島根県埋蔵文化財調査センターが20日、津和野町直地の野広遺跡で室町時代後期(15世紀)の掘っ立て柱建物跡計18棟が見つかったと発表した。
野広遺跡は津和野川中流の河岸段丘上にあり、東西を標高300m以上の山地に挟まれた谷間に位置し、遺跡の標高は約100m。調査面積は約4,500㎡で、調査は5月から実施している。
柱穴は全部で約500か所見つかり、このうち推定復元できた掘っ立て柱建物は、計18棟。 遺跡内からは、当時の有力豪族が使用したとみられる中国製の青磁や白磁、大皿、茶器のかけら、防長型と呼ばれる土鍋が出土し、掘立柱建物跡の時期は15世紀ごろと推定される。
同センターによると、同町周辺は、鎌倉時代に津和野城(三本松城)を拠点地とした吉見氏が治めていた場所。一帯には古くから「屋敷」「竹土井」「ケズ(下司)」などの地名が残っており、有力な荘園があったと考えられてきた。それらを裏付ける発見という。
ほかに、約6000年前の縄文土器、15~16世紀頃の石製の丸鞆(まるとも)などもあった。
また、石が積み重なった集石遺構が2基確認され、そのうちの一基の石積みの下から円形の穴(直径1・3m、深さ0・5m)があったことから、墓であったと可能性が高い。
現地説明会は23日(土)午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、島根県HP]
メモ
吉見氏: 源頼朝の弟範頼の後裔と伝えられる。範頼は横見郡吉見郷を領していた。範頼の孫為頼が吉見氏を称したという。
写真は、岩殿山息障院光明寺(伝源範頼館跡)・・・埼玉県比企郡吉見町大字御所
野広遺跡は津和野川中流の河岸段丘上にあり、東西を標高300m以上の山地に挟まれた谷間に位置し、遺跡の標高は約100m。調査面積は約4,500㎡で、調査は5月から実施している。
柱穴は全部で約500か所見つかり、このうち推定復元できた掘っ立て柱建物は、計18棟。 遺跡内からは、当時の有力豪族が使用したとみられる中国製の青磁や白磁、大皿、茶器のかけら、防長型と呼ばれる土鍋が出土し、掘立柱建物跡の時期は15世紀ごろと推定される。
同センターによると、同町周辺は、鎌倉時代に津和野城(三本松城)を拠点地とした吉見氏が治めていた場所。一帯には古くから「屋敷」「竹土井」「ケズ(下司)」などの地名が残っており、有力な荘園があったと考えられてきた。それらを裏付ける発見という。
ほかに、約6000年前の縄文土器、15~16世紀頃の石製の丸鞆(まるとも)などもあった。
また、石が積み重なった集石遺構が2基確認され、そのうちの一基の石積みの下から円形の穴(直径1・3m、深さ0・5m)があったことから、墓であったと可能性が高い。
現地説明会は23日(土)午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、島根県HP]
メモ
吉見氏: 源頼朝の弟範頼の後裔と伝えられる。範頼は横見郡吉見郷を領していた。範頼の孫為頼が吉見氏を称したという。
写真は、岩殿山息障院光明寺(伝源範頼館跡)・・・埼玉県比企郡吉見町大字御所