朧 隠され、かつ露わされ
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第45話 朧月act.1―side story「陽はまた昇る」
紺青色の日記帳を前に、英二は泣いた。
黎明の月とデスクライトが照らしだすページには、残酷な現実が綴られる。
ようやく親しみ始めたラテン語、けれど言葉たちは冷淡な事実を告げた。
どうしてこんな現実が起きた?
なぜ、こんなことになっていく、なぜ連鎖が廻ってしまう?
なぜ、どうして、そんな疑問が全身を駆けめぐって眼の底に熱が溜まりこんだ。
「…どうして、こんなことに、」
言葉と涙が、白いシャツにこぼれおちる。
ただ静謐うずくまる午前4時。青梅署独身寮の一室に、31年前の晩春は惨劇の記憶と目覚めた。
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食堂で国村と並んでいると、藤岡もちょうどやってきた。
いつものように3人食卓を囲んで、丼飯を片手に英二は同期へと笑いかけた。
「お帰り、藤岡。穂高の縦走、どうだった?」
「雪が腐っていた日と凍っていた日があってさ、良い訓練になったよ。もう1週間ずっと雪まみれ、」
楽しげに笑ってくれる顔の山ヤらしい雪焼けに、なおさら快活な印象が強まっている。
きっと良い山行だったのだろうな?微笑んだ英二の隣から透明なテノールの声が笑った。
「春山と冬山と、両方いっぺんに楽しめた、って感じだね。雪焼けが良い色になってる、天気も良かったよね?」
「うん、晴れに恵まれた。お蔭で俺、黒くなったよな?初任総合で驚かれるかも、って大野さんと話してたんだ、」
大野は藤岡のパートナーで白丸駐在所属の山岳救助隊員になる。
ちょうど藤岡と似たような小柄でも確りした体格で、6期上の先輩でも高卒だから年齢が近く、明るい人柄は話しやすい。
山ヤの警察官は寡黙なタイプも多いけれど、誰もが話してみれば透明な明るさが快い。
このいまも話題に載った先輩の、さっき見たばかりの明るい顔を思いながら英二は微笑んだ。
「さっき大野さん見かけたけど、同じくらい雪焼けしていたな?」
「そうだろ?コンビで黒くなっちゃったよ。でもさ、おまえらって、ほとんど雪焼けしないよな?冬富士も登ってきたんだろ?」
冬富士。
この言葉にかすかな玉響が心に起きる。
今冬の初めと終わりに登った最高峰、この記憶に絡まる感情は深い迷宮にも似て、けれど全てが必要なのだとも思う。
いま抱いている大切な2つの想い見つめた英二の隣、ザイルパートナーは愉しげに頷いた。
「そりゃ、登ってきたよ?ちゃんと最高峰でも、愛を確かめ合ってきちゃった。ね、ア・ダ・ム、」
がたん、
左手の丼がすべり落ちて、けれどトレイの上に正常位置で着地した。
運よく飯も一粒も零れていない。
「あら?どうしたのアダム?丼を落っことすなんて、危ないわ。食器でやたら音出すのも、マナー違反よ?」
飄々と悪ふざけた女言葉に転がして、テノールが笑い堪えている。
いま可笑しくって愉快、そんな底抜けに明るい目を隣に見ながら英二は、仕方ないなと微笑んだ。
「ごめんな。でも、愛を確かめた相手なんだし、許してよ、」
さらり笑顔で言った先、雪白の貌がすうっと桜色に染まった。
こんなところ、意外なほど純情でちょっと可愛いかなと思わされてしまう。
なによりも、こんな意外なイニシアティブに驚かされている。
―なんだか予想外の方法で、国村の“転がし封じ”が出来るようになっちゃったな?
こんな感想を想える余裕が不思議で、ちょっと我ながら面白い。
本当なら今の国村との状況は、もっと混乱しているだろうなと思う。現に剱岳から戻って暫くは途惑っていた。
同僚で先輩で、ザイルパートナーで親友。
こんな近すぎる相手とキスだけでも関係が出来たら、普通は混乱もする。
けれど吉村医師が肯定してくれたお蔭で向き合えた、もし自分だけで抱え込んだままなら国村との関係を壊したかもしれない。
なによりも、周太が必ず無条件で愛してくれる、その安心感が国村を受容れる余裕を与えてくれた。
やっぱり周太無しの自分は考えられないな?あらためて思っている前で、一週間ぶりに顔合せた藤岡は首を傾げこんだ。
「国村、顔赤いよ?っていうかさ、なんかちょっと、印象変わったな?」
たしかに藤岡のいう通りだろうな?
そんな同意を心中でした英二の隣、あわい紅潮に艶めいたまま底抜けに明るい目が笑った。
「そっかな、どう変わった?」
「うん、そうだなあ?」
頷いて藤岡は、斜向かいに座る友人の顔を眺めだした。
いつもながら実直な丸い目の視線に、くすぐったげに秀麗な貌が笑いだしている。
そんな表情にも、前とは変わった雰囲気が見えてしまう。この状況に英二は覚悟した。
― きっと藤岡のことだから、また、すごい表現するんだろうな?
いまは茶も汁椀も口付けない方が無難だな?
そう考えながら英二は、ほうれん草のおひたしに醤油差しを傾けた。
その向かい側から、からっと藤岡が言ってくれた。
「うん、かわいくなったな?大好きな彼氏と一緒にいます、って感じ、」
なんで藤岡って図星ついてくるわけ?
そんな台詞めぐって頭が止まり、手の動きがストップする。
そうして、ほうれん草のおひたしは、醤油漬にとメニュー変更された。
「うわっ?宮田、それ、ちょっと掛けすぎだろ?塩っ辛い好きの東北人でも、そんなにかけないよ?」
誰の所為だと思ってるんだよ?
前に座る同期から向けられた声に、つい心裡で毒づいてしまう。
けれど本当は自分で解かっている、全部ほんとは自分の所為で、こんなことも自分で背負うのが筋だろう。
こんな自分が可笑しくて英二は、笑ってしまった。
「じゃあさ、この余ってる醤油、ひきとってくれない?勿体ないからさ、」
「うん、いいよ、」
気さくに頷いて藤岡は、ほうれん草の鉢を差し出してくれる。
けれど白い手が醤油漬けの鉢を掴んで、隣の鉢へと醤油を移してくれた。
「え、?」
向かいから丸い目が、桜色の貌を見て驚いている。
見られた顔は悪戯っ子に笑って、テノールの声が愉しげに言った。
「アダムの失敗はね、イヴがフォローするんだよ?」
愉しげで悪戯っ子で、そして幸せが明るく無邪気に笑っている。
こんな顔をしてもらうと、自分の選択は間違っていないのかなと思えてしまう。
そして、この選択に優しく背中を押してくれた婚約者の笑顔が懐かしくなる。
たぶん今頃は同じように、周太も実家で母と朝食を囲んでいるだろう。
きっと今日から始まる大学の講義の話をして、母子ふたり、穏やかで明るい時を過ごしている。
あの食卓の優しい時間が懐かしいな?そんな想いにふと単語がうかんで英二は微笑んだ。
― こういうの、郷愁、っていうんだろうな
故郷を想い、切ない、けれど温もりの記憶が幸せな感覚。
こんなふうに自分は、あの家を想うようになっている。
こんな想いは自分にとって初めて抱いた感情、この温もりが愛おしい。
この愛しさの為に自分は今朝、ひとり見つめた現実を母子に言うことが出来ない。
まだ、真相のすべてを見たわけじゃない。
けれどもう、真相を推論するヒントは出尽くしているかもしれない。
後は唯、この裏付けになる「記録」を見つけ出せばいい。
周太の祖父、晉が遺した「記録」には、根源を作りだした名前のヒントがある。
この推測が、馨の日記に読んだ現実から確信に変わっていく。
紺青色の日記帳に遺された現実、31年前の晩春に馨が泣いた記憶から。
― どうして、
ただ一言の疑問が、心めぐる。
いま明るい食堂の一角で、笑って朝食を摂っている。
そんな明るい現実に身を置きながらも、心は31年前へと佇んで馨と泣いている。
いまこの胸には合鍵の感触ふれる、この鍵が31年前に聴いた鼓動が今、自分の心に重なっていく。
どうして? この一言の疑問に心めぐらせながら。
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ガラス扉の隙間から流れこむ風に、若草の香がやわらかい。
パソコンから顔あげて遠くに目を遣る、その先は新緑やさしい田園と森が広がっていく。
まだ山桜も残る御岳は八重桜も咲きだして、駘蕩おだやかな土曜日は登山計画書の提出も多い。
けれど、4月終りの今日も奥多摩は名残の雪がある。
「宮田、ちょっと休憩しようか?」
デスクから声かけられて、英二はふり向いた。
岩崎も登山計画書のチェックを置いて、とん、と肩を叩いている。
左手のクライマーウォッチを見ると12時過ぎだった、昼休みの時刻に英二は微笑んだ。
「気づかなくて、すみません。どうぞ昼休みに入って下さい、息子さんのお迎えもありますよね?」
今日は岩崎の妻は外出している、だから岩崎が保育園の迎えに行かなくてはいけない。
この春から入園したばかりで不慣れだから、きっと父親の迎えを待ちかねているだろう。
そんな思いで英二は岩崎の分も書類を手に取ると、照れくさげに笑ってくれた。
「催促しちゃって悪いな?でも、宮田も休憩に入ってくれよ、昼飯は大丈夫か?」
「大丈夫です、差入を戴けるそうなので、」
「あ、そうか。今日だったな?1時半ごろ出るんだよな、それまでには戻るよ、」
英二の返事にすぐ気がついて、立ち上がりながら岩崎が提案してくれる。
所長から言って貰うと話しやすい、素直に英二は頷いた。
「はい、1時間ほどで戻ります。申し訳ありません、」
「いや、構わんよ。自主トレも行ってきてくれていいよ、無線と携帯さえ持っていてくれればね、」
いつもながらの爽やかな笑顔で言ってくれる。
こういう気遣いが岩崎はまだ若いのに行き届いて有り難い。英二は嬉しい感謝と一緒に応えた。
「ありがとうございます。岩崎さんこそ、よかったら今日も自主トレ行ってくださいね?」
「ありがとうな、でも息子の面倒見ないといけないからな、」
英二の提案に笑顔で感謝しながらも遠慮してくれる。
その心配は大丈夫だろうな?そう思っている背後でガラス戸がからり開いた。
「おつかれさまです。岩崎さん、息子さんのお迎え時間ですよね?早く行っちゃってあげて下さい、」
明るいテノールが岩崎に声をかけ、愉しげに笑っている。
声に岩崎も笑いかけて、制帽を脱ぎながら答えた。
「おう、国村。今から行かせて貰うよ、」
「きっと待ってますよ?パパ大好きっ子だからね。で、これ祖母からです、」
言いながら国村は下げていた袋を片方、岩崎に差し出した。
ふわり美味しそうな匂いのする袋に、頼もしい顔が嬉しげに笑った。
「俺たちにも差入、下さったのか?悪いな、」
「お世話になっているからね、って伝言です。今日は店の営業日ですし、これ、店で出す弁当なんですけどね、」
「お、今日も営業されているのか?」
すこし意外そうに岩崎は訊き返した、けれど英二は国村の祖母らしいなと思えてしまう。
一年で一日だけの「今日」でも平常通りに店を開ける、こんな彼女らしい気丈さが美しい。
どこか切ない想い佇むなかで、気丈な彼女の孫はからり明るく笑ってくれた。
「はい、今日だからこそ、営業するんだ、って言ってますね。午後の休憩時間には寺に行けますし、もう11年ですから、」
そう話しながら笑っている国村は、今日は白いシャツに黒いスラックスを合わせている。
もう11年。それでも今日の装いに、想いも涙も枯れないことが解かってしまう。
こんな律儀な優しさが国村は温かい、温もりに微笑んだ英二の隣でテノールの声が笑った。
「あと岩崎さん?今日も自主トレ、どうぞ行ってくださいね。その間、俺が息子さん見てますから。どうせ秀介も来ますしね、」
「そうして貰えると助かるよ、ありがとうな。木下に連絡させて貰うよ、」
笑って礼を言うと岩崎は、弁当の包みを持って奥へと戻っていった。
ぱたんと扉が閉まると、底抜けに明るい目がふり向いて促してくれた。
「おまえも飯、食わないとね?ほら、パソコン落とせよ、」
「うん、ありがとな。でも、あとちょっとで終わるんだよ、待ってもらってもいいかな?」
笑いかけて英二は岩崎が残した分を示して見せた。
ちらりパソコンの方を見て、すぐ透明な細い目が温かに笑んだ。
「おまえの分は終わってるね、で、これは岩崎さんの分も引き受けたんだろ?ほら、半分よこせよ、手伝う、」
言いながら英二の手から書類を半分抜こうとしてくれる。
けれど今日の国村は非番で私服姿でいる、もし一般ハイカーが見たら民間人が書類を見ていると驚くだろう。
ありがたいけれど懸念から英二は口を開いた。
「ありがとな、でも国村、私服だろ?地元の人なら顔なじみだけど、まずいよ、」
「そんな心配は無用だね、」
あっさり笑って更衣室へ行くと、がたんとロッカー開く音を2度起こしてから戻ってきた。
スカイブルーに「警視庁」と白く染め抜いたウィンドブレーカーを羽織った姿で、あらためて英二に掌を出してくれた。
「これならイイよね?ほら、」
機嫌良く書類を英二から取ると、さっさとノートパソコンをデスクに開いて入力を始めた。
相変わらずの速さで処理を進める白い手に微笑んで、英二もパソコンデスクの前に座り直した。
かたたっ、
パソコンの音と紙を繰る音だけが駐在所に籠る。
お互いの集中が同時に途切れた時、それぞれの登山計画書は全て処理が終了していた。
「ほら、すぐ終わったね。ふたりだと速いよな、ね?」
テノールが愉しげに笑って、スカイブルーの腕が伸びをする。
英二もパソコンを閉じて立ち上がった。
「うん、ありがとな。助かったよ、飯にしようか、」
「だね。腹減っちゃったな、ちょっと今朝は梅林を見てきたんだよね、」
「山の上の?」
「そ、ほら3月に自主トレで登ったとこ…」
言いながら給湯室に立って、ふっとテノールの声が途切れ黙りこんだ。
きっと今、梅林に自主トレで登った日の記憶が「今日」に重なった。
春3月、英二が鋸尾根で雪崩に遭ったのは、この梅林に登った後だった。
「国村、」
呼んだ名前に透明な目が英二を見てくれる。
見つめる眼差しが切なげで、それでも温かに笑んだ目が優しい。
こんな顔から国村にとって「失う」ことの痛みが知らされる。
…大切なひとって誰よりもさ、一番きれいで失うの怖いよな…雪のなかで俺はよく感じるかな
今冬1月、冬富士で国村が言った言葉が忘れられない。
雪に抱かれて大切なひとを失った記憶、この哀しみは今も国村の心に恐怖を紡ぎだす。
氷雪、山の冷厳に見つめた哀切の記憶。
この記憶が8歳から国村は始まった、その初めてが最も深い傷に心抉った。
生まれてすぐ抱きあげ産湯を浸からせてくれた、大好きな人。
いつも一緒にいたいと願い、初めてアンザイレンザイルを繋ぎたいと願った相手、吉村雅樹。
あの美しい山ヤの医学生が、最初に生命を消した。
それから5年。
13歳を迎える晩春には両親が、高峰マナスルのセラック崩壊に抱込められて眠りについた。
そのあと10年後の晩秋に、敬愛する田中が氷雨に斃れ地元御岳の山で亡くなった。
―そして、俺が3月に雪崩に遭ったんだ。それも巡回コースで、
鋸尾根での表層雪崩に巻かれて、沢へ引き摺りこまれ落とされて。
脱臼した左足首を引き摺りながら左側頭に流血こぼし、二次雪崩の危険から逃れ出た。
それでも負傷の発熱に倒れかけた時、国村が来てくれた。
―…宮田!みやた!待ってろ、すぐ行く、
名前を叫んでくれた、透明なテノールの響きは痛切だった。
どうか消えないで?
待っていて、すぐに行くから消えないで?
お願いだから、今すぐに行くから、置いて行かないで?失うのは、もう、嫌だ!
そんな響きに聲は叫んで、深い雪のなか自分を背負ってくれた。
あのときスカイブルーの背中が温かで、熱に引き摺りこまれる意識のなか確信した。
きっと、あの写真の背中は国村だった。
警察学校で見た、警視庁山岳救助隊の資料たち。
あのなかで、殊更に心惹きつけられた一枚の写真があった。
雲取山の尾根、雪上に立つスカイブルーの背中。
その向こうには救助ヘリコプターがホバリングの風巻起こし、スカイブルーの冬隊服が靡いていた。
今より少し細い肩だった、けれど真直ぐ雪面に立つ姿は凛然と頼もしかった。
この背中に自分も成りたい、そうしたら周太を救けられるかもしれない。
この願いに自分は、山岳救助隊の道を志願した。
あのスカイブルーの背中が今、この隣に佇んでいる。
いつものように英二の隣に立って、英二を失いたくないと願い不安を抱いてくれる。
この求めてくれる想いには、最初に失った人と「約束」への想いも重ねられている。
だからこそ、自分は必ず約束ごと護ってやりたいと願う。その願いのまま英二は大切なパートナーに微笑んだ。
「俺は死なないよ?まだ約束が終わっていないからさ。だから、そんな顔するなよ?」
笑いかけた先で、透明な目が笑ってくれる。
けれど雪白の貌は泣笑いになって、涙ひとつ落ちてしまった。
「ほら、大丈夫だからさ?国村、」
笑いかけながら茶を淹れる手を止めると、指で涙を拭ってやった。
涙拭っていく指を透明な目は見つめ、掌が離れると英二を見、微笑んだ。
「うん…だね、」
笑って国村は頷いてくれる。
けれど涙目が治らないまま困ったように、透明なテノールは笑った。
「ごめんね、俺、今日ってね?なんか毎年、情緒不安定になりやすいんだ。春の終わり、ってのも、あるかもだけど、」
白い手の甲で涙ぬぐって、笑ってくれる。
けれど、笑顔だからこそ尚更に切なくさせられてしまう。
切ない笑顔に笑いかけると、英二は淹れた茶と弁当の包みを盆に載せて休憩室の扉を開いた。
靴を脱ぎ、卓袱台に盆を乗せて、それから英二は親友を振向いて軽く腕を広げた。
「ほら、来いよ?胸貸してやるから、」
言葉に透明な目が見つめてくれる。
すこしだけ笑って、靴を脱いで国村は休憩室に上がりこんだ。
「ありがとね。でもさ、活動服、涙で汚したら悪いから、」
言って貰っただけで嬉しいから。
そんな顔で国村は、いつもの窓際に座りこみながら温かに笑んだ。
うれしそうで、けれど少し遠い目で笑う友人を見ながら英二は、静かに休憩室の扉を閉じた。
そして活動服の上着を脱ぐと、大切な友人の隣に座って綺麗に笑いかけた。
「これならいいだろ?ほら、ちゃんと泣けよ、」
笑って、白いシャツの肩を抱きよせてやる。
抱きよせられ頬よせた隣から、ほっと溜息に清澄な香がこぼれた。
「ばか……でも、ありがとう、ね…」
ぽとん、ワイシャツの肩に温もりが降りかかる。
そして御岳駐在の休憩室で、嗚咽の声が静かに響き始めた。
4月、卯月の終わり晩春の日。
今日は国内ファイナリスト・クライマー国村夫妻が、8,000m峰マナスルに抱かれ永遠の眠りについた日。
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第45話 朧月act.1―side story「陽はまた昇る」
紺青色の日記帳を前に、英二は泣いた。
黎明の月とデスクライトが照らしだすページには、残酷な現実が綴られる。
ようやく親しみ始めたラテン語、けれど言葉たちは冷淡な事実を告げた。
どうしてこんな現実が起きた?
なぜ、こんなことになっていく、なぜ連鎖が廻ってしまう?
なぜ、どうして、そんな疑問が全身を駆けめぐって眼の底に熱が溜まりこんだ。
「…どうして、こんなことに、」
言葉と涙が、白いシャツにこぼれおちる。
ただ静謐うずくまる午前4時。青梅署独身寮の一室に、31年前の晩春は惨劇の記憶と目覚めた。
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食堂で国村と並んでいると、藤岡もちょうどやってきた。
いつものように3人食卓を囲んで、丼飯を片手に英二は同期へと笑いかけた。
「お帰り、藤岡。穂高の縦走、どうだった?」
「雪が腐っていた日と凍っていた日があってさ、良い訓練になったよ。もう1週間ずっと雪まみれ、」
楽しげに笑ってくれる顔の山ヤらしい雪焼けに、なおさら快活な印象が強まっている。
きっと良い山行だったのだろうな?微笑んだ英二の隣から透明なテノールの声が笑った。
「春山と冬山と、両方いっぺんに楽しめた、って感じだね。雪焼けが良い色になってる、天気も良かったよね?」
「うん、晴れに恵まれた。お蔭で俺、黒くなったよな?初任総合で驚かれるかも、って大野さんと話してたんだ、」
大野は藤岡のパートナーで白丸駐在所属の山岳救助隊員になる。
ちょうど藤岡と似たような小柄でも確りした体格で、6期上の先輩でも高卒だから年齢が近く、明るい人柄は話しやすい。
山ヤの警察官は寡黙なタイプも多いけれど、誰もが話してみれば透明な明るさが快い。
このいまも話題に載った先輩の、さっき見たばかりの明るい顔を思いながら英二は微笑んだ。
「さっき大野さん見かけたけど、同じくらい雪焼けしていたな?」
「そうだろ?コンビで黒くなっちゃったよ。でもさ、おまえらって、ほとんど雪焼けしないよな?冬富士も登ってきたんだろ?」
冬富士。
この言葉にかすかな玉響が心に起きる。
今冬の初めと終わりに登った最高峰、この記憶に絡まる感情は深い迷宮にも似て、けれど全てが必要なのだとも思う。
いま抱いている大切な2つの想い見つめた英二の隣、ザイルパートナーは愉しげに頷いた。
「そりゃ、登ってきたよ?ちゃんと最高峰でも、愛を確かめ合ってきちゃった。ね、ア・ダ・ム、」
がたん、
左手の丼がすべり落ちて、けれどトレイの上に正常位置で着地した。
運よく飯も一粒も零れていない。
「あら?どうしたのアダム?丼を落っことすなんて、危ないわ。食器でやたら音出すのも、マナー違反よ?」
飄々と悪ふざけた女言葉に転がして、テノールが笑い堪えている。
いま可笑しくって愉快、そんな底抜けに明るい目を隣に見ながら英二は、仕方ないなと微笑んだ。
「ごめんな。でも、愛を確かめた相手なんだし、許してよ、」
さらり笑顔で言った先、雪白の貌がすうっと桜色に染まった。
こんなところ、意外なほど純情でちょっと可愛いかなと思わされてしまう。
なによりも、こんな意外なイニシアティブに驚かされている。
―なんだか予想外の方法で、国村の“転がし封じ”が出来るようになっちゃったな?
こんな感想を想える余裕が不思議で、ちょっと我ながら面白い。
本当なら今の国村との状況は、もっと混乱しているだろうなと思う。現に剱岳から戻って暫くは途惑っていた。
同僚で先輩で、ザイルパートナーで親友。
こんな近すぎる相手とキスだけでも関係が出来たら、普通は混乱もする。
けれど吉村医師が肯定してくれたお蔭で向き合えた、もし自分だけで抱え込んだままなら国村との関係を壊したかもしれない。
なによりも、周太が必ず無条件で愛してくれる、その安心感が国村を受容れる余裕を与えてくれた。
やっぱり周太無しの自分は考えられないな?あらためて思っている前で、一週間ぶりに顔合せた藤岡は首を傾げこんだ。
「国村、顔赤いよ?っていうかさ、なんかちょっと、印象変わったな?」
たしかに藤岡のいう通りだろうな?
そんな同意を心中でした英二の隣、あわい紅潮に艶めいたまま底抜けに明るい目が笑った。
「そっかな、どう変わった?」
「うん、そうだなあ?」
頷いて藤岡は、斜向かいに座る友人の顔を眺めだした。
いつもながら実直な丸い目の視線に、くすぐったげに秀麗な貌が笑いだしている。
そんな表情にも、前とは変わった雰囲気が見えてしまう。この状況に英二は覚悟した。
― きっと藤岡のことだから、また、すごい表現するんだろうな?
いまは茶も汁椀も口付けない方が無難だな?
そう考えながら英二は、ほうれん草のおひたしに醤油差しを傾けた。
その向かい側から、からっと藤岡が言ってくれた。
「うん、かわいくなったな?大好きな彼氏と一緒にいます、って感じ、」
なんで藤岡って図星ついてくるわけ?
そんな台詞めぐって頭が止まり、手の動きがストップする。
そうして、ほうれん草のおひたしは、醤油漬にとメニュー変更された。
「うわっ?宮田、それ、ちょっと掛けすぎだろ?塩っ辛い好きの東北人でも、そんなにかけないよ?」
誰の所為だと思ってるんだよ?
前に座る同期から向けられた声に、つい心裡で毒づいてしまう。
けれど本当は自分で解かっている、全部ほんとは自分の所為で、こんなことも自分で背負うのが筋だろう。
こんな自分が可笑しくて英二は、笑ってしまった。
「じゃあさ、この余ってる醤油、ひきとってくれない?勿体ないからさ、」
「うん、いいよ、」
気さくに頷いて藤岡は、ほうれん草の鉢を差し出してくれる。
けれど白い手が醤油漬けの鉢を掴んで、隣の鉢へと醤油を移してくれた。
「え、?」
向かいから丸い目が、桜色の貌を見て驚いている。
見られた顔は悪戯っ子に笑って、テノールの声が愉しげに言った。
「アダムの失敗はね、イヴがフォローするんだよ?」
愉しげで悪戯っ子で、そして幸せが明るく無邪気に笑っている。
こんな顔をしてもらうと、自分の選択は間違っていないのかなと思えてしまう。
そして、この選択に優しく背中を押してくれた婚約者の笑顔が懐かしくなる。
たぶん今頃は同じように、周太も実家で母と朝食を囲んでいるだろう。
きっと今日から始まる大学の講義の話をして、母子ふたり、穏やかで明るい時を過ごしている。
あの食卓の優しい時間が懐かしいな?そんな想いにふと単語がうかんで英二は微笑んだ。
― こういうの、郷愁、っていうんだろうな
故郷を想い、切ない、けれど温もりの記憶が幸せな感覚。
こんなふうに自分は、あの家を想うようになっている。
こんな想いは自分にとって初めて抱いた感情、この温もりが愛おしい。
この愛しさの為に自分は今朝、ひとり見つめた現実を母子に言うことが出来ない。
まだ、真相のすべてを見たわけじゃない。
けれどもう、真相を推論するヒントは出尽くしているかもしれない。
後は唯、この裏付けになる「記録」を見つけ出せばいい。
周太の祖父、晉が遺した「記録」には、根源を作りだした名前のヒントがある。
この推測が、馨の日記に読んだ現実から確信に変わっていく。
紺青色の日記帳に遺された現実、31年前の晩春に馨が泣いた記憶から。
― どうして、
ただ一言の疑問が、心めぐる。
いま明るい食堂の一角で、笑って朝食を摂っている。
そんな明るい現実に身を置きながらも、心は31年前へと佇んで馨と泣いている。
いまこの胸には合鍵の感触ふれる、この鍵が31年前に聴いた鼓動が今、自分の心に重なっていく。
どうして? この一言の疑問に心めぐらせながら。
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ガラス扉の隙間から流れこむ風に、若草の香がやわらかい。
パソコンから顔あげて遠くに目を遣る、その先は新緑やさしい田園と森が広がっていく。
まだ山桜も残る御岳は八重桜も咲きだして、駘蕩おだやかな土曜日は登山計画書の提出も多い。
けれど、4月終りの今日も奥多摩は名残の雪がある。
「宮田、ちょっと休憩しようか?」
デスクから声かけられて、英二はふり向いた。
岩崎も登山計画書のチェックを置いて、とん、と肩を叩いている。
左手のクライマーウォッチを見ると12時過ぎだった、昼休みの時刻に英二は微笑んだ。
「気づかなくて、すみません。どうぞ昼休みに入って下さい、息子さんのお迎えもありますよね?」
今日は岩崎の妻は外出している、だから岩崎が保育園の迎えに行かなくてはいけない。
この春から入園したばかりで不慣れだから、きっと父親の迎えを待ちかねているだろう。
そんな思いで英二は岩崎の分も書類を手に取ると、照れくさげに笑ってくれた。
「催促しちゃって悪いな?でも、宮田も休憩に入ってくれよ、昼飯は大丈夫か?」
「大丈夫です、差入を戴けるそうなので、」
「あ、そうか。今日だったな?1時半ごろ出るんだよな、それまでには戻るよ、」
英二の返事にすぐ気がついて、立ち上がりながら岩崎が提案してくれる。
所長から言って貰うと話しやすい、素直に英二は頷いた。
「はい、1時間ほどで戻ります。申し訳ありません、」
「いや、構わんよ。自主トレも行ってきてくれていいよ、無線と携帯さえ持っていてくれればね、」
いつもながらの爽やかな笑顔で言ってくれる。
こういう気遣いが岩崎はまだ若いのに行き届いて有り難い。英二は嬉しい感謝と一緒に応えた。
「ありがとうございます。岩崎さんこそ、よかったら今日も自主トレ行ってくださいね?」
「ありがとうな、でも息子の面倒見ないといけないからな、」
英二の提案に笑顔で感謝しながらも遠慮してくれる。
その心配は大丈夫だろうな?そう思っている背後でガラス戸がからり開いた。
「おつかれさまです。岩崎さん、息子さんのお迎え時間ですよね?早く行っちゃってあげて下さい、」
明るいテノールが岩崎に声をかけ、愉しげに笑っている。
声に岩崎も笑いかけて、制帽を脱ぎながら答えた。
「おう、国村。今から行かせて貰うよ、」
「きっと待ってますよ?パパ大好きっ子だからね。で、これ祖母からです、」
言いながら国村は下げていた袋を片方、岩崎に差し出した。
ふわり美味しそうな匂いのする袋に、頼もしい顔が嬉しげに笑った。
「俺たちにも差入、下さったのか?悪いな、」
「お世話になっているからね、って伝言です。今日は店の営業日ですし、これ、店で出す弁当なんですけどね、」
「お、今日も営業されているのか?」
すこし意外そうに岩崎は訊き返した、けれど英二は国村の祖母らしいなと思えてしまう。
一年で一日だけの「今日」でも平常通りに店を開ける、こんな彼女らしい気丈さが美しい。
どこか切ない想い佇むなかで、気丈な彼女の孫はからり明るく笑ってくれた。
「はい、今日だからこそ、営業するんだ、って言ってますね。午後の休憩時間には寺に行けますし、もう11年ですから、」
そう話しながら笑っている国村は、今日は白いシャツに黒いスラックスを合わせている。
もう11年。それでも今日の装いに、想いも涙も枯れないことが解かってしまう。
こんな律儀な優しさが国村は温かい、温もりに微笑んだ英二の隣でテノールの声が笑った。
「あと岩崎さん?今日も自主トレ、どうぞ行ってくださいね。その間、俺が息子さん見てますから。どうせ秀介も来ますしね、」
「そうして貰えると助かるよ、ありがとうな。木下に連絡させて貰うよ、」
笑って礼を言うと岩崎は、弁当の包みを持って奥へと戻っていった。
ぱたんと扉が閉まると、底抜けに明るい目がふり向いて促してくれた。
「おまえも飯、食わないとね?ほら、パソコン落とせよ、」
「うん、ありがとな。でも、あとちょっとで終わるんだよ、待ってもらってもいいかな?」
笑いかけて英二は岩崎が残した分を示して見せた。
ちらりパソコンの方を見て、すぐ透明な細い目が温かに笑んだ。
「おまえの分は終わってるね、で、これは岩崎さんの分も引き受けたんだろ?ほら、半分よこせよ、手伝う、」
言いながら英二の手から書類を半分抜こうとしてくれる。
けれど今日の国村は非番で私服姿でいる、もし一般ハイカーが見たら民間人が書類を見ていると驚くだろう。
ありがたいけれど懸念から英二は口を開いた。
「ありがとな、でも国村、私服だろ?地元の人なら顔なじみだけど、まずいよ、」
「そんな心配は無用だね、」
あっさり笑って更衣室へ行くと、がたんとロッカー開く音を2度起こしてから戻ってきた。
スカイブルーに「警視庁」と白く染め抜いたウィンドブレーカーを羽織った姿で、あらためて英二に掌を出してくれた。
「これならイイよね?ほら、」
機嫌良く書類を英二から取ると、さっさとノートパソコンをデスクに開いて入力を始めた。
相変わらずの速さで処理を進める白い手に微笑んで、英二もパソコンデスクの前に座り直した。
かたたっ、
パソコンの音と紙を繰る音だけが駐在所に籠る。
お互いの集中が同時に途切れた時、それぞれの登山計画書は全て処理が終了していた。
「ほら、すぐ終わったね。ふたりだと速いよな、ね?」
テノールが愉しげに笑って、スカイブルーの腕が伸びをする。
英二もパソコンを閉じて立ち上がった。
「うん、ありがとな。助かったよ、飯にしようか、」
「だね。腹減っちゃったな、ちょっと今朝は梅林を見てきたんだよね、」
「山の上の?」
「そ、ほら3月に自主トレで登ったとこ…」
言いながら給湯室に立って、ふっとテノールの声が途切れ黙りこんだ。
きっと今、梅林に自主トレで登った日の記憶が「今日」に重なった。
春3月、英二が鋸尾根で雪崩に遭ったのは、この梅林に登った後だった。
「国村、」
呼んだ名前に透明な目が英二を見てくれる。
見つめる眼差しが切なげで、それでも温かに笑んだ目が優しい。
こんな顔から国村にとって「失う」ことの痛みが知らされる。
…大切なひとって誰よりもさ、一番きれいで失うの怖いよな…雪のなかで俺はよく感じるかな
今冬1月、冬富士で国村が言った言葉が忘れられない。
雪に抱かれて大切なひとを失った記憶、この哀しみは今も国村の心に恐怖を紡ぎだす。
氷雪、山の冷厳に見つめた哀切の記憶。
この記憶が8歳から国村は始まった、その初めてが最も深い傷に心抉った。
生まれてすぐ抱きあげ産湯を浸からせてくれた、大好きな人。
いつも一緒にいたいと願い、初めてアンザイレンザイルを繋ぎたいと願った相手、吉村雅樹。
あの美しい山ヤの医学生が、最初に生命を消した。
それから5年。
13歳を迎える晩春には両親が、高峰マナスルのセラック崩壊に抱込められて眠りについた。
そのあと10年後の晩秋に、敬愛する田中が氷雨に斃れ地元御岳の山で亡くなった。
―そして、俺が3月に雪崩に遭ったんだ。それも巡回コースで、
鋸尾根での表層雪崩に巻かれて、沢へ引き摺りこまれ落とされて。
脱臼した左足首を引き摺りながら左側頭に流血こぼし、二次雪崩の危険から逃れ出た。
それでも負傷の発熱に倒れかけた時、国村が来てくれた。
―…宮田!みやた!待ってろ、すぐ行く、
名前を叫んでくれた、透明なテノールの響きは痛切だった。
どうか消えないで?
待っていて、すぐに行くから消えないで?
お願いだから、今すぐに行くから、置いて行かないで?失うのは、もう、嫌だ!
そんな響きに聲は叫んで、深い雪のなか自分を背負ってくれた。
あのときスカイブルーの背中が温かで、熱に引き摺りこまれる意識のなか確信した。
きっと、あの写真の背中は国村だった。
警察学校で見た、警視庁山岳救助隊の資料たち。
あのなかで、殊更に心惹きつけられた一枚の写真があった。
雲取山の尾根、雪上に立つスカイブルーの背中。
その向こうには救助ヘリコプターがホバリングの風巻起こし、スカイブルーの冬隊服が靡いていた。
今より少し細い肩だった、けれど真直ぐ雪面に立つ姿は凛然と頼もしかった。
この背中に自分も成りたい、そうしたら周太を救けられるかもしれない。
この願いに自分は、山岳救助隊の道を志願した。
あのスカイブルーの背中が今、この隣に佇んでいる。
いつものように英二の隣に立って、英二を失いたくないと願い不安を抱いてくれる。
この求めてくれる想いには、最初に失った人と「約束」への想いも重ねられている。
だからこそ、自分は必ず約束ごと護ってやりたいと願う。その願いのまま英二は大切なパートナーに微笑んだ。
「俺は死なないよ?まだ約束が終わっていないからさ。だから、そんな顔するなよ?」
笑いかけた先で、透明な目が笑ってくれる。
けれど雪白の貌は泣笑いになって、涙ひとつ落ちてしまった。
「ほら、大丈夫だからさ?国村、」
笑いかけながら茶を淹れる手を止めると、指で涙を拭ってやった。
涙拭っていく指を透明な目は見つめ、掌が離れると英二を見、微笑んだ。
「うん…だね、」
笑って国村は頷いてくれる。
けれど涙目が治らないまま困ったように、透明なテノールは笑った。
「ごめんね、俺、今日ってね?なんか毎年、情緒不安定になりやすいんだ。春の終わり、ってのも、あるかもだけど、」
白い手の甲で涙ぬぐって、笑ってくれる。
けれど、笑顔だからこそ尚更に切なくさせられてしまう。
切ない笑顔に笑いかけると、英二は淹れた茶と弁当の包みを盆に載せて休憩室の扉を開いた。
靴を脱ぎ、卓袱台に盆を乗せて、それから英二は親友を振向いて軽く腕を広げた。
「ほら、来いよ?胸貸してやるから、」
言葉に透明な目が見つめてくれる。
すこしだけ笑って、靴を脱いで国村は休憩室に上がりこんだ。
「ありがとね。でもさ、活動服、涙で汚したら悪いから、」
言って貰っただけで嬉しいから。
そんな顔で国村は、いつもの窓際に座りこみながら温かに笑んだ。
うれしそうで、けれど少し遠い目で笑う友人を見ながら英二は、静かに休憩室の扉を閉じた。
そして活動服の上着を脱ぐと、大切な友人の隣に座って綺麗に笑いかけた。
「これならいいだろ?ほら、ちゃんと泣けよ、」
笑って、白いシャツの肩を抱きよせてやる。
抱きよせられ頬よせた隣から、ほっと溜息に清澄な香がこぼれた。
「ばか……でも、ありがとう、ね…」
ぽとん、ワイシャツの肩に温もりが降りかかる。
そして御岳駐在の休憩室で、嗚咽の声が静かに響き始めた。
4月、卯月の終わり晩春の日。
今日は国内ファイナリスト・クライマー国村夫妻が、8,000m峰マナスルに抱かれ永遠の眠りについた日。
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(to be continude)
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