歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市西大寺は巨大伽藍 -薬師金堂・文献と規模一致

2008年06月21日 | Weblog
 奈良市の西大寺旧境内で昨年見つかった薬師金堂の大きさが文献の記録と一致、東西35.7m、南北15.9mの巨大な建物だったことが奈良文化財研究所の調査で分かった。薬師寺(奈良市)の金堂(東西30m、南北18m)の規模に匹敵する。

 南都七大寺の一つである、奈良市の西大寺旧境内で、8世紀後半の創建当初の中心建物、薬師金堂跡が初めて確認されたのは、昨年5月であった。
7基の柱穴が出土。建物本体の南北が確認できたほか、北側ではひさしの柱穴も見つかった。
礎石を据え付けた穴4基のうち2基は、礎石の下に凝灰岩の板石(二上山産)を2枚ずつ敷く類例のない基礎工事をしていた。
奈良文化財研究所は、「7世紀の百済で礎石の下に切り石を据えた例があり、影響を受けたのかもしれない」と推測。
 薬師金堂は同寺の中心的な建物で、奈良時代780年に書かれた財産目録「西大寺資財流記(るき)帳」に「長十一丈九尺」「広五丈三尺」とある。
当時の小尺(唐尺)29.63cmで計算すると、冒頭数値とほぼ合致する。
 西大寺は称徳天皇の発願で765年に造営。薬師如来像が安置された薬師金堂、弥勒金堂、東西塔などがあった。平安時代以降、火災などで衰えたが、鎌倉時代に復興された。
[参考:奈良新聞、読売新聞(2007.5.3)]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県豊岡市・祢布ヶ森遺跡 全国初めて「詩経」の木簡

2008年06月21日 | Weblog
市教委は20日、豊岡市日高町の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡で、平安時代(9世紀)の木簡約200点が出土し、一部に全国で初めて中国最古の詩集「詩経」の注釈書の一節が書かれた木簡が含まれていたことを発表した。
木簡は203点見つかり、詩経が書かれた木簡は長さ39・5cm、幅10・9cm、厚さ0・7cm。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、注釈書「毛詩正義」のものとほぼ同文だった。下には「健児長」とあり、国府を警備する兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性がある。
(注)健児:、奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
詩経の注釈書は当時「大学寮」の教科書として使われたとされ、地方の役人も都と同様に「詩経」を学んでおり、木簡から但馬の文化水準が高かったことがうかがえる。同遺跡は縄文時代から平安時代の複合遺跡で、これまでの調査で出土した木簡から、延暦23(804)年に移転した「但馬国府」跡とみられる。
 別の木簡には桓武天皇の姪「従三位五百井女王(じゅさんみいおいのじょおう)」の名前が記され、五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年であり、また別の木簡の中には「弘仁四(813)年」の年号を記するものがあり、木簡の時期が特定できた。
 ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは、桓武天皇の皇子で五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)で、漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目される。
 木簡は21日~7月8日、豊岡市日高町の但馬国府・国分寺館で展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、神戸新聞]



キーワード: 祢布ヶ森遺跡、但馬国府
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿市八重垣神社遺跡 沈線紋系の壺型土器が出土

2008年06月20日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館は19日、同市十宮町の八重垣神社遺跡から、2千数百年前の弥生時代前期の壺型土器が見つかり、ほぼ復元できたと発表した。
 最大径13・6cm、高さ15・7cmで、壺の胴の膨らみ部分から底の部分にかけて、へらで彫った矢羽あるいはすだれ状の文様が刻み込まれた沈線紋系の土器で、四日市市尾平町の永井遺跡で見つかった鉢形の土器に次ぐが、ほぼ完全に復元できたものとしては県内初という。
 今回出土した壺は、石川県を分布の中心とする北陸系で、おそらくそちらから持ち込まれたらしい。愛知、岐阜、長野、石川県で10カ所以上の遺跡から出土例がある。弥生時代前期の地域間交流を示す好資料である。
 弥生時代前期は、九州から稲作が伝わってきた時代で、この時期の土器は本格的な水田稲作農耕の担い手が残したものと思われる。
 注)弥生時代でも後期になると、沈線紋系土器は口縁および胴部最大径付近に突起をつけるようになるが、今回の出土品にはなさそうである。
 使用目的は、火にかけた跡はないが煮炊きに使ったと推測している。
 ほかにも古墳時代前期の竪穴住居跡、古墳時代と弥生時代の溝が16条、大量の弥生土器や土師器、須恵器と石鏃、石斧、木製品などが出土している。
 また、弥生時代前期・後期そして古墳時代後期の溝,弥生時代後期の方形周溝墓・土器棺墓などが検出されています。
発掘調査は、今年2月から始め7月中旬ごろに終わる予定。
 県内の弥生時代前期の大規模な遺跡は、鈴鹿市・上箕田遺跡、津市・納所(のうそ)遺跡、明和町・金剛坂遺跡がある。
八重垣神社遺跡は、上箕田遺跡などに匹敵する大規模な集落遺跡であることが分かったという。
 28日午前10時から、現地説明会を開く。
[参考:中日新聞、朝日新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千種川流域の上郡町・中山13号墳 隣接の15号墳と一体を確認

2008年06月20日 | Weblog
 町教委は県史跡として円墳と登録されている中山13号墳は、隣接する15号墳と一体の前方後円墳であることを調査で確認したことを発表した。
後円部の直径28m、前方部の長さ29m、全長57mと推定される。
 築造時期は06年度からの調査で、13号墳のすそ部分に後円部と前方部をつなぐくびれ部分の列石が出土し、長方形の石を縦にして並べる列石の構築法から、3世紀後半から末の古墳時代前期前葉とみられる。
 千曲川流域では赤穂市の蟻無山(ありなしやま)1号墳(約52m)を上回り最大となる。
 現地説明会は21日午前10時~正午
古墳の所在場所:赤穂郡上郡町高田台2丁目
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩手・徳丹城跡で出土した7世紀の木製兜は「鉄兜」の見せかけ

2008年06月20日 | Weblog
奈良・元興寺文化財研調査で判明
岩手県矢巾町の国指定史跡徳丹城で井戸跡から出土した木製兜は、戦いの際に鉄製兜に見えるように作った「偽の鉄兜」だったことが元興寺文化財研究所(奈良市)の調査で分かった。
 今回、同研究所が作成した兜のデータを元に、富山県南砺市の彫刻家の協力で復元品を作成した。作成された木製兜に黒漆を塗ると、縦長の鉄の板をつなげて作った当時の鉄兜とほとんど見分けがつかなくなった。
 出土した兜は保存処理をされ、今年の4月に矢巾町歴史民俗資料館で一般公開された。
発見の経緯
2006年6月、徳丹城で井戸跡からほぼ完形品の木製兜が出土した。井戸水をくむ水おけとして転用されていた。徳丹城が機能していた9世紀前半ごろのものとみられると考えられていた。
2007年8月、放射性炭素年代測定法により、兜の素材・トチノキは7世紀前半、漆は7世紀後半と判定された
年代特定により、古墳時代から中世までの武具史の空白を埋める資料になった。
[参考:毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野古道のシンボル「牛馬童子像」が切断される

2008年06月19日 | Weblog
熊野古道中辺路近く、世界遺産に登録されている熊野古道のシンボルとして親しまれている石像「牛馬童子像」の首から上が切断されているのが発見された。
故意としか考えれらない仕業に怒りと悲しさを感じる。
写真は在りし日の「牛馬童子」平成11年6月撮影
[参考:紀伊日報]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソウル・風納土城 中国製青銅鋪首出土

2008年06月19日 | Weblog
国立文化財研究所は18日風納土城内部「未来の村地区」発掘現場で、漢城百済(B.C.18-A.D.475)時代に築造した大規模道路と住居地、竪穴等200件近くの遺跡・遺物・土器などを確認したことを発表した。
主な出土品
① 青銅器などの横面に輪装飾で付ける獣面模様の鋪首(長さ3.5㎝,幅3.2㎝)
漢城時代遺跡では初めての出土。
平壌・石岩里9号墳出土青銅器「銅尊」、益山・弥勒寺地出土金銅香炉のように全体の形が完全に残った遺物では輪の形状で発見されている。
出土した鋪首は中国製と見られており、当時中国との貿易が活発になされたことを現わすものと解釈される。
② 銀製イヤリング装飾品(長さ5.4㎝,幅1.2-1.5㎝)
 中国・吉林省楡樹老河深遺跡出土扶余時代金製イヤリング装飾品と模様が非常に似ている。
③ 平面呂字形の住居地
この時代の韓半島中部地域の他の呂あるいは凸字形住居地と同じように、建物内部に台所、炊事場とオンドルを設けていて、壁体は一定区間毎に立てた柱らと板材が焼けた姿そのままで確認され、その底ではト骨したことが明らかな動物の肩甲骨が発見された。火災で壁や屋根が座り込んだ姿で発掘されており、漢城時代百済の住居形態を究明するのに決定的な資料になる。
④昨年すでに存在が確認された道路遺跡は、今年の調査で分布区間がより一層広くなって、南北の長さ124mに達する規模があらわれた。

銀製イヤリング装飾とト骨は、東夷族の色々な政治体のうち扶余的特性が強いものと推定され、百済王室の根源はやはり扶余だという点と関連して非常に注目される。
鮮文大李亨求教授は「三國志 魏志 東夷伝とか三国史記をはじめとする文献記録を見れば、百済は高句麗とともに扶余族一部が南下して建てた王国であり、そのために百済は泗(扶余)に遷都した後には国号を南扶余と直したりしたと出ている。扶余ではまた吉凶を占う時、牛のひづめや同じ動物骨を用いて、それを灼いて割れた形を見て吉凶を占ったという記録が残っている。」と話している。
[参考:聯合ニュース、朝鮮日報、大田日報]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沃川郡 沃川邑金亀里 三国時代古墳石槨墓8基を発掘

2008年06月18日 | Weblog
沃川郡によれば、去る5月8日から事業費6300万ウォンを投入し、沃川邑金亀里一帯の農産物流通団地が造成される地域に対して(財)中原文化財研究院が試掘調査を行った。
その結果、三国時代のものと推定される石槨墓8基と石列遺構3基、古土壌層、多数の土器片があることが確認された。
古墳石槨墓8基中1号は粘板岩の割石を立てて積んで築造した形態を見せており、近隣の玉覺里で調査された石槨墓と似ており、2~8号石槨墓は割石を利用して横積みと縦積みとの方法で造成されたと見られる。
また3基の石列遺構中2基は、石槨墓の板石を使用していると推定され、石列は10㎝内外の雑石を東西方向に列を合わせて置いており、耕作地および住居地周囲への排水施設で利用したと見られる。
ほかに、調査地域南東側境界の部分のくぼみの下に考古学的に重要な資料となる1.5m厚さで形成された古土壌層一部が確認されたが、調査した結果、遺物は出土しなかった。
これに伴い調査団は去る6月6日現地で関係者などが参加した中で試掘調査結果に対する報告会を行った。
調査団は、試掘地域に考古学的遺跡がたくさん分布しており、このうち関防遺跡では西山城と三車里土城、 三陽里土城、 三聖山城が今回の調査地域を囲んでおり、北側では最近三国時代の百済古墳群であることが明らかになった玉覺里古墳群と西山城一帯古墳群が位置している。
関係者は「今回の試掘調査は遺跡有無に対する確認調査だけ。三国時代の古墳群が確認されたので、文化財庁から発掘調査許可を受けて予算が確保され次第、詳細な調査に着手したい」と話している。
備考:忠北道沃川郡沃川邑金亀里は大田広域市の東に隣接する。
[参考:忠北日報2008-06-17]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠岐・西ノ島・黒木山横穴墓群遺跡 銀の和銅開珎が出土

2008年06月17日 | Weblog
町教委は16日、黒木山横穴墓群遺跡(7世紀末~8世紀初頭、島根県隠岐郡西ノ島町大字別府)の6つある横穴墓の1基(奥行き5.5m、幅2.3m)から、銀製の和同開珎(かい・ちん)1枚が見つかったことを発表した。
和同開珎は和銅元年(708)に銀製と銅製の製造が始まったが、銀銭は708年5月から発行され翌年8月に廃止された。
製作期間が短かったことから、銅銭よりも希少価値が高いとされる。銅銭は全国で4800点以上が出土しているが、銀銭の出土例は全国で46枚。離島では初めてで、近畿より西での出土は松江市大草町の出雲国府跡に続く2枚目。
出土した和同開珎は直径2・45cm、重さ6・29g。
同じ横穴墓から2人分と見られる人骨の一部や鉄製の小刀、赤貝の貝殻、桃の種子なども見つかった。
 県文化財課によると、当時の隠岐は朝廷に食材を献上した御食国(みけつくに)として知られ、平城京周辺では隠岐から運んだアワビやイカなどの荷札として使った木簡が出土している。
 専門家の意見として次のようなものがあげられる。
隠岐と朝廷の結びつきの深さを改めて示す資料だ。
朝廷へ献上物を持参した役人かその関係者が都で銀の和同開珎を入手し、死後に副葬品として埋葬した。
都では当時、市場が成立しており、朝廷などに納めた海産物の余りを売った対価として得た可能性がある。
貨幣というよりも魔よけ的な意味合いが強いのでは。
埋葬者は有力者か漁師のリーダークラスの可能性がある。

 町教委は、出土品を西ノ島ふるさと館で一般公開する。日時は未定。
[参考:山陰中央新報、中国新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞]

備考:
 黒木山横穴墓群遺跡の近くには、後醍醐天皇が隠岐に配流された時の行在所と伝えられる黒木御所跡がある。約1年間滞在の後脱出し、建武中興を起こしたと言われる。
 黒木御所跡の名称を持つ場所は、他にも佐渡(順徳天皇)、硫黄島(安徳天皇)、十津川(護良親王)にある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下関・仁馬山古墳 割竹形木棺を確認 近畿系の埋葬形態

2008年06月14日 | Weblog
昨年度の盗掘坑の調査では、「主体部は排水溝を有する粘土槨であり、内部には木棺があった」と推定されましたが、「近畿地方の前方後円墳でよく見られる割竹型木棺を安置した粘土槨に比べると、長さ4m程度で小型である」と推定されていました。ところが、今回の現地説明会のお知らせでは、「主体部である粘土槨は幅約1.8m、長さ約7.5mで、巨大な丸木をくり抜いた割竹形木棺を納めています。」と記し、「山口県や九州地方ではあまり見ることができない地域の首長クラスの古墳に採用された近畿系の埋葬形態」としています。
棺の規模は、長さ約6.3m、外径が96cm。棺の内面に赤色顔料が塗布されていたことが確認された。
主体部の方向と古墳の主軸はややずれており、粘土槨の中心部から斜め方向に石材を組んだ排水溝が続いている。
また、昨年出土の土器片が、4世紀後半に朝鮮半島南西部で製作されたと考えられる韓式土器の破片であったことが発見されており、粘土槨の採用とこの韓式土器の出土は、朝鮮半島に近い響灘沿岸という地理的環境の中で、仁馬山古墳の被葬者が大和政権の対外交渉に何らかの役割を果たしたこと示す証拠と言えるのではないかとしています。

<備考>
仁馬山古墳は、山口県内の前方後円墳としては3番目の大きさですが、長門地域では最大規模の前方後円墳です。
下関市大字延行字神間、綾羅木川河口付近に広がる綾羅木平野北側の段丘上に立地しています。
 古墳の大きさ: 全長74.7m、前方部幅28m、後円部直径約47.7m、高さ8m
 古墳の形と特徴: 立面が三段築成(階段状に3段)、平面が柄鏡型の墳丘(前方部短く直線的)
 古墳ができた時期 → 古墳時代中期((4世紀後半)
 葬られた人: 北浦地域最大級の首長(穴門国造の系譜に連なる首長?)
4世紀後半の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国時代で、この中でも百済は大和政権に使者を送って外交関係を樹立したとされています。
平成20年6月28日(土曜日)10時から現地説明会が実施されます。
[参考:仁馬山古墳現地説明会のお知らせ(下関市)より]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山市・朝美辻遺跡 6世紀前半の蹴放し(高床式倉庫扉の敷居)が県内初出土

2008年06月13日 | Weblog
訂正事項
6月13日、市教委から『朝美澤』を『朝美辻』遺跡に名称を変えますとの発表。

松山市教委は、朝美辻遺跡内の川の遺構から、6世紀前半の古墳時代に造られたとみられる高床式倉庫の扉の敷居部分「蹴放(けはな)し」が県内で初めて出土したことを発表した。全国的にも珍しい。
長さ約113cm、幅約23-25cm、厚さ約7cmの木製。
蹴放しは高床式倉庫などの入り口に敷いて扉板が一方にだけ開くようにする木製部材。
宮前川の上流の集落から流れてきたとみられる。
現地説明会は14日午前10時から。
[参考: 愛媛新聞、読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜井市・安倍寺遺跡 阿部氏の邸宅跡?

2008年06月12日 | Weblog
 古代の有力豪族、阿倍氏の邸宅とみられる大型建物跡(7世紀末―8世紀初め)が、見つかった。
 発掘現場は、桜井市阿部の安倍寺遺跡で阿倍氏の氏寺で知られる安倍寺跡の近く。
 住宅の建設に伴い、約190㎡を調査した。大型建物跡は二棟あり、平行して見つかった。いずれも東西に長く、建物の規模は、東西12m以上と推定される大きなもの。巨大な柱穴(約1・2m四方)を持ち、柱の間隔は約3mで5つ並んでいた。直径40cmもある柱が2本残っていた。柱の間隔は平城京の長屋王邸に匹敵するもの。
6世紀~8世紀に数回にわたり、建て替えられたとみられる。
 阿倍氏は、蘇我氏や物部氏に匹敵する勢力を誇り、大化の改新(645年)で左大臣になった阿倍倉梯麻呂(くらはしのまろ)が安倍寺を創建したとされる。壬申の乱(672年)で活躍した阿倍御主人(あべのみうし=635―703年)はキトラ古墳(同県明日香村、7世紀末~8世紀初め)の被葬者候補にも挙げられる。
写真は安倍寺跡
[参考:奈良新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市西京区・上里遺跡 縄文晩期の米が出土 最古の可能性も

2008年06月11日 | Weblog
 上里遺跡は、784年に長岡京が出来た時には北西端にあたる場所にあり、縄文時代から中世に至る遺跡である。
 京都市埋蔵文化財研究所が10日、上里遺跡から出土した縄文晩期の堆積層から、3粒のコメと数10粒のマメが炭化した状態で見つかったことを発表した。
竪穴住居が並ぶ区域の脇にある深さ20~100cmの溝で見つかった。溝はごみ捨て場として使われたとみられ、炭化したコメやマメ、ドングリ、淡水魚の骨などが見つかった。
 国立歴史民俗博物館(千葉県)に依頼し放射性炭素(炭素14)年代測定を行ったところ、コメは弥生前期の紀元前510-390年、マメは縄文晩期の同1190-1000年と異なる結果が出た。
 同じ層から出土した土器は縄文晩期で、この時期の遺物の年代測定は誤差が大きく出やすく、コメの実年代が縄文晩期にさかのぼる可能性も指摘されている。九州では縄文時代中期終わりのコメが見つかっており、近畿でも縄文時代晩期に稲作が行われていた可能性が出てきた。
 同じ場所からマメ30~40粒も出土。マメがこれだけ大量に見つかるのは珍しいといい、野生ではなく栽培種と考えられるという。京都大学大学院泉拓良教授(考古学)は「縄文時代にも栽培した穀物を食べる文化が近畿地方にあったと言える」と話す。
 見つかった遺物は12~29日、市考古資料館(同市上京区)で展示される。

 上里遺跡では、これまでに縄文時代晩期の集落跡、土器棺墓、翡翠の丸玉(直径7-8mmの円柱形、糸魚川市周辺産)、滑石製の勾玉などが出土している。

 なお、泉教授は、今月14日(土)に行われる、日本文化財科学会第25回大会・2008年度総会(会場・鹿児島国際大学)時の口頭発表で、今回の成果を発表されると思われる。
 題目:京都市上里遺跡縄文晩期層出土の植物遺存体と縄文農耕の可能性
 発表者 泉拓良(京都大学)・高橋潔(京都市埋蔵文化財研究所)ほか
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村・檜隈寺(ひのくまでら)跡 白鳳-天平期の金銅仏出土

2008年06月11日 | Weblog
明日香村・檜隈寺(ひのくまでら)跡 白鳳-天平期の金銅仏出土 
明日香村教委が10日発表。
飛鳥時代の有力渡来系氏族東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる明日香村・檜隈寺跡(国史跡)で、7世紀後半~8世紀に鋳造された金銅製仏像の手首から指先までの右手部分(長さ2.3cm、幅1cm)が出土した。一部指が欠け、金がはがれているが、金の発色、指を1本ずつ彫る技法などから、白鳳~天平時代の仏像で中国か朝鮮半島製の可能性が高い。
 仏像本体は全長25cmほどの小型の金銅仏と推測され、僧侶や信者たちが念持仏として持っていたとみられる。
檜隈寺跡の北西約70mの谷で、中世の瓦などとともに出土。寺は11世紀から15世紀にかけて徐々に廃れたようである。
6世紀中ごろの仏教伝来に力を尽くしたとされる東漢氏の貴重な資料になりそうだとしている。
出土した金銅仏の右手は明日香村平田の国営飛鳥歴史公園館で6月11日~7月10日の間に展示される。

檜隈寺
7世紀後半の創建。西にある中門をくぐると、正面に塔があり、右手側に金堂、左手側に講堂が建っていたらしい。
堂宇は現存しておらず、境内区域内にある「於美阿志(おみあし)神社」に十三重石塔だけが残っている。
金堂、講堂、塔跡のほか、6世紀頃の飛天が浮き彫りされた金銅製の光背が発掘調査で見つかっている。
周辺は東漢氏の拠点で、約500m南にはキトラ古墳、約500m北には高松塚古墳がある。

東漢氏
東漢氏は、5世紀の応神天皇の時代に日本に渡ってきたとされ、大陸の最新文化や技術力を背景に、飛鳥時代の権力者・蘇我氏と結びつき、外交や軍事面などで大きな影響力を誇った。
 592年には蘇我馬子の命により崇峻天皇暗殺をするなど、蘇我氏の群臣として活躍。
大化改新(645年)によって関係の深かった蘇我氏が滅び、一時は存亡危機があったが、その技術が重要視されて滅亡を免れた。今回出土の金色に輝く仏像片は、一族の盛衰ぶりを浮かび上がらせる。
大化改新に次ぐ危機は、677年に天武天皇から「七つの大罪を犯した」として叱責されたことだった。しかし、壬申の乱での戦功と、都を飛鳥に戻したため、飛鳥周辺一帯の東漢氏一族の勢力を侮れなかったためであろうか、ここでも許された。
平安時代には征夷大将軍、坂上田村麻呂(758~811年)も輩出した。

参考 「日本書紀」
 応神天皇20年・秋9月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り。
 雄略天皇16年・冬10月に、詔して、「漢部を聚へて、其の伴造の者を定めよ」のたまへり。姓を賜ひて直と曰ふ。(一に云はく、賜ふとは、漢使主等に、姓を賜ひて直と曰ふぞ。)
 崇峻天皇5年(592)・冬11月に、馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調(みつき)を進る」という。乃ち東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。
 天武天皇6年(677) 6月に、東漢直等に詔して曰はく、「汝等が党族、本より七つの不可(あしきこと)を犯せり。是を以て、小墾田の御世より、近江の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以て事とす。今朕が世に当りて、汝等の不可しき状を将責めて、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大きなる恩を降して原(ゆる)したまふ。今より以後、若し、犯す者有らば、必ず赦さざる例に入れむ」

今年の2月には、東漢氏の墓と見られる6世紀中頃築造の巨石を使用した穹窿状の横穴式石室を持つ真弓鑵子塚古墳が公開されたばかりであった。

[参考:産経新聞]

「小金銅仏」の公開については6月11日より飛鳥歴史公園館にて実施中。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最古の階段ピラミッドの調査 日本の最新技術で計測

2008年06月10日 | Weblog
カイロから西南に20kmのナイル西岸には史上初と言われる、紀元前2650年頃古代エジプト第3王朝の2代目のファラオであるジェセル王が建設した「階段ピラミッド」がある。三大ピラミッドなどとともに「メンフィスとその墓地遺跡」として世界遺産に登録されているが、年代が古いだけに傷みが激しい。
補修をするに当たって、現状を克明に記録するための調査が、日本のレーザー計測技術を用いて進められている。
 今回の調査では、大阪の測量会社デベロソリューションズが開発した4機の小型レーザー照射機を搭載した羽型の装置(幅約5m、重さ27kg)を背負った登山専門家がピラミッドの頂上から下ることで精密なデータを収集し、さらに他のデータを同期させて、ピラミッドの克明な立体像が3次元的に数cm単位で再現できるようになるという。
[参考:産経新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする