歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・平城京跡 出土した複弁蓮華文軒丸瓦が安芸国分寺と同笵と確認

2010年10月14日 | Weblog
 平城京跡で、安芸国の国分寺(東広島市)と同じ笵型で造られた軒丸瓦が市埋蔵文化財調査センターの調査で見つかった。
 瓦は複弁八葉蓮華文軒丸瓦(直径約16cm)で、同型の瓦は平城宮跡や寺院からは見つかっておらず、平城京専用の瓦として役所の倉庫などに葺いたとみられる。木製の笵型を地方の国分寺建立に回したとみられている。
 瓦に残る笵傷は安芸国分寺の方が多く、平城京から国分寺建立に回したとみられる。
 天平13年(741)に国分寺建立の詔(みことのり)が出されてから、安芸国分寺は15年ほどで伽藍が整ったとみられている。
 出土した軒丸瓦は11月1日から市埋蔵文化財調査センターで始まる秋季特別展「平城の甍(いらか)」で展示される。
[参考:奈良新聞、読売新聞、産経新聞]
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佐賀市・白石原遺跡 弥生中期の竪穴住居跡と中世の屋敷跡を確認、17日に一般公開

2010年10月14日 | Weblog
 佐賀市久保泉町下和泉にある白石原(しろいしばる)遺跡で、弥生時代から古墳時代にかけての大集落の跡や中世の屋敷跡などが確認された。
 弥生時代中期の直径7・5mと4・5mの竪穴住居が2カ所、そして土器が捨てられた穴も見つかり、周辺に集落が形成されていた可能性がある。
 中世の屋敷地の遺構は縦100m、横50m以上の規模で、屋敷地を区画する溝が50m以上延びていることを確認した。 同時期の建物や井戸、畑なども見つかっている。
 遺跡は久保泉第2工業団地の建設予定地にあり、市教委の2008年度の調査(2010年までの3カ年計画)で、弥生時代以降に竪穴住居などの集落が形成されていたと考えられていた。約80軒の竪穴式住居跡と約150棟の掘っ立て柱建物跡が確認されている。2009年度には弥生時代後期後半(2世紀後半)の壺型の土器による甕棺が出土し、中から鏡の破片が見つかっている。
 一般公開は17日(日)午前9時半から正午まで行われる。
[参考:佐賀新聞、サガテレビ]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.27 白石原遺跡 弥生時代後期の甕棺から鏡片が出土
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富山市・小竹貝塚 縄文時代前期の人骨が新たに11体出土し、計71体に

2010年10月14日 | Weblog
 富山県文化振興財団が14日、富山市呉羽町北の小竹貝塚で、縄文時代前期(約6000~5500年前)の埋葬人骨が新たに11体見つかったと発表した。同貝塚で出土した人骨は計71体となり、縄文時代前期の人骨が見つかった例としては国内最多という。
 新たに見つかった人骨は、貝層の東寄り約400㎡の墓域から出土。多くは成人骨だが、子供とみられる小さな人骨も2体確認された。乳児を埋葬した棺とみられる土器4基も見つかり、国立科学博物館(東京)で詳しく分析する。
 地中に貝が堆積した「貝層」が厚さ2mに達しており、大規模な貝塚が縄文時代前期に形作られていたとみられる。
このほか、漁に使われた丸木舟や、作りかけの3本足の木の器、網やカゴを結んだとみられる縄なども見つかった。
[参考:共同通信、時事通信、NHKニュース]

その後のニュース・情報
2011.7.8 身長170cmを超える縄文人
 県文化振興財団と国立科学博物館(東京)が7月7日、小竹貝塚で、縄文時代としては過去最大級の身長170cm超と推測される男性人骨(上腕骨)が見つかったと発表した。これまでの発見では、縄文人男性の平均身長は150cm~160cm。
 昨年見つかった縄文時代前期(約6000~5500年前)の人骨群の一つの男性人骨で、状態などから20歳代とみられる。1998年に若海貝塚(茨城県行方市)で推定身長170cmの縄文時代中期の人骨が見つかった例があるが、これを超える可能性もあるという。
[参考:富山新聞、北國新聞、読売新聞、中日新聞、KNB北日本放送]

2011.10.5 身長160cmを超える1体を展示
 富山県文化振興財団は、今年7月に人骨から土を取り除く作業を開始し、作業が終わった4日、2体の全身骨を報道陣に公開した。
 いずれも20歳代男性と推定され、うち1体は身長160cm台後半で、もう一体は140cm台後半。
 公開された人骨のうち大柄の1体は、5日~12月1日まで富山市茶屋町の県埋蔵文化財センターでの特別展「とやまの貝塚」で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.1 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨 合計約60体に
 2010.8.6 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨28体が新たに出土し、合計41体に
 2010.6.7 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨13体が出土

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高知市・神田ムク入道遺跡 水路の溝や建物跡から赤彩土師器が見つかる

2010年10月14日 | Weblog
 高知市教委は13日、神田ムク入道遺跡(同市神田)で、奈良時代~平安初期(8~9世紀)の溝跡や建物跡から赤彩(せきさい)土師器が出土したと発表した。
 東西、南北に平行に伸びた幅が1mから35cm、深さが25cm前後の溝が数本見つかった。周辺から出土した土器の破片などから、奈良時代から平安時代初期に当時の中央政権がすすめた土地開発で耕した土地を区画する水路として掘られたものと見られている。
 ほかに、多数の柱穴が見つかり、さらに、赤彩土師器の破片が数点出土した。 赤彩土師器は当時の都の土器を真似たとみられ、白地の土器に顔料を塗っていた。
 続日本紀(注1)には、768年に土佐郡の「神依田」に住んでいた41人に、大和の豪族・賀茂氏の姓を賜ったとあり、神依田が現在の神田地区と考えられている。当時の都との繋がりがうかがえる土器が出土したことから、賀茂氏など中央の豪族と関係がある有力者が一帯にいた可能性が強まったという。
 また、鎌倉時代の建物跡からは、中国の12~13世紀の高級磁器の破片なども出土し、中世も続いて有力者がいたとみられる。
 現地説明会は16日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞、NHKニュース]

(注1) 続日本紀 神護景雲2年(768)11月18日 土左國土左郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂。

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大阪市・前期難波宮跡 「難波長柄豊碕宮」に使用したとみられる土壁破片が大量に出土

2010年10月14日 | Weblog
 大阪市博物館協会・大阪文化財研究所が13日、大阪城南側の旧府立青少年会館の跡地(中央区森ノ宮2丁目)を発掘調査して、国史跡「難波宮跡」近く前期難波宮跡(7世紀後半)の深さ6mの谷跡から、「大化の改新」(645年)後に孝徳天皇が築いた「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」の宮殿に使われたとみられる土壁の破片が大量に見つかったと発表した。土壁の一部は表面が白く塗られ、宮殿が白壁だったことが判明。高熱で焼けた痕跡もあり、686年に宮殿が焼失したという日本書紀の記述を裏付けた。宮殿跡で白壁が出土したのは全国初という。飛鳥時代の宮殿が大陸式の本格的な建築だったことを裏付ける画期的な資料としている。
 土壁の破片は最大20~30cmで、数cm大のものも含めると千点以上が出土。壁は厚さ40~50cmと推定され、建物は強固な構造だったとみられる。土壁のうち数十点は、漆喰か白土で白く塗られていた。天皇が国家的儀式などを行った「内裏前殿」など中心施設に用いられた可能性が高いという。
 土壁は炎で赤く変色している部分があり、686年の火災で土器のように焼き固まったため、残ったらしい。
 他に宮殿の石敷き舗装用とみられる平らな面のある長方形の榛原石(はいばらいし)なども含まれていた。
 難波長柄豊碕宮は652年に完成。686年に焼失したが、奈良時代の744年、同じ場所に聖武天皇が首都「難波宮」として再建した。
 現地説明会は16日(土)午前10時から開かれる。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

(備考)
日本書紀より (訓み下し文参照 坂本光太郎ほか校注 岩波文庫1995)
■孝謙天皇白雉2年(651) 冬12月 天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮と曰う。
■孝謙天皇白雉3年(652) 春正月(略)に、元日礼訖りて、車駕、大郡宮に幸す。
■天武天皇朱鳥元年(686) 春正月乙卯(14日)の鳥の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焼けぬ。或いは曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引りて宮室に及べり」といふ。 唯し兵庫職のみは焚けず。
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福岡市・岸田遺跡 弥生時代中期の墓60基、中から青銅や鉄製の剣、矛、戈が出土

2010年10月14日 | Weblog
 福岡市教委は13日、同市早良区の岸田遺跡で、弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ~前1世紀ごろ)の墓約60基を発見し、そのうち5基から青銅製や鉄製の剣や矛、戈や柄(つか)の飾り1点が出土したと発表した。
 紀元前2世紀ごろの木棺1基と、前1世紀ごろの甕棺4基に、青銅製の剣4本、矛2本、鉄製の戈1本、勾玉や管玉など約10点が見つかった。甕棺のひとつには剣と矛と一緒に、青銅製の把頭飾(はとうしょく、剣の柄の飾り)も納められ、青銅の把頭飾としては国内最古とみられる。
 早良平野周辺では吉武高木遺跡を頂点とするまとまりがあったと考えられている。岸田遺跡は吉武高木遺跡の南約3.5km、室見川左岸に立地し、広範囲に平野を見渡す位置にあり、春日方面や佐賀方面との交通の要衝とみられる。
 16日から31日まで、市埋蔵文化財センター(博多区)で出土品を展示する。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

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