「そよ」と言うのは祖母の名前。
さて。箸の持ち方から
お風呂の入り方まで
「人間」として生きる基礎の
殆どを僕は婆ちゃんから教わった。
その中で印象的だったのが
「魚の目」の治し方。
生米(なまごめ)三粒を用意。
それを一粒ずつ使って
局所を撫でる。
「この魚の目を治してください」
と唱えながら。
それを三回繰り返す。
終わったらシンクに流す。
で、その生米が腐る頃に完治する。
ちなみにこの事は
誰にも言ってはならない。
この「おまじない」のことを
物心ついてのち多数の人に話した。
が。「なんじゃそりゃ」とか
「初めて聞いた、そんなの」
という反応ばかりだった。
でも、本当に取れるのだ。
右親指の関節あたり、
足の裏など僕は三度試みて
成功率十割だ。
安全剃刀で削いでも削いでも
やがて元の大きさになるそれが、
この「おまじない」だと、
ある日、ぽろりと取れて
完治するのだ。
大人になった今思うのは、
まず「米が腐るまで」という
何とも曖昧な期間が味噌だ。
内緒ってのも、
ぴりりと効いている。
話が前後するが、
病んだそれをいじくることが、
きっと良くないのだ。
根が残ってしまうから、
削いでもまた生える。
医学的知識ゼロで
無手勝にいえば
もともと「魚の目」は、
触らなければ、
ある時間の経過後
自然治癒する病なのでは
ないだろうか。
ただ人はついつい、
いじってしまう。
それを制する為の
「おまじない」が
冒頭の《儀式》となる(^^)v
内緒イコール人に言わない。
ほぐして言えば。本人がまず
「こんなとこに魚の目できて~」
と広めないから
他者も気に止めない。
加えて「治る」という意識の
あるなしも肝要なのだ。
前段の触らない
プラス治すって意志。
この融合を、祖母のまじないは
包括していたのだろう。
てなわけで。最近、
まじないなしで放っておいたら
右腕のが、取れた。
さて。箸の持ち方から
お風呂の入り方まで
「人間」として生きる基礎の
殆どを僕は婆ちゃんから教わった。
その中で印象的だったのが
「魚の目」の治し方。
生米(なまごめ)三粒を用意。
それを一粒ずつ使って
局所を撫でる。
「この魚の目を治してください」
と唱えながら。
それを三回繰り返す。
終わったらシンクに流す。
で、その生米が腐る頃に完治する。
ちなみにこの事は
誰にも言ってはならない。
この「おまじない」のことを
物心ついてのち多数の人に話した。
が。「なんじゃそりゃ」とか
「初めて聞いた、そんなの」
という反応ばかりだった。
でも、本当に取れるのだ。
右親指の関節あたり、
足の裏など僕は三度試みて
成功率十割だ。
安全剃刀で削いでも削いでも
やがて元の大きさになるそれが、
この「おまじない」だと、
ある日、ぽろりと取れて
完治するのだ。
大人になった今思うのは、
まず「米が腐るまで」という
何とも曖昧な期間が味噌だ。
内緒ってのも、
ぴりりと効いている。
話が前後するが、
病んだそれをいじくることが、
きっと良くないのだ。
根が残ってしまうから、
削いでもまた生える。
医学的知識ゼロで
無手勝にいえば
もともと「魚の目」は、
触らなければ、
ある時間の経過後
自然治癒する病なのでは
ないだろうか。
ただ人はついつい、
いじってしまう。
それを制する為の
「おまじない」が
冒頭の《儀式》となる(^^)v
内緒イコール人に言わない。
ほぐして言えば。本人がまず
「こんなとこに魚の目できて~」
と広めないから
他者も気に止めない。
加えて「治る」という意識の
あるなしも肝要なのだ。
前段の触らない
プラス治すって意志。
この融合を、祖母のまじないは
包括していたのだろう。
てなわけで。最近、
まじないなしで放っておいたら
右腕のが、取れた。
魚の目を爪切りで切り取ってました。
時折出血するほど切ってしまい
しかし大した消毒もせず…。
不衛生この上ない行為だったと思います。
ちなみに魚の目はそれでキレイに治りました。
それでも今はそんなこと出来ないなあ。
もっと広く知られて良いと思うのだが……。
そして、このような教えが今後はネットで受け継がれていくのか、、、
パピルスの時代、活版印刷の登場、、、
はて、魚の目はいつの時代からあり、このまじないは、やはり米文化のアジアにあるのかしらん?
はたまた日本だけなのか、、、