今日は安吾忌
明治に、新潟で生まれた坂口炳五
(へいご※1)は、中学の漢文教諭に
「暗いからアンゴ」と板書されたのが
筆名の由来とも言われるが、
大正末期に荏原尋常高等小学校の
分教場(※2)で代用教員を務めた頃、
短歌の筆名を「安吾」としたのが、
いわゆる公の始まりだそうだ。
翌年、職を辞し東洋大学文学部
印度哲学倫理学科(※3) に入学。
昭和5年3月卒業後、作家の道へ。
不条理の先端と称された『風博士』で
注目されたあと、戦争を挟み、
1946年『堕落論』『白痴』で無頼派
(太宰治ほか)と呼ばれ寵児となり、
47年には推理小説『不連続殺人事件』、
代表作『桜の森の満開の下』を発表。
そんな安吾が没したのが55年2月17日。
[※1]
1906年の丙午(ひのえうま)の年に
五男として生まれた故〈炳五〉。
奇しくも筆者が1966年に生を受けた
丙午。血液型も同じAなのだ。
[※2]
安吾の赴任先は下北沢にある
代沢小学校(現在は工事中)。
私の前任劇団から程近く、実際に
朗読会や稽古で関わった場所。
[※3]
〈 諸学の基礎は哲学にあり〉を
標榜した東洋大学にあって、
西洋・印度・中国の「三哲」は、
花形学部でもあったのだけれど……
様々な変容を踏まえて、現在は
「哲学科」「東洋思想学科」に
統合されています
時を経て・・・
千葉県産まれの野球選手
片岡治大が結婚した件が話題だ。
彼の誕生日が奇しくも今日。
話は戻る。
写真は、新潟出身の安吾の命日に
大学の後輩が献盃すべく、地元の
「鶴齡」「越後鶴亀」……と思いきや
長野の「大信州」です。
来月の芝居が、信濃から満州へ、
多くの開拓民が海を渡った。
そんな作品をこさえているので。
明治に、新潟で生まれた坂口炳五
(へいご※1)は、中学の漢文教諭に
「暗いからアンゴ」と板書されたのが
筆名の由来とも言われるが、
大正末期に荏原尋常高等小学校の
分教場(※2)で代用教員を務めた頃、
短歌の筆名を「安吾」としたのが、
いわゆる公の始まりだそうだ。
翌年、職を辞し東洋大学文学部
印度哲学倫理学科(※3) に入学。
昭和5年3月卒業後、作家の道へ。
不条理の先端と称された『風博士』で
注目されたあと、戦争を挟み、
1946年『堕落論』『白痴』で無頼派
(太宰治ほか)と呼ばれ寵児となり、
47年には推理小説『不連続殺人事件』、
代表作『桜の森の満開の下』を発表。
そんな安吾が没したのが55年2月17日。
[※1]
1906年の丙午(ひのえうま)の年に
五男として生まれた故〈炳五〉。
奇しくも筆者が1966年に生を受けた
丙午。血液型も同じAなのだ。
[※2]
安吾の赴任先は下北沢にある
代沢小学校(現在は工事中)。
私の前任劇団から程近く、実際に
朗読会や稽古で関わった場所。
[※3]
〈 諸学の基礎は哲学にあり〉を
標榜した東洋大学にあって、
西洋・印度・中国の「三哲」は、
花形学部でもあったのだけれど……
様々な変容を踏まえて、現在は
「哲学科」「東洋思想学科」に
統合されています
時を経て・・・
千葉県産まれの野球選手
片岡治大が結婚した件が話題だ。
彼の誕生日が奇しくも今日。
話は戻る。
写真は、新潟出身の安吾の命日に
大学の後輩が献盃すべく、地元の
「鶴齡」「越後鶴亀」……と思いきや
長野の「大信州」です。
来月の芝居が、信濃から満州へ、
多くの開拓民が海を渡った。
そんな作品をこさえているので。