9日、前原市教委は同市の「泊リュウサキ遺跡」から、8世紀後半から9世紀前半(奈良時代後期から平安時代初期)の木簡が出土したと発表した。
米俵の荷札などに使われたとみられる。
木簡は5点。1点は破片で、4点に文字が残っていた。
(1)「豊乙阿子米(おつあここめ)五斗」(長さ約13cm、幅約3cm)
→「乙阿子」という農民が「米五斗」を年貢として納めた。「豊」は文字の削り残しとみている。
(2)「白米五斗」(長さ約10cm、幅約2cm)
(3)「三味米(さんみこめ)五斗」(長さ約13cm、幅2cm)
→「三味」という農民が「米五斗」を年貢として納めた
(4)「大」(長さ約6cm、幅約2cm)という文字がかすかに分かる。
市教委は、公的施設があったことを想定させるとし、役人がこれらの木簡を米俵にひもでくくりつけていたとみている。
木簡は井戸跡から水に漬かった状態で出土し、一緒に見つかった土器片から年代を推定した。
鉄を船で運び出す港湾施設跡地で、年貢米を保管する蔵もあったのかもしれないと想像している。
[参考: 西日本新聞]
米俵の荷札などに使われたとみられる。
木簡は5点。1点は破片で、4点に文字が残っていた。
(1)「豊乙阿子米(おつあここめ)五斗」(長さ約13cm、幅約3cm)
→「乙阿子」という農民が「米五斗」を年貢として納めた。「豊」は文字の削り残しとみている。
(2)「白米五斗」(長さ約10cm、幅約2cm)
(3)「三味米(さんみこめ)五斗」(長さ約13cm、幅2cm)
→「三味」という農民が「米五斗」を年貢として納めた
(4)「大」(長さ約6cm、幅約2cm)という文字がかすかに分かる。
市教委は、公的施設があったことを想定させるとし、役人がこれらの木簡を米俵にひもでくくりつけていたとみている。
木簡は井戸跡から水に漬かった状態で出土し、一緒に見つかった土器片から年代を推定した。
鉄を船で運び出す港湾施設跡地で、年貢米を保管する蔵もあったのかもしれないと想像している。
[参考: 西日本新聞]