奈良市の西大寺旧境内で昨年見つかった薬師金堂の大きさが文献の記録と一致、東西35.7m、南北15.9mの巨大な建物だったことが奈良文化財研究所の調査で分かった。薬師寺(奈良市)の金堂(東西30m、南北18m)の規模に匹敵する。
南都七大寺の一つである、奈良市の西大寺旧境内で、8世紀後半の創建当初の中心建物、薬師金堂跡が初めて確認されたのは、昨年5月であった。
7基の柱穴が出土。建物本体の南北が確認できたほか、北側ではひさしの柱穴も見つかった。
礎石を据え付けた穴4基のうち2基は、礎石の下に凝灰岩の板石(二上山産)を2枚ずつ敷く類例のない基礎工事をしていた。
奈良文化財研究所は、「7世紀の百済で礎石の下に切り石を据えた例があり、影響を受けたのかもしれない」と推測。
薬師金堂は同寺の中心的な建物で、奈良時代780年に書かれた財産目録「西大寺資財流記(るき)帳」に「長十一丈九尺」「広五丈三尺」とある。
当時の小尺(唐尺)29.63cmで計算すると、冒頭数値とほぼ合致する。
西大寺は称徳天皇の発願で765年に造営。薬師如来像が安置された薬師金堂、弥勒金堂、東西塔などがあった。平安時代以降、火災などで衰えたが、鎌倉時代に復興された。
[参考:奈良新聞、読売新聞(2007.5.3)]
南都七大寺の一つである、奈良市の西大寺旧境内で、8世紀後半の創建当初の中心建物、薬師金堂跡が初めて確認されたのは、昨年5月であった。
7基の柱穴が出土。建物本体の南北が確認できたほか、北側ではひさしの柱穴も見つかった。
礎石を据え付けた穴4基のうち2基は、礎石の下に凝灰岩の板石(二上山産)を2枚ずつ敷く類例のない基礎工事をしていた。
奈良文化財研究所は、「7世紀の百済で礎石の下に切り石を据えた例があり、影響を受けたのかもしれない」と推測。
薬師金堂は同寺の中心的な建物で、奈良時代780年に書かれた財産目録「西大寺資財流記(るき)帳」に「長十一丈九尺」「広五丈三尺」とある。
当時の小尺(唐尺)29.63cmで計算すると、冒頭数値とほぼ合致する。
西大寺は称徳天皇の発願で765年に造営。薬師如来像が安置された薬師金堂、弥勒金堂、東西塔などがあった。平安時代以降、火災などで衰えたが、鎌倉時代に復興された。
[参考:奈良新聞、読売新聞(2007.5.3)]