歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

古今和歌集の完全写本(鎌倉初期)が見つかる

2010年10月20日 | Weblog
 甲南女子大(神戸市東灘区)は20日、所蔵する古今和歌集の写本(上下2冊)を鑑定した結果、鎌倉時代初期のものであることが分かったと発表した。一首も欠けずページなどの破損もない「完本」で、和歌の説明などを記した序文が平仮名「仮名序」と漢字「真名序」の両方で書かれているものでは最古という。
 表記の形式から新古今和歌集を編纂した藤原定家が書き写した本をさらに転写したものとみられる。
 大学が1982年、東京都千代田区の古書店で購入したもの。
[参考:時事通信、共同通信]

古今和歌集、完全写本見つかる=漢字、仮名序文付きで最古-甲南女子大(時事通信) - goo ニュース
鎌倉初期の古今和歌集写本と判明 甲南女子大が所蔵品鑑定(共同通信) - goo ニュース
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南原市・月山里古墳 伽耶系古墳で初めての中国製青磁をはじめとする大量遺物が出土

2010年10月20日 | Weblog
 全北文化財研究院(院は20日、南原市阿英面(아영면)月山里古墳(월산리 고분)で、伽耶系古墳では初めての中国製青磁など多量の遺物が出土したと発表した。
 月山里古墳群は計9基の古墳があり、そのうち3基は1982年度に調査され、象嵌環頭大刀、器台、天鶏壺、馬具類などが出土した。
 今回の調査で5号墳は、円形の土の墓(長さ16m、高さ3.5m)で埋葬主体部は竪穴式石槨墓(長さ9.6m、幅1.2m、高さ1.9m)である。遺物は石槨北端と南端から主に出土して、北端から青磁天鶏壺が出土した。青磁天鶏壺のそばには鉄製鐎斗(철제자루 솥)と金製耳飾、瑠璃勾玉、瑠璃玉、甲(鎧)、足座、蛇行状鉄器(기꽂이)、筒形器台、台付壺、有蓋短頸壺など多様な遺物が出土した。
 出土した中国製青磁天鷄壺は広口瓶の形状で、一方には鶏首が反対側には口縁から胴体まで連結されたリング状把手が付着している。天鶏壺は中国東晋(317-420)から南朝(439~589)に製作された青磁で、百済・漢城時代に東晋との交流を通じて百済から輸入した遺物で、湖南地域では益山笠店里と高敞 鳳徳里、扶安 竹幕洞で出土しているが、伽耶地域では出土した例がなかった。
[参考:聨合ニュース]

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慶州・花川里 青銅器時代~高麗・朝鮮時代の遺構と新羅時代の窯跡を発見

2010年10月20日 | Weblog
 嶺南文化財研究院は20日、陽性子加速器開発事業予定地の慶州花川里で青銅器時代、初期鉄器時代、初期三国時代、統一新羅時代、高麗・朝鮮時代の遺構を確認したと発表した。
 このうち、花川里遺跡(화천리 유적)稜線南斜面部で調査された9基に達する三国時代窯の焼き跡では燃焼室と焼成室の間に20cm弱の遮断壁が確認された。このような構造は三国時代末期から統一新羅時代初期に現れる瓦専用窯の典型的な特徴という。
 これらの窯から出土した平瓦は、長さ55㎝、厚さ4㎝、重さ15㎏に達する超大型であることが明らかになった。これまで、慶州市内では新羅~統一新羅時代遺跡のうち、王城の月城とその周辺の雁鴨池から出土した瓦(長さ41㎝)が最大であった。
 南漢山城内の統一新羅建物跡から収集した平瓦(長さ64㎝、重さ20㎏)と中国・西安で発掘された漢時代の瓦(長さ57㎝)に次ぐ大きさである。
 また、窯跡周辺から出土した軒丸瓦は大部分が古新羅時代の蓮華文軒丸瓦の特徴を見せ、蓮の花びらは高浮彫(고부조)で表現している。 634年に創建された慶州芬皇寺出土品と似ていると調査団は話している。
[参考:聨合ニュース]

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忠州市・塔坪里遺跡 新羅時代地層から大型建物跡、百済時代地層から「呂」字形竪穴住居跡を確認

2010年10月20日 | Weblog
 国立中原文化財研究所は20日、忠北忠州市可金面塔坪里遺跡(충주 탑평리유적)の試掘調査の結果、中原塔坪里七層石塔から北北西に約800m離れた地点から、総長さ110mに達する巨大な新羅時代建物跡を見つけたと発表した。
 新羅が全国地方組織・九州五小京を整備して、今の忠北忠州に「小さい都」を設置したという国原小京、すなわち、後の中原京に変わる古代都市がついに実体を表わし始めた可能性がある。
 「第1建物跡」と命名した建築物は、南漢江辺に沿って長く形成された洪積台地のような場所に、南東-北西を長軸とした回廊状の建物として現れた。幅5.3m、長さ最大110m以上に達するこの建物跡の東側では同じ新羅時代建物3棟が一定の方向性を維持して配置されている。さらに、新羅時代の地層では工房施設とみられる焼土遺構が鉄滓、木炭などと共に確認され、製鉄関連の小規模生産活動があったとみられるとしている。 また、これら建物跡周辺では数多くの新羅時代瓦が発見された。
 さらに、新羅時代の地層の下からは4~5世紀頃百済時代の竪穴住居跡9棟と関連の竪穴遺構が確認された。 住居跡から、かまどと溝の設備を整えた平面「呂」字形大型建物跡も発見された。
 これらから、新羅が進出する以前に、大規模百済集落施設があった事実を確認したことは大きな成果であるとする。
[参考:聨合ニュース]

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