶の方
☆部下に下賜された、お梅の方とお梶の方
(お梅の方)
「阿茶局」「お梶の方」「お梅の方」
(ネットより画像引用)
⛳家康が愛した女性は、有能な女性が多かった
☆家康の側室阿茶局という女性も、非常に優秀だった
☆阿茶局は、未亡人で武田の家臣飯田直政の娘
*今川氏の家臣と結婚しますが、夫が亡くなり、後に家康の側室になる
*珍しく家康の計算が外れ、彼女との間には子どもは作つていませんが
*珍しく家康の計算が外れ、彼女との間には子どもは作つていませんが
*優秀な人だったようで、家康は彼女をずつとそばに置いていた
*女性に関する徳川家の奥向きの話、全部彼女に統括させていた
*女性に関する徳川家の奥向きの話、全部彼女に統括させていた
*後の江戸幕府に生まれる大奥の元締めのような立場だった
*家康は戦争に行くときにも、彼女を伴っている
*淀殿たちと交渉する和平交渉の場に出ていったのも、阿茶局
*家康は戦争に行くときにも、彼女を伴っている
*淀殿たちと交渉する和平交渉の場に出ていったのも、阿茶局
*三男の秀忠と四男の忠吉という息子たちの育ての母です
*彼ら兄弟を産んだ西郷局は、出産後すぐに死んでしまった
*彼ら兄弟を産んだ西郷局は、出産後すぐに死んでしまった
*阿茶局がこの兄弟を引き取り育てた
⛳後年になって出現した、家康の少女好み
☆若い頃は熟女、賢くて子どもがいる熟女が好きだった家康
⛳後年になって出現した、家康の少女好み
☆若い頃は熟女、賢くて子どもがいる熟女が好きだった家康
*後年になる十代の少女を愛するロリコン傾向
*家康は次第に若い女性を寵愛するようになった
☆家康が36歳の年の差恋愛をしたのが
☆家康が36歳の年の差恋愛をしたのが
*江戸城を作った大田道灌の血筋に当たる英勝院、通称・お梶の方
*彼女も、若い頃から家康の寵愛を得たことで知られている
*二人の出会いは、彼女が13歳、当時の家康は49歳
*二人の出会いは、彼女が13歳、当時の家康は49歳
*お梶の方は才気あふれる女性だった
*家康は気に入っており、彼女もまた関ケ原の戦いにも同行した
☆彼女は家康との間に一人の女の子を産む
*その子は生まれてすぐに亡くなり、可哀そうに思った家康
*自分の末っ子である徳川頼房を彼女の養子にする
☆頼房は、水戸黄門で知られる水戸光國の父
*水戸の殿様になるような子どもを養子にしたことで
*お梶の方は家康の死後もずっと幕府で重用された
☆彼女は鎌倉に英勝院というお寺を建てた
*このお寺は、水戸家のお姫様が尼になる際
*格式の高い寺として位置付けられている
*いまも尼寺として生き続けています
⛳部下に下賜された、お梅の方とお梶の方
☆家康は、自分の2人の女性たちを部下に下賜した
*お梅の方は、若手大名の本多正純へと嫁入りさせた
*お梶の方は、徳川幕府の財政を担っていた松平正綱の妻にした
☆中国では君主が自分の籠愛する女性褒美として家臣に下賜した
*家康はこの真似をした
☆日本でも、君主が女性を家臣に下賜することはたまにある
☆平清盛が白河上皇のご落胤だという噂が生まれたのは
*祗園の女御という自分の愛した女性を上皇が、清盛の父・平忠盛に
*プレゼントしたという逸話から生まれた
☆家臣に下賜されたお梅の方とお梶の方
*お梅の方は、家康に言われるがままに本多正純に嫁ぎ
*彼の妻としてひそやかに生涯を終えた
*お梶の方は、 一度は松平正綱と結婚したものの
*その後、夫を捨て、家康の元へと帰ってきた
☆結婚当時、本多正純の石高は三万石ほどで、松平正綱は二万五千石ほど
*日本全国を手中に収める家康のほうが
*お梶の方には惹かれるものがあったのかもしれません
(敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』
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