プサンのふるさとを歩きました
今朝も雨。予報どおり(?)昼には雨もあがりましたがまわりの山には雲がかかり、上空の雲も厚いままです。
予報では明日から晴続きです。雨で遅れた分を一気に取り返すために頑張るのだぁ! と張り切りすぎると息が切れるので粛々と観察を続けるつもりです。
今日はプサンのふるさとを歩きました。手元に資料がないので詳しく書くこともできませんし、画像を処理する時間もありません。そのため今日のタカ長の行動を紹介するだけにします。
今日はトンネの邑城(ウプソン)を歩くつもりでモーテルを出ました。ネットの情報によるとそのためにはトンネ郷校に行く必要があります。ネットではそこから歩き始めるように紹介されていたからです。
現地について案内の看板を見た相棒が、ネットに紹介されたルートとははずれた「トンネ府東軒」に行きたいと言い出したので、まずは彼の希望のところへ行くつもりで歩き始めました。
しかし、町の中にあるひとつの建物を探すのは言葉の分からない外国人には容易ではありません。思い通りのところに見つからないので、近くにあった区役所に行って、そこで案内係りのアガシに教えてもらって、、、、その途中では道を歩いているアジョシ(おじさん)に尋ねて、、、、、、。
彼の言っていることの1%程度しか分からないまま行動したら、、、、何とか見つけることが出来ました。やれやれです。
その写真がうまく出ないので後からやり変えます。
これはその前に行った「宋公壇」の入り口です。
豊臣秀吉が攻めてきたときに最初に犠牲になった武将の墓だと相棒が言っていました。
中にはこのような墓石が建っていました。これが日本の石墓の原点になる物だそうです。
その二つを見るために歩き回り、時間を取ったのでその時点で昼食になりました。
チョッとこぎれいな店に入ると、、、、、チャンポンがウリの店だったようです。うえの赤い暖簾のようなものに描かれているのは「チャンポン」と言う字です。
このようなところを歩き回る日本人はほとんどいないのでしょう。店のアガシが珍しそうに対応してくれました。中の男の子が「いらっしゃいませ」と言ったので「オソオセヨ」と反応するととても喜んでいました。
これがそのチャンポンです。韓国ですからご覧のような色です。辛くしないでくれとも言わなかったので、手加減ナシの韓国の味だったはずです。
辛かったですが美味しかったです。近くにあればもい一度行ってみたいくらいですが、、、、もう一度行く機会はないでしょう。
そのあと郷校にもどり、そこから邑城の城壁沿いに歩きました。
城壁の残っていた部分は少なかったのでしょう。上にあららしい石で積み上げられていました。
そのあと「福泉博物館」を足早に見て帰りました。
そのあたりの福泉洞は古墳が多くあるところで、その発掘調査の結果を展示するところとして建てられた博物館です。なかなか立派な博物館で、時間をかけて見学したいところです。
しかし、明日からは本業が待っているので早めに帰りました。
帰りの道すがら古墳公園を見上げることが出来ます。あの上が公園になっていて、もちろん博物館から直接行けるようになっています。
とりとめのないことを書きましたが、今日歩いたのはトンネの邑城の城壁の一部とその中の町です。そのあたり一帯がプサンのふるさととも言えるところで、いまタカ長が滞在しているところはいわば新しいプサンなのです。
肝心の城壁は秀吉によって壊され、そのとき残されたものは日帝時代に日本によって、区画整理の名目で取り払われ、、、、、歴史のある町としては、例えば日本の奈良・京都のようなそれらしい建物はほとんどありませんでした。
それでもこのあたりがもともとのプサンの中心で、日本にも関係が深い朝鮮通信使もここのトンネ府から出発していました。
その意味ではもっと多くの日本人が訪れても良いのですが、、、、ほとんど行く人がいないのでしょうね。区役所の係りのアガシも食堂のアガシも、日本人と話しをするのがとてもめずらしがっているのが良く分かりました。
雨のお陰でこの3日間、タカ長の知らないプサンを見ることが出来ました。
時間があるときに改めて整理してみたいですね。今は無理です。明日から本気で観察ですから、、、、、。
今朝も雨。予報どおり(?)昼には雨もあがりましたがまわりの山には雲がかかり、上空の雲も厚いままです。
予報では明日から晴続きです。雨で遅れた分を一気に取り返すために頑張るのだぁ! と張り切りすぎると息が切れるので粛々と観察を続けるつもりです。
今日はプサンのふるさとを歩きました。手元に資料がないので詳しく書くこともできませんし、画像を処理する時間もありません。そのため今日のタカ長の行動を紹介するだけにします。
今日はトンネの邑城(ウプソン)を歩くつもりでモーテルを出ました。ネットの情報によるとそのためにはトンネ郷校に行く必要があります。ネットではそこから歩き始めるように紹介されていたからです。
現地について案内の看板を見た相棒が、ネットに紹介されたルートとははずれた「トンネ府東軒」に行きたいと言い出したので、まずは彼の希望のところへ行くつもりで歩き始めました。
しかし、町の中にあるひとつの建物を探すのは言葉の分からない外国人には容易ではありません。思い通りのところに見つからないので、近くにあった区役所に行って、そこで案内係りのアガシに教えてもらって、、、、その途中では道を歩いているアジョシ(おじさん)に尋ねて、、、、、、。
彼の言っていることの1%程度しか分からないまま行動したら、、、、何とか見つけることが出来ました。やれやれです。
その写真がうまく出ないので後からやり変えます。
これはその前に行った「宋公壇」の入り口です。
豊臣秀吉が攻めてきたときに最初に犠牲になった武将の墓だと相棒が言っていました。
中にはこのような墓石が建っていました。これが日本の石墓の原点になる物だそうです。
その二つを見るために歩き回り、時間を取ったのでその時点で昼食になりました。
チョッとこぎれいな店に入ると、、、、、チャンポンがウリの店だったようです。うえの赤い暖簾のようなものに描かれているのは「チャンポン」と言う字です。
このようなところを歩き回る日本人はほとんどいないのでしょう。店のアガシが珍しそうに対応してくれました。中の男の子が「いらっしゃいませ」と言ったので「オソオセヨ」と反応するととても喜んでいました。
これがそのチャンポンです。韓国ですからご覧のような色です。辛くしないでくれとも言わなかったので、手加減ナシの韓国の味だったはずです。
辛かったですが美味しかったです。近くにあればもい一度行ってみたいくらいですが、、、、もう一度行く機会はないでしょう。
そのあと郷校にもどり、そこから邑城の城壁沿いに歩きました。
城壁の残っていた部分は少なかったのでしょう。上にあららしい石で積み上げられていました。
そのあと「福泉博物館」を足早に見て帰りました。
そのあたりの福泉洞は古墳が多くあるところで、その発掘調査の結果を展示するところとして建てられた博物館です。なかなか立派な博物館で、時間をかけて見学したいところです。
しかし、明日からは本業が待っているので早めに帰りました。
帰りの道すがら古墳公園を見上げることが出来ます。あの上が公園になっていて、もちろん博物館から直接行けるようになっています。
とりとめのないことを書きましたが、今日歩いたのはトンネの邑城の城壁の一部とその中の町です。そのあたり一帯がプサンのふるさととも言えるところで、いまタカ長が滞在しているところはいわば新しいプサンなのです。
肝心の城壁は秀吉によって壊され、そのとき残されたものは日帝時代に日本によって、区画整理の名目で取り払われ、、、、、歴史のある町としては、例えば日本の奈良・京都のようなそれらしい建物はほとんどありませんでした。
それでもこのあたりがもともとのプサンの中心で、日本にも関係が深い朝鮮通信使もここのトンネ府から出発していました。
その意味ではもっと多くの日本人が訪れても良いのですが、、、、ほとんど行く人がいないのでしょうね。区役所の係りのアガシも食堂のアガシも、日本人と話しをするのがとてもめずらしがっているのが良く分かりました。
雨のお陰でこの3日間、タカ長の知らないプサンを見ることが出来ました。
時間があるときに改めて整理してみたいですね。今は無理です。明日から本気で観察ですから、、、、、。