麒麟琳記〜敏腕Pの日々のつぶやき改題

還暦手前の身の回りのこまごま。
スポーツや映画演劇など。

偲・藤井貴里彦

2024年01月17日 | 

「演劇鑑賞会」は全国連絡会への

加盟非加盟団体を含め41都道府県にある。

現在は、秋田・栃木・茨城・福井・

大阪・沖縄にないのだけれど、

秋田栃木大阪にはかつて存在していた。

おもに新劇と呼ばれる劇団との縁が深い。

以上、前段。

 

2018年11月、宮崎県都城の「演鑑」の

事務局長と初めて話す機会があって、

話の端緒として「藤井貴里彦さんの戯曲を

二本上演しています」と頭を下げた。

「ああ、貴里ちゃんね、知ってる知ってる。

確か二年くらい前に亡くなったんだよ」

 

「えっ」。

言葉に詰まった。



 

帰京してから色々調べて、

亡くなられたのは確かに2016年、

1月17日とわかった。

 

[ふじいきりひこ]

劇作家・童話作家であり藍染職人。

僕との関係から並べたが、

藍染童話戯曲の順が正しいのかな。

 

彼の戯曲『浄瑠璃の庭』(2004年)、

『空ゆく風のこいのぼり』(2008年)。

ともに劇団東演公演。

会場は前者が東演パラータ、

後者は紀伊國屋ホールだった。

演出はどちらも青年座所属の磯村純。

制作を担当したのが僕だ。

 

そして09年、僕がフリーになったあと、

三本目に向けてやりとりをしていた。

2010年の劇団ゼロQ第2回公演

『フリマの女』(演出/岡田心平)の

脱稿前の本を読ませてもらい、

前述の二本も絡めて、あーだこーだ、

酒を挟んで、新たな貴里彦ワールドを

創り出すべく、船出。

少し時間を置いて具合を聞いたが、

筆は進んでおらず、かたや僕はといえば、

お陰様で小劇場のプロダクションから

次々に仕事が舞い込んで、

自らの屋号「THEATRE-THEATER」

(テアトルシアターと読みます)の創造が

あとまわしになっていた……。

 

・・・僕が死を知って6年。

天への船出からは8年になる。

 

中ほどの写真は、藤井さん自ら染めた

こいのぼり。『空ゆく~』の

チラシには彼の藍染を用いたのだが、

宮崎から送って貰った荷の中に居て、

作者にかわり稽古場で見守ってくれた。

 

デビュー作『百円野菜』はじめ、

今日ブログで紹介した以外にも

あったかな藤井作品が

今後も上演され続けることを!

 

 

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ぎょうざと青空

2023年08月22日 | 

横断歩道で小柄な母が言う。

「昨日揚げ餃子で、今日焼き餃子だと

かぶってアレかな~」と。

ほんの少し考えた五歳くらいの娘が

「大丈夫、大丈夫。好きだから

いっぱい食べるよ。いーっぱい!」

 

すぐ隣で交わされた会話に〈幸福〉を

強く感じた夕刻。

俄雨がやんで、少し涼しく感じつつも

どうしたってまとわりつく湿気を

緩和してくれる親子の交流

 

いまだ止まない戦争や、

おぼつかない政治判断などのマクロを

足元の〈平和〉が救ってくれる。

 

さて、会話の対象は保険業から

慣れないIT企業に転職したばかりの父、

あるいは第二ダブルスのレギュラーを

射止めた卓球部の兄なのか……。

 

勿論聞こえたのは冒頭の短いやりとり。

あとは妄想でしかないけれど。

 

 

信号が変わって、女の子は母より早く、

スキップを数回踏んで立ち止まって、

手をスッと向けた。

母は笑って手を繋いだ。

「大丈夫」という言の葉に足して、

母への優しいエール。

食卓では誰より早く「わ、美味しそっ」

と少し焦げ目の強い餃子に箸を出すのかしら。

 

テーブルの上の当たり前の〈平和〉が

当たり前のままである〈幸福〉。

 

ややセンチになったのは横断歩道の会話の、

数日前に知った訃報が大きい。

とても細やかな気配りと、逞しい精神力と。

何より女優として稀有な才能を持った

劇団ジャブジャブサーキットの

中杉真弓さんの永眠。合掌。

 

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くりきんとん

2023年05月06日 | 

今日は、いちにち風が速かった。

 

今日は、彼女の誕生日でもあり、

今日の風のように一生を早く駆け抜けた彼女と

よく似た一日だったな~と想った。

 

人は、天寿をまっとうした折に一度、

そして誰からも忘れられた時にもう一度、

つまりは二度死ぬのだと謂われるが……。

 

そういう意味で、彼女は生きている。

旅立ちの4月26日以来、

「早逝した女優」を弔うSNSや、

そこに寄せられるコメントに確信する。

 

バースデーイヴ、彼女不在で盃を傾けた。

本当に早すぎて、実感がわかないから

はるばる埼玉の、わりと大きな街まで出向き、

彼女の応援団長ともいえる人生の先輩とサシ飲み。

 

今回に限らず、こういう時には、

静やかに横たわる湖の畔を歩きながら、

湖自身のことじゃなく、風景を語りがちになる。

 

例えば、ついこないだ終幕した芝居の感想や

彼女が所属していた劇団のあれこれ、

外部出演で出会った面々とバーベキューに興じたとか

他愛もない、周辺の話に、あえて明け暮れる。

 

おもいのほか長く呑んだ。

呑んだけれど、まるで時間が足りない。

ほとりを何周もしたのに、肝心の湖のことを

余り語ら……語れずにお開きになったから。

 

 

献盃した街は、やはり四月にさよならした

演劇ライターが住んでいた所でもあったのだ。

 

街でいえば。

彼女が生まれ育った処の名物のひとつ

「栗きんとん」は、我々がよく知るお節料理の、

あまーいあれではなくて、

口内の水分を持っていくタイプの和菓子だ。

 

初めて食べた衝撃は、彼女が劇団研究所の面接に来、

初めて会った衝撃と重なるものだった。

 

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墓参

2022年07月10日 | 

この時節に誤解を招く題名になったが、

同世代同業の、今は亡き仲間の墓参りに行った。

今日は矢部の命日。

現在いる仲間たちは義理堅く毎年花を手向けていたが

私は初めての、久喜ゆき。

 

待ち合わせ時間に指定の場所に向かったが、

前述の向かう駅も知らずに参加した。

こんな場合IC交通カードは便利だ。

まぁ、初乗切符を購入して降車駅で精算すれば

こと足りるとも言えるのだが。

 

 

さて、元首相が凶弾に倒れるという予想だにしない事件。

さまざまなコメントと、少しずつ明らかになる事実。

 

揺るがないのは許されない凶行ということ。

 

 

さる日曜日に『正義の人びと』を観た。

演劇作品で、内容はロシア大公を爆弾で殺害する

同志たちの葛藤や実行犯の半世を描いたカミュの創作で、

ただ、それは1905年のロシアにおける

セルゲイ大公暗殺事件が下敷きにもなった戯曲。

・・・オフィス再生による公演。

 

知人が出演もしていたが、俳優座も2021年1月に上演。

思い入れのある演目でもあったのだ。

 

また、新劇交流プロジェクトという名義で、

新劇団7劇団合同で届けた『美しきものの伝説』は、

社会変革を考える、大正に生きた群像が駆け抜ける

おおむね三時間の芝居。

そこにはテロルも語られていた。

 

 

いうまでもなく、創造者はテロルを否定すべくそれを描く。

・・・そんな中の墓参。

昨日のこと、新型コロナウイルスのこと、

君のいた団体の芸術監督がかわったこと、私や奴やアイツの近況、

暑かったり、戦争が続いていること、などを報告した

・・・今日が、気づけば「昨日」になった命日。

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ささじい逝く。

2022年03月18日 | 

笹山栄一

1931年3月13日、三重県生まれ。

下村正夫らが創設した新演劇研究所に学び、

後継劇団の新演に参加。師・下村と

演出研究所の八田元夫を中心に発足した

東京演劇ゼミナール(1959年)を経て、

62年に劇団東演へと発展した歩みにも共した。

以来、旗揚げメンバーが鬼籍に入るなか、

最後の一人として東演を牽引した俳優である。

 

今年の3月13日、91歳の誕生日を迎え、

その二日後、天寿を全うした。

 

私が、ひょんなことから東演に籍を置いたのが97年。

その時、笹山さんは60歳半ば。

劇団運営には一切かかわらず、役者道を邁進していた。

 

私が多少は制作者らしくなって、企画から予算組、宣伝等々、

まるっとプロデュースを任されるようになって

手掛けた作品たち・・・

『温室の花』(03年、作/今井一隆)

『浄瑠璃の庭』(04年、作/藤井貴里彦)

『大地のカケラ』(06年、作/はせひろいち)*

『空ゆく風のこいのぼり』(08年、作/藤井貴里彦)

 演出/磯村純(無印)、河田園子(*)

・・・そこには欠かさず笹山さんがいた。

 

飄々とした演技はどれも印象的だが

『浄瑠璃~』は特に印象深い。

私が東演を巣立ったあとも「またやりたい」と

言ってもらえた作品の一番手だった。

 

誕生日から間もなくの逝去と書いた。

16日は、今私の居る俳優座のラボ38の初日。

舞台監督は八木澤賢。

彼も元東演で、単身の笹山さんの面倒をみてきた男だ。

彼の仕事の邪魔にならないよう前日に逝ったのは、

「笹じい」の最期のやさしさだったと勝手に思う。

 

素足にサンダルで、自転車を漕いで稽古場へ。

私は2009年に退団したから、

それは随分と昔の風景だったりもする。

食いしん坊だった「笹じい」に下北沢の桜の下、

花見でたらふく食べて、話して、笑って……

ここ数年、開催できなかったのはちょびっとだけ

心残りだったりはする。

 

劇団の拠点「東演パラータ」で、昨日、送る会。

ラボ38を終えてから逢いに行ったので22時過ぎ着。

もちろん会は終わって「寝ずの番」の劇団員のみ。

なんとか挨拶だけはできた。

 

誤解を恐れずに言うと、挨拶は形式的に済ませた。

俳優・笹山栄一は亡くなっていないし、

今後も、すぐ近く……はさすがに勘弁だけれど、

彼の台詞や人物造形よろしく、良い塩梅の距離で

私の近くに居ると、これもまた勝手に思う。

 

昨日、誕生日を祝う話を書いた。

来るひと去るひと。季節のめぐり。

 

やすらかに、笹じい。

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じゅうねん

2021年03月11日 | 

あの日僕は友人の出演する舞台を

妻と一緒に観るため下北沢にいた。

向かう電車では知人と会った。

「夜、東演観るんだけど、せっかくだから

シモキタで買物したり食事も楽しんで」と。

彼女たちは北九州からはるばる。

 

バッチョの出る芝居は開演間際に揺れ、

一度劇場から待避、暫くして再入場。

しかし、また大きく軋んで中止になった。

 

その駅前劇場をあとにして

歩いて数分の本多劇場に移動した。

『ハムレット』のキャスト・スタッフが

呆然と非常口やロビーにいた。

特に、演出のベリャコーヴッチはじめ

地震に慣れていないロシア人達は蒼白。

そんな中。

制作部長は「誰も来なくても幕は開ける」と。

夜に初日を迎える舞台の、

事務所番のバイトを約束していたので、

駅から15分ほどある劇団事務所まで歩いた。

途中。

ゲームセンターとクレープ屋のあるビルの

モニターに信じられない光景を見た。

 

冒頭の知人を含め、昼には下北沢にいた者等、

二十人ほどの観客で『ハムレット』は上演。

事務所の電話は基本鳴らなかったが、

時折繋がったりして、都度対応。

「電車停まったのでキャンセル」

「明日は公演ありますか」

思えばまだ震災の全貌を皆が知らなかった。

 

2011年3月11日。

 

「重」い時間が流れている。

いまだ仮設「住」宅で暮らす人々。

苦「渋」の選択で故郷を離れた人々。

遅々たる政策に「従」わずをえない、

まるで「充」たされない「十」年。

 

事務所番を終えて、妻と徒歩で

数時間かけて帰宅した。

東北はもちろん多くの街が大変だった

あの日・・・

 

2021年3月11日。

祈りの一日、忘れない一日、考える一日。

 

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宇井さん、さようなら

2019年06月10日 | 
「あれ、Tシャツじゃないの?」
宇井さんを、からかったのは
新婦の父・さだまさし氏。

宇井さんは「会う人会う人に
言われちゃったよ~」と
いつものニコニコ顔で言った。

ゴスペラーズの北山陽一氏、
ピアニストの佐田詠夢氏の
結婚披露宴でのエピソード。
だから四年と少し前の話だ。

そうそう。
宇井さんはいつもラフな服装。
若い役者にもラフに付き合い、
けれど、とても厳しくもあった。



J-Theater主宰の小林拓生氏から、
『風に立つライオン』を
舞台化したいと聞き、まず
「著作権取れるの?」と答えた。

敬愛するまっさんの、しかも
名作『~ライオン』である。
やりたいのは言うまでもない…。

そして「宇井孝司」と出会った。
冒頭の逸話からさらに一年以上
時計の針を戻さねばならない。

さだ家と親交のあった宇井さんが
あっけなく上演許可を得てくれ、
自らが構成・演出を務めた公演は、
上品かつ熱量の高い朗読劇に仕上がり、
とても高い評価を得た。
2014年12月、下北沢の「楽園」。



その後も『東京スタンピード』や
音楽朗読劇集『希望』などで
制作としてご一緒させて戴いた。

劇場以外でも、打ち合わせを兼ね、
拓生さんと三人で酒を酌み交わせば、
必ずや「次はあれをやろう!」と
盛り上がったのは決まって安い居酒屋。

その小林氏からのメールは、
宇井さんが前日に倒れ、
予断を許さない、と6月1日に。
我々には祈るほか手がなかった。

【人気アニメ『タッチ』の演出や
『ジャングル大帝』監督・脚本を
手掛けたアニメーション映画監督の
宇井孝司(うい・たかし)さんが、
5日午後3時2分に死去した。57歳。
家族が宇井さんのSNSを通じて発表】
(スポニチアネックスより)

常に紳士的でありながら、
平和について等、譲れないものには
断固引かなかった宇井さんだから、
志半ばで天に召されることに
抗った120時間超だった。

「(前略)兄の言葉を借りると、
人の希望(のぞみ)の美しさを
信じ抜いた、人生だったのではないか
と思います」と、前述のSNSに
遺族が綴った通りの一生・・・。



手塚治虫氏の右腕として活躍し、
前述のほか『葉っぱのフレディ』等、
代表作にアニメ作品が多い宇井さん。
けれども。
実写映画の監督、オペラや音楽劇の演出、
さらには我々演劇人ともタッグを組み、
そして、それらを横断融合した
独自の世界観を創りあげた
稀有な存在だったことを、
私たち知るものは声をあげたい。
もっと、もっと。

8日通夜、9日告別式。
仕事で東京を離れていて、
両日とも不義理をした。

そして今日の東京は涙雨。

式の前の6日に川口の斎場で
お別れ。その日は快晴で、
夕暮れも美しかった・・・。

さようなら、宇井さん。


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やべ

2017年07月12日 | 
今はすっかり少なくなったけれど、
ワルグループには番長も必須だが、
斬込隊長の存在も欠かせなかった。

今は活動を停止しているけれど、
若手制作人会議(仮)は、
会長、委員長、征夷大将軍など
やたら役職の並ぶ任意団体で、
その斬込隊長役が「書記長」の
矢部修治であった。

斬込隊長は敵対する集団に
いの一番に突っ込んでいくが、
矢部も飲み会を開き、会報を作り、
アグレッシブに我々の先頭に居た。

※※※

彼との出会いは1997年。
僕が、いわゆる「小劇場」から
「新劇」に属する劇団に入った年。
彼は昴の制作部所属だった。

が。彼が日芸の学生であり、
まだ「役者」だった頃の舞台を
今はなき吉祥寺のバウスシアターで
偶然僕は観ているのだった……。

私がプロアマ問わずに見てきて、
ベスト5に入り続ける松下美枝という
素晴らしい女優を目当てに行ったから、
矢部のことは眼中になかった。

話の拍子で、その舞台のことか、
或いは松下の名前が出たのか、
そこは今はもう定かではないが、
兎に角接点が見いだされた時に
「新聞記者役だったでしょ」と
こちらから先に言えるくらい
脳味噌の引き出しに留まる
芝居をしていた・・・のだろう。

推量になるくらい、昔の話。

制作人生を歩み始めた昴を辞め、
一度芝居から離れたけれど、
文学座からリスタートして、
世田谷パブリックシアターへ、
この春から移った道筋は、
演劇界においては表街道といえた。

文学座から神奈川芸術劇場を経て、
京都ロームシアターへと転身した
蔭山さんのように……。

昨日訃報を聞いたばかりで、
まだ詳しい経緯がわからぬまま、
哀しいというより悔しいような、
言葉にしづらい感覚で書き殴った。
読み直しもしないでアップする。

たぶん、心落ち着いた頃、例えば
来月五日の矢部の誕生日にでも、
……いや、その日は仲間を集めて
へべれけに酔うことになるか・・・

そうそう。
若手制作人会議(仮)の面々で、
真夏、勿論矢部の仕切りで、
デパートの屋上のビアガーデン。
結婚前の、奥さんのお披露目も。

ありゃ、ほんと楽しかったな~。
な、矢部! じゃあな。

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木山潔逝く。

2013年01月23日 | 
木山さんが亡くなった。
1月20日に。

20日といえば、
演劇製作者の任意団体
「日本新劇製作者協会」の
新年の集まりがあった翌日だ。
それを入院先の病院で
見守ってから逝ったのか。

研究会のテーマは
「演劇は仕事になるか」。

我々演劇製作者の先頭で
まさにその道を切り拓いてきた
プロデューサーの一人であり、
近年は演出家としても
高い評価を得始めていた。

昨年末、演出家K.KIYAMAとして
フランスとドイツへ。
別役実『やって来たゴドー』で
海外公演を成功させたばかり。

渡航前に癌だと解かりながら
覚悟の渡航だったと聞いた。

マスコミ発表は本日夕刻。
関係者に小波のように
訃報が届いたのは少し早い
今日の昼過ぎか……。

   ※  ※  ※

個人的には、僕とかみさんの
仲人のようなものだ。
前回のブログで、僕が
キューピッド役に結果なった
披露宴の話を書いたけれど、
演劇界の雲の上の存在の
氏と初めて言葉を交わしたのは
「うちの橋本を何とかしてくれ」
という内容だった。

当時妻は彼のカンパニーである
木山事務所の女優で、
僕は劇団東演に入って
まだ二年だったか三年だったか。

   ※  ※  ※

人は哀しいとき食べ物が
喉を通らないというけれど、
巨星墜つ、の報を聞いて以来
今日二人して食べてばかりいる。

昼に雑煮を食べたのに、
かみさんは突然、
残り飯で炒飯を作り出し
それを二人で食べ、
珈琲用の牛乳を買いに出た筈の
かみさんは何故か天丼まで
買ってきて、それをまた食べた。

食べても食べても
お腹がすいて堪らないよ、
木山さん。
哀しみをこらえるのに
力を使っているのかなぁ……。
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