玲瓏、想い冴えわたり
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第45話 瓏月act.1―another,side tory「陽はまた昇る」
春醸す陽光が、窓から温もりふらせてくれる。
明るい光のなか講義の余韻見つめて、感想を小さな用紙へ丁寧に綴っていく。
ときおり考え、読み直し、紙面いっぱいに書き終えて、周太はシャーペンを置いた。
かたん、
同時に隣でも同じ音がして、振り向くと美代と目が合った。
全く同じ動きをしたらしい?
可笑しくて、ふたり顔を見合せ笑ってしまった。
「ね、湯原くんも今、書き終わったの?」
「ん、そう。美代さんもだね?」
「そうよ、同時になんて、面白いね、」
話ながら机を片付けて、鞄とブックバンドにまとめたテキストを持って席を立った。
そして講義室を見回した2人は、また顔を見合せた。
「ね…私たち、またビリッケツまで残っちゃったね?」
美代の言うとおり、講義室には誰もいなくなっていた。
3月末の時も最後の退席で、それも青木樹医に声をかけられてようやく気が付いた。
そして通年聴講の初日、今日も同じよう「ビリッケツ」になったらしい。
ちょっと恥ずかしい、けれど可笑しくて周太は羞みながら微笑んだ。
「ん…初日から、またやっちゃったね?」
いつの間に周りは退席して、どれたけ時間は過ぎたのだろう?
首傾げ見たクライマーウォッチのデジタル表示は12:20、講義終了から20分を過ぎていた。
「…20分経ってる、」
予想外の時刻が声になってこぼれおちた。
美代も隣で腕時計に首傾げて、困ったよう微笑んだ。
「この感想文、研究室に持って行っても大丈夫かな?でも、お昼どきだし、先生いらっしゃらないかな?」
「ん、大丈夫じゃないかな…入口にポストあったから、あそこにいれたら良いと思う」
話ながら階段式のスロープを降りて、ふと周太は黒板に気が付いた。
そこに書かれたチョークの白文字に、朗らかな笑顔で美代を振り向いた。
「ほら、美代さん。先生、メッセージ書いてくれてあるよ?」
『3号館学食におります。
お急ぎなら研究室ポストに投函でも良いですよ。
最後の方、読まれたら消してくださいね。青木』
「ね、学食、行くよね?」
きれいな明るい目が期待に笑っている。
出来れば青木樹医と一緒に食事して話したい、そんな期待が快活に笑う。
その期待は自分も同じだ、黒板消できれいに白文字を消しながら素直に周太は頷いた。
「ん、お昼食べたいし、行こう?」
楽しい期待に一緒に笑って、ふたり講堂の扉を開いた。
扉の外、緑あざやぐキャンパスは若葉の薫りが瑞々しい。
ほっと樹木の香に息吐いて、美代が笑った。
「ね?湯原くんも、集中すると周りが見えないタイプ?」
やっぱり同じなんだ。
さっき自分も感じたことに周太も笑い返した。
「ん、自分でも、ちょっと困るくらい。だから、山に登る時とか特に気をつけてるんだ、」
「私もよ。同じね?だから一緒だと相乗効果かな、」
愉しそうに美代は笑ってくれる。
周太も一緒に笑いながら、けれど今も哀しくなる記憶を口にした。
「でも俺、その所為で英二に…2回も怪我させているんだ、警察学校の山岳訓練と御岳山の巡回の時と、」
きれいな明るい目が少し驚いたよう、周太を見つめてくれる。
どういうことかな?そう聴いてくれる眼差しが温かで、素直に周太は口を開けた。
「警察学校の時はね、同期を助けるのに無理して俺、崖から落ちたんだ。それで英二が救けてくれて。
俺を背負って崖を登ってね…そのとき俺を背負ったザイルが、英二の肩に食いこんで…まだ傷痕が、残っているんだ、」
あれから何ヵ月になるだろう?
もう周太の怪我は全部治って消えた、それでも自責は痛いままでいる。
それなのに自分は、同じ事を繰り返した。
「御岳山はね、凍った雪を走ったせいで、また崖に落ちかけたんだ。落ちる前に英二が抱き留めてくれて。
でも雪に倒れこんだときに英二、腕を打撲したんだ。すぐ光一が応急処置してくれたから治ったけど…でも、俺の所為なの」
最後ため息になって、けれど周太は小さく微笑んだ。
「もう2回も俺、山で英二に迷惑かけているんだ。だから登山の本を読んで勉強してる…でも、難しい山は無理だよね、」
ほんとうは雪山の高峰にも行ってみたい。けれど、それは難しいことだと解っている。
周囲が見えなくなる心癖と傷めやすい喉が、雪の高峰では文字通りの命取りになってしまうから。
心癖と体質の問題は、努力だけて補えるものではない。そんな叶わない夢に小さく溜息ついた隣から、美代が笑ってくれた。
「いいなあ、湯原くん」
「え、…」
なにが「いいなあ」だろう?
不思議で見つめた先で、美代が明るく笑って羨んでくれた。
「宮田くんに2度も救けてもらえたなんて、ちょっと羨ましいね?しかも、おんぶと抱っこの両方。ね、嬉しかったでしょ?」
こういう捉え方もあるんだ?
美代らしい前向きな考え方が楽しい、嬉しくて周太も笑った。
「ん、うれしかった、英二に救けて貰えて…学校の時も、ほんとうは好きだったから、」
「あ、じゃあ、すごく嬉しかったね?宮田くん、どっちのときもカッコよかったんでしょ?」
自分事のよう喜んで、笑顔で話を促してくれる。
明るいトーンの友達が嬉しい、嬉しいまま素直に周太は答えた。
「ん、すごくカッコ良かったよ?…学校の時は、登山自体が初めてだったのに、救けてくれて。嬉しかったんだ、」
「すごい、初心者で救助に行ったの?宮田くん、ほんとに適性が高いのね?そのとき、もう湯原くんのこと好きだった?」
英二が褒められて嬉しい、でも続く質問が気恥ずかしい。
それでも周太は正直に頷いた。
「ん、…好きだった、って、こうなってから、教えてくれたよ?」
「やっぱり。そういうの、嬉しいね?私も見たかったな、初救助の宮田くん、」
気恥ずかしくて楽しい話で緑豊かなキャンパスを歩いていく。
周太も美代も、お互いに英二を好き。この「好き」をお互いに理解できる。
こんなふうに恋愛でもライバルで、お互い大好きな植物学も一緒に学んでいく約束をした。
この2つの重なる「好き」の理解でも、周太と美代は繋がっていられる。
こういう繋がりが楽しくて、信頼と認め合う気持ちが温かい。この今の想いに周太は微笑んだ。
…幸せだな、
ほんとうに今、自分は幸せだ。
こんな友達と一緒に今、夢を叶える場所を歩いて、夢の先生に会いに行ける。
この嬉しい「今」への感謝を想いながら、3号館の学食へと入っていった。
「あ、先生、」
すぐ美代が見つけて、周太に笑いかけてくれる。
ふたり青木准教授のもとへ行くと、日替わり定食を前に笑顔で迎えてくれた。
「おつかれさまでした、今日も楽しんで頂けましたか?」
「はい、とっても、」
可愛らしい声で美代が即答して微笑んだ。
こんな積極性は美代の明るい性格らしくて、良いなと思える。
周太は本来が一人っ子らしい内向的な性質だから、美代みたいな快活さは眩しい。
その点は対照的だな?こんな差異が楽しいなと思いながら、周太は青木准教授に尋ねた。
「お食事中に申し訳ありません、先生。いま感想用紙を、お渡ししてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです、」
眼鏡の奥で目を細めて、快活に青木樹医は笑ってくれる。
そして2人の顔を交互に見て、にこやかに提案してくれた。
「もし、よろしかったら、食事をご一緒してくれませんか?土曜に1人では、ちょっと味気ないので、」
この提案を待っていた。
ふたり一緒に笑顔で頷いて、食卓の椅子に鞄を置いた。
すぐ食事のトレイを持って戻ると、3人で学食らしいメニューを囲んだ。
箸をとり始めて周太は、今日から自分の教師になった人に笑いかけた。
「先生。本当は土日は、お休みですよね?国立大学の先生ですから、」
「はい、一応公務員ですからね。土日と祭日は休みです、」
丼飯を片手に気さくな笑顔が答えてくれる。
周太自身が公立大学の出身だから、国公立大学の教員が「公務員」なことは経験上から知っていた。
だから疑問を持っている。同じよう丼を抱えながら、周太は訊いてみたかった事を青木准教授に尋ねた。
「この講義は1年間、毎週土曜日の開講ですよね?先生は1年間ずっと、お休みを毎週返上される、ってことでしょうか?」
「そういう事になりますね、」
ちょっと悪戯が見つかった、そんな目が眼鏡の奥から笑ってくれる。
この返答に驚いたよう目をあげると、すこし遠慮がちに美代が口を開いた。
「あの、なんだか申し訳ないです。私、土曜はちょうど休みだから、通いやすくて良かったなあ、って単純に思っていました」
「申し訳なくないですよ?だからこその、土曜開講なんですから、」
快活な眼差しが「気にしないで良い」と微笑んだ。
微笑んだ目で2人を見、愉しそうに青木准教授は教えてくれた。
「この講義は、年齢制限を設けていないんです。学びたいと望む方なら、どなたにも機会があるようにしたくて。
それで学校や仕事のお休みが多い、土曜日にしました。森林科学ですから、実地のフィールドワークにも行く予定ですし。
それには丸一日使える土曜日の方が、私にとっても好都合なんですよ。平日だと他の講義も担当していますし、ゼミもあるので、」
この先生らしい動機だな?
なんだか嬉しくて周太は微笑んだ、隣でも美代も嬉しそうに笑っている。
きっと美代も同じ考えなのだろう、この「同じ」も嬉しいと思いながら、周太は懸念に口を開いた。
「嬉しいです。僕たち聴講生には、とても助かります。でも、大学は大丈夫なのでしょうか?…差し出がましい質問ですみません、」
さすがに出過ぎた質問だろうか?
そんな心配と見た向こうで、まだ若い准教授は嬉しそうに笑ってくれた。
「いいえ、心配して貰うのは嬉しいですよ?湯原くんは公立の大学だったから、状況も解かってしまいますよね、」
「はい。僕の母校では、シンポジウムとかの単発なら許可が貰えました。でも、定期的に毎週というのは無くて、」
国公立大学は、運営母体の自治体官公庁と同じカレンダーで原則は運営される。
それから外れることは所謂「お役所」なだけに容易くは無いだろうな?そう思って土曜の定期開講が不思議だった。
この疑問へと、青木准教授は悪戯っ子に微笑んだ。
「そうです、本当は休講日ですからね?大学にはご迷惑でしょう。でも『国立』の意味を、私なりの解釈で主張したんです。
皆さんの税金を使わせて頂く公共の学校である以上、皆さんに学問の利益を還元するのが、国立大学の本来の姿であるはずです。
ですから、誰もが学ぶ機会を得やすいように開講すべきだって、堂々わがまま通させて頂きました。恩師からの後押しも頂いてね、」
国立大学の教員であることの誇りと自由、そして責務。
その全てが、若く頼もしい学者にまばゆい。その姿はどこか山ヤの警察官や警察医たちと似ていた。
そして、山で見る英二や光一の姿に重なっていく。いつも見惚れる夢と誇りに生きる姿が、ここにもある。
こんなふうに自分も誇りを持てたら、どんなに嬉しいだろう?
…やっぱり、学問の世界でも出来るんだ。誇りと夢に生きられる、英二のように
そんな可能性が今、自分の前で1人の学者の姿を象って示されていく。
もちろん学問の道でも性格や体力的な適性があるし、専門的能力と知識欲の深度が問われる。
そして、学者の世界でも「運」が大きく関わることを経験から知っている。
この2年前ほんとうは、大学が応募してくれた研究論文が切欠で、留学の話が周太に提示されていた。
そこは機械工学の最高峰で、普通なら望めない留学先だった。けれど父の軌跡を追うことを選んで断ってしまった。
あんなふうに話を貰えるのかは「運」の力も大きくて、それを掴めば学者の道は大きく広がっていける。
あの「運」は心から感謝している、こんな自分に声をかけて貰えただけでも本当は嬉しかった。
あの留学を断り「運」を見送った、あの瞬間に自分は機械工学の世界を捨てた。
そのことに後悔は無い。あのとき父の軌跡と警察官の道を選んだからこそ、この幸せな「今」があるのだから。
それに、元々が父の進路では有利になると選択した学科だったから、本心から好きで望んだのでもなかった。
けれど今は、子供のとき大好きだった植物学の世界で、再び学問の道に立ちたいと願い始めている。
もう学問の「運」を自分は一度見送ってしまった。
それでも赦されるなら、もう一度だけ「運」のチャンスが欲しい。
これから夏を迎え本配属になったら、もう、いつ命終わっても不思議はない部署に行くだろう。
だから努力しても、この植物学への夢は途中に終わってしまうかもしれない。なにも残せないかもしれない。
それでも与えられるなら「運」が欲しい。たとえ途中で斃れることになっても、自分も夢に生きてみたい。
もし自分が斃れても、きっと今この隣で笑っている友達が自分の夢も抱いて、真直ぐ歩き続けてくれる。
望んで立った夢の世界で、誇りと自由と責務に自分を輝かせて生きること。
これは、人として生まれたら望みたい姿ではないだろうか。
ましてや自分は男、男として人生を歩むなら、自分だけが成し遂げられる仕事をしてみたい。
本来が華奢で小柄な体格、好みも中性的で小さい頃は女の子にも間違えられた。今も年齢より幼く見られてしまう。
そして依存心が高い甘えん坊の弱虫で泣き虫、本質も内向的過ぎるから、女性を守り家庭の柱になる生き方は難しい。
こんな自分は頼もしい懐を求めがちで、女性に憧れても年上だし、初恋と恋愛の相手は2人とも男性だった。
こういう自分は女の子と変わらないかもしれないと、自分でも想う。
…年上の女の人に憧れるのって、女の子同士は多いよね?しかも、かっこいい男の人にばっかり俺、恋してる
高校時代に、同性の先輩を慕う女の子を見たことがある。
いつも周太は花屋の女主人に見惚れるけれど、あの感覚と似ているかもしれない?
それに英二も光一も女性から憧れられ恋されることが多い、彼女たちの気持ちが自分は解かる気がする。
こういう恋愛傾向だから、美代と恋愛の話をしても解かりやすいのかもしれない。
それでも自分は、やっぱり男でいる。
だから父の軌跡を追うことも止められない、そのための努力も負けん気も強い。
そして今、心がもう望んでいる。男に生まれたのなら、夢と誇りに生きて何かを成し遂げてみたい。
たとえ途中で斃れても良いから、すこしの時間でも夢に生きてみたい、何かを少しでも遺したい。
そんな想いも自分は強いのだと、英二が夢を追う姿に気付かされた。
植物学の道でなら自分も、あんなふうに生きられるかもしれない。
可能性を今、目の前の教師の姿に周太は見つめてしまう。
この可能性が明るい光になって、迎える夏からの本配属にも心挫けないでいられる。
もし「運」が与えられるなら、自分は本来学問の道に立つべきなのだと、ここが正しい居場所と信じよう。
この国で森林科学の最高峰と言われる学府が、本当に自分の立つべき場所ならば、必ず自分は生きて無事に帰る。
この植物学の道が、自分の運命になってくれる?
この明るい光への想いに微笑んで、周太は自分の夢の先生へと笑いかけた。
「先生。この間、僕たちは川苔谷に行ったんです。百尋ノ滝と水源林を見てきました、」
「お、フィールドワークですね、」
楽しげに快活な眼差しは眼鏡の奥で微笑んでくれる。
丼を持ったまま美代と周太を見、青木樹医は嬉しそうに促してくれた。
「あの本に書いてあるのとは、変化もあったでしょう?お話、聴かせてくれますか?」
「はい、」
つい、ふたり一緒に頷いてしまった。
それが可笑しくて嬉しくて、友達と自分の先生と一緒に周太は声をあげて笑った。
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キャンパスを出たのは14時前だった。
最寄りの地下鉄に乗ってシートに落ち着くと、美代が微笑んだ。
「今日ね?光ちゃんのご両親の、お墓参りに朝は行ってきたの、」
今日。
この日の意味に自分も、記憶と共に心傷む。
いま胸締める切なさを見つめながら、おだかに周太は微笑んだ。
「ん、…今日、ご命日だね?」
11年前の今日、光一の両親は8,000m峰マナスルで亡くなった。
この日を今、英二と光一は2人で見つめているだろう。
…どうか光一のこと、笑わせてあげてほしい。英二…
昨夜の電話で自分は、今日のことを英二に願った。
なるべく光一と過ごしてあげてほしい、泣きたい時は抱きとめて安らぎの涙にしてあげて?
そんなふうに自分は、大好きな婚約者にお願いした。
この「今日」に光一が見つめる痛みを、解かり過ぎるほど知っているから願いたかった。
『行ってらっしゃい』
そう言って誰もが、大切な家族を見送るだろう。
この言葉を言うとき誰もが、きっと帰ってくると信じている。
『ただいま』
そう言ってもらえると信じている。
帰ってきてからの幸せな時間を信じて、この幸せは続くと思っている。
信じている、だからこそ、叶えられなかった「ただいま」に心は砕かれ傷んでしまう。
自分の父は、コンクリートジャングルと呼ばれる街のアスファルトの上で亡くなった。
父は山の時間を愛するひとだった、けれど警察官として都会の真中に一発の銃弾で斃された。
あの日だって自分と母は、父を「行ってらっしゃい」と見送って「ただいま」が聴けると信じていた。
それは光一も、同じだったろう。都会と山と、送りだす場所は違っていても、想いは変わらない。
山ヤなら、山で死ぬこともある。
そう誰もが言うだろう、その覚悟を山ヤの誰も抱いているだろう。
あのとき光一は13歳を迎える直前だったけれど、既に光一自身が山ヤだった。
だから当然あのときも、山ヤの覚悟を光一は抱いていただろう。もう8歳で大切なパートナーを山に逝かせた光一だから、尚更に。
それでも。どんなに覚悟していても、現実に自分の大切なひとが消えたなら、心痛まない人などいない。
…英二なら、出来るよね…光一の傷を癒すことも
きっと英二になら出来る、そんな信頼がある。
この自分も負っている傷を、英二は癒してくれるから。
信頼する婚約者への願いを祈りながら、いま隣に座る友人に周太は微笑んだ。
「美代さんは、光一のご両親とも仲良かった、って言ってたね、」
「うん、焚火でごはん作ったりしてくれたの。地元だけど山に連れて行ってくれて、キャンプしたりね。すごく楽しかった、」
楽しい想い出に微笑んで美代は教えてくれる。
きっと、あの光一の両親なら楽しいひと達だったろうな?この温かな印象に周太は微笑んだ。
「光一のご両親、すてきな人達だね。お会いしてみたかったな、」
「うん、とっても素敵よ、ふたりとも。…でも、ね、」
笑顔で相槌を打った後、ふっと美代は寂しげな顔になってしまった。
なにか話し難いことがあるのかもしれない、そんな空気に周太は笑いかけた。
「無理には、話さないでいいよ?…美代さんが話したいことだけ、話して?」
「ありがとう、じゃあ、話したいな。ほんとはね…ずっと抱え込んでるの、ちょっと哀しかったの、」
きれいな明るい目が笑ってくれる。
そして胸につかえていたことに美代は口を開いた。
「あのね、お葬式の日はお手伝いしていたの、私。そのときに弔問客で、ちょっと目立つ3人組がいたの。
同じ喪服でも、すごく贅沢な感じなのを着ていて。すらっとした六十位のご夫婦と、大学生くらいの綺麗な男の人で。
その人達をね、光ちゃんのお祖父さん達は母屋にお招きしたの。だから私だけ台所で、お茶を出す支度をしていたのね。
支度が出来て、お盆を持とうとしたら。急に光ちゃんが台所に来て、塩の壺を持って行っちゃったの、無表情で…無言のまんまで、」
ゆっくり1つ、きれいな明るい目が瞬いた。
そのときの途惑い写すよう困った顔で、美代は言葉を続けてくれた。
「びっくりして、私。どうして良いか解らなくて台所にいたら、玄関が開いて閉まる音がして…お祖母さんが台所に来てくれて。
お祖母さんが持ってきた塩の壺は、空っぽだったの。お祖母さん、笑って『ありがとうね、帰って良いよ』って、言ってくれて。
このこと、光ちゃんも、お祖父さんも、お祖母さんも、何も言わないの…でも、なにがあったのか、なんとなく解かるから…ね?」
言葉をきると、ほっと息吐いて、美代は周太に微笑んだ。
その微笑はどこか寂しげなまま、教えてくれえた。
「このこと話したの、今が初めてよ?なんか触れちゃいけない気がして、ずっと黙っていたから…湯原くんだから、話せるの、」
触れてはいけない、そんな気持ちは解かる。
その「3人組」は、かけおち同然で結婚したと言う光一の母の、家族だろう。
この3人組について国村家では、たぶん塩壺の記憶と一緒に禁忌となっている。
それを唯ひとり秘密に口閉ざしてきた美代は、本当は辛かったろう。この理解と共感に周太は笑いかけた。
「ん、そうだね…美代さん、11年間ずっと黙っていたの、おつかれさま、」
「あ、なんかそう言われると、面白いね?」
きれいな明るい目が笑ってくれる。
けれど、どこか寂しげな笑顔のまま美代は周太に言ってくれた。
「光ちゃんってね、私と幼馴染で、赤ちゃんの時からのつきあいでしょう?お互い、きょうだいみたいで。
けれど、話してくれないことって多いのね。この事もそうだし…黙っているには、理由があるって解っているのよ?
でも寂しいなって想うし、光ちゃんが溜込むのも心配。だけど光ちゃんにとって私は、話す相手じゃない。これって、仕方ないね?」
ほんとうに仕方のないことだろう。
全てを話せると相手を想う、それは限られていることだから。
それは付き合いの長さすら関係ない、ただそう想えるのか、どうかだろう。
まして男女では感覚の相違も多い。男倫理の強い光一からすれば、聡明でも女性の美代には話せないかもしれない。
そんな「仕方ない」に周太は微笑んだ。
「でも、俺にとっては美代さんが、話せる相手だよ。英二にも言っていないこと、美代さんには話してるよ?」
これは本当のこと。
もちろん父の軌跡の謎は美代には絶対話せない、危険が及ぶ可能性が怖いから。
けれど植物学のことや夢のこと、自分のコンプレックスまでも美代には素直に話せてしまう。
自分にとっては、あなただよ?そう素直に微笑んだ周太に、美代は嬉しそうに笑ってくれた。
「私もね、湯原くんだけに話してること、いっぱいよ?私、光ちゃん以外の男の人と、こんなに話したこと無かったの。
でも、湯原くんには女の子の友達よりも、もっと色んなこと話しちゃうの。隠れ家も教えたいし。なんか不思議だけど、自然にそうなの、」
同じように想って貰えている。
こういう同じが嬉しい、嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「ん、俺もそうだよ?…女の人と、こんなに話せるのって美代さんが初めてだし、こういう友達も初めてだから、」
周太と美代が男女でも、こうも互いに解かりあう友人でいることは稀有だろう。
こんなふうに「話せる相手」は、いつどこで、どんな相手と出会うのか解からない。会えないこともあるだろう。
けれど自分は出会えている。この感謝と見つめる真中で、美代は笑顔で話を続けてくれた。
「光ちゃんは気難し屋で、なかなか人に話せないでしょ?でも光ちゃん、宮田くんには何でも話せているみたい。
田中のおじいさんにも色々話していたけど、それよりずっと。だから、光ちゃんが宮田くんに恋するとしても、納得かな?でね、」
きれいな明るい目が可笑しそうに笑んでいる。
温かに目を笑ませたまま、すこし悪戯っ子のトーンで美代は言ってくれた。
「あの気難しい光ちゃんすら信頼させて、好かれちゃう宮田くんにね、私は惚れちゃうわけです。困った片想いよね?」
からり明るく言って美代はきれいに笑った。
こんなことも明るく言って周太と笑おうとしてくれる、この大らかな友達が周太は好きだ。
この明るさに自分も応えたいな?微笑んで周太も口を開いた。
「ん。英二は、かっこいいからね?でも、俺の婚約者だから。ごめんね?」
「あ、ちょっと憎らしいね、」
口では憎らしいと言っている、けれど美代の目は「大好きよ」と温かに笑っていた。
(to be continued)
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第45話 瓏月act.1―another,side tory「陽はまた昇る」
春醸す陽光が、窓から温もりふらせてくれる。
明るい光のなか講義の余韻見つめて、感想を小さな用紙へ丁寧に綴っていく。
ときおり考え、読み直し、紙面いっぱいに書き終えて、周太はシャーペンを置いた。
かたん、
同時に隣でも同じ音がして、振り向くと美代と目が合った。
全く同じ動きをしたらしい?
可笑しくて、ふたり顔を見合せ笑ってしまった。
「ね、湯原くんも今、書き終わったの?」
「ん、そう。美代さんもだね?」
「そうよ、同時になんて、面白いね、」
話ながら机を片付けて、鞄とブックバンドにまとめたテキストを持って席を立った。
そして講義室を見回した2人は、また顔を見合せた。
「ね…私たち、またビリッケツまで残っちゃったね?」
美代の言うとおり、講義室には誰もいなくなっていた。
3月末の時も最後の退席で、それも青木樹医に声をかけられてようやく気が付いた。
そして通年聴講の初日、今日も同じよう「ビリッケツ」になったらしい。
ちょっと恥ずかしい、けれど可笑しくて周太は羞みながら微笑んだ。
「ん…初日から、またやっちゃったね?」
いつの間に周りは退席して、どれたけ時間は過ぎたのだろう?
首傾げ見たクライマーウォッチのデジタル表示は12:20、講義終了から20分を過ぎていた。
「…20分経ってる、」
予想外の時刻が声になってこぼれおちた。
美代も隣で腕時計に首傾げて、困ったよう微笑んだ。
「この感想文、研究室に持って行っても大丈夫かな?でも、お昼どきだし、先生いらっしゃらないかな?」
「ん、大丈夫じゃないかな…入口にポストあったから、あそこにいれたら良いと思う」
話ながら階段式のスロープを降りて、ふと周太は黒板に気が付いた。
そこに書かれたチョークの白文字に、朗らかな笑顔で美代を振り向いた。
「ほら、美代さん。先生、メッセージ書いてくれてあるよ?」
『3号館学食におります。
お急ぎなら研究室ポストに投函でも良いですよ。
最後の方、読まれたら消してくださいね。青木』
「ね、学食、行くよね?」
きれいな明るい目が期待に笑っている。
出来れば青木樹医と一緒に食事して話したい、そんな期待が快活に笑う。
その期待は自分も同じだ、黒板消できれいに白文字を消しながら素直に周太は頷いた。
「ん、お昼食べたいし、行こう?」
楽しい期待に一緒に笑って、ふたり講堂の扉を開いた。
扉の外、緑あざやぐキャンパスは若葉の薫りが瑞々しい。
ほっと樹木の香に息吐いて、美代が笑った。
「ね?湯原くんも、集中すると周りが見えないタイプ?」
やっぱり同じなんだ。
さっき自分も感じたことに周太も笑い返した。
「ん、自分でも、ちょっと困るくらい。だから、山に登る時とか特に気をつけてるんだ、」
「私もよ。同じね?だから一緒だと相乗効果かな、」
愉しそうに美代は笑ってくれる。
周太も一緒に笑いながら、けれど今も哀しくなる記憶を口にした。
「でも俺、その所為で英二に…2回も怪我させているんだ、警察学校の山岳訓練と御岳山の巡回の時と、」
きれいな明るい目が少し驚いたよう、周太を見つめてくれる。
どういうことかな?そう聴いてくれる眼差しが温かで、素直に周太は口を開けた。
「警察学校の時はね、同期を助けるのに無理して俺、崖から落ちたんだ。それで英二が救けてくれて。
俺を背負って崖を登ってね…そのとき俺を背負ったザイルが、英二の肩に食いこんで…まだ傷痕が、残っているんだ、」
あれから何ヵ月になるだろう?
もう周太の怪我は全部治って消えた、それでも自責は痛いままでいる。
それなのに自分は、同じ事を繰り返した。
「御岳山はね、凍った雪を走ったせいで、また崖に落ちかけたんだ。落ちる前に英二が抱き留めてくれて。
でも雪に倒れこんだときに英二、腕を打撲したんだ。すぐ光一が応急処置してくれたから治ったけど…でも、俺の所為なの」
最後ため息になって、けれど周太は小さく微笑んだ。
「もう2回も俺、山で英二に迷惑かけているんだ。だから登山の本を読んで勉強してる…でも、難しい山は無理だよね、」
ほんとうは雪山の高峰にも行ってみたい。けれど、それは難しいことだと解っている。
周囲が見えなくなる心癖と傷めやすい喉が、雪の高峰では文字通りの命取りになってしまうから。
心癖と体質の問題は、努力だけて補えるものではない。そんな叶わない夢に小さく溜息ついた隣から、美代が笑ってくれた。
「いいなあ、湯原くん」
「え、…」
なにが「いいなあ」だろう?
不思議で見つめた先で、美代が明るく笑って羨んでくれた。
「宮田くんに2度も救けてもらえたなんて、ちょっと羨ましいね?しかも、おんぶと抱っこの両方。ね、嬉しかったでしょ?」
こういう捉え方もあるんだ?
美代らしい前向きな考え方が楽しい、嬉しくて周太も笑った。
「ん、うれしかった、英二に救けて貰えて…学校の時も、ほんとうは好きだったから、」
「あ、じゃあ、すごく嬉しかったね?宮田くん、どっちのときもカッコよかったんでしょ?」
自分事のよう喜んで、笑顔で話を促してくれる。
明るいトーンの友達が嬉しい、嬉しいまま素直に周太は答えた。
「ん、すごくカッコ良かったよ?…学校の時は、登山自体が初めてだったのに、救けてくれて。嬉しかったんだ、」
「すごい、初心者で救助に行ったの?宮田くん、ほんとに適性が高いのね?そのとき、もう湯原くんのこと好きだった?」
英二が褒められて嬉しい、でも続く質問が気恥ずかしい。
それでも周太は正直に頷いた。
「ん、…好きだった、って、こうなってから、教えてくれたよ?」
「やっぱり。そういうの、嬉しいね?私も見たかったな、初救助の宮田くん、」
気恥ずかしくて楽しい話で緑豊かなキャンパスを歩いていく。
周太も美代も、お互いに英二を好き。この「好き」をお互いに理解できる。
こんなふうに恋愛でもライバルで、お互い大好きな植物学も一緒に学んでいく約束をした。
この2つの重なる「好き」の理解でも、周太と美代は繋がっていられる。
こういう繋がりが楽しくて、信頼と認め合う気持ちが温かい。この今の想いに周太は微笑んだ。
…幸せだな、
ほんとうに今、自分は幸せだ。
こんな友達と一緒に今、夢を叶える場所を歩いて、夢の先生に会いに行ける。
この嬉しい「今」への感謝を想いながら、3号館の学食へと入っていった。
「あ、先生、」
すぐ美代が見つけて、周太に笑いかけてくれる。
ふたり青木准教授のもとへ行くと、日替わり定食を前に笑顔で迎えてくれた。
「おつかれさまでした、今日も楽しんで頂けましたか?」
「はい、とっても、」
可愛らしい声で美代が即答して微笑んだ。
こんな積極性は美代の明るい性格らしくて、良いなと思える。
周太は本来が一人っ子らしい内向的な性質だから、美代みたいな快活さは眩しい。
その点は対照的だな?こんな差異が楽しいなと思いながら、周太は青木准教授に尋ねた。
「お食事中に申し訳ありません、先生。いま感想用紙を、お渡ししてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです、」
眼鏡の奥で目を細めて、快活に青木樹医は笑ってくれる。
そして2人の顔を交互に見て、にこやかに提案してくれた。
「もし、よろしかったら、食事をご一緒してくれませんか?土曜に1人では、ちょっと味気ないので、」
この提案を待っていた。
ふたり一緒に笑顔で頷いて、食卓の椅子に鞄を置いた。
すぐ食事のトレイを持って戻ると、3人で学食らしいメニューを囲んだ。
箸をとり始めて周太は、今日から自分の教師になった人に笑いかけた。
「先生。本当は土日は、お休みですよね?国立大学の先生ですから、」
「はい、一応公務員ですからね。土日と祭日は休みです、」
丼飯を片手に気さくな笑顔が答えてくれる。
周太自身が公立大学の出身だから、国公立大学の教員が「公務員」なことは経験上から知っていた。
だから疑問を持っている。同じよう丼を抱えながら、周太は訊いてみたかった事を青木准教授に尋ねた。
「この講義は1年間、毎週土曜日の開講ですよね?先生は1年間ずっと、お休みを毎週返上される、ってことでしょうか?」
「そういう事になりますね、」
ちょっと悪戯が見つかった、そんな目が眼鏡の奥から笑ってくれる。
この返答に驚いたよう目をあげると、すこし遠慮がちに美代が口を開いた。
「あの、なんだか申し訳ないです。私、土曜はちょうど休みだから、通いやすくて良かったなあ、って単純に思っていました」
「申し訳なくないですよ?だからこその、土曜開講なんですから、」
快活な眼差しが「気にしないで良い」と微笑んだ。
微笑んだ目で2人を見、愉しそうに青木准教授は教えてくれた。
「この講義は、年齢制限を設けていないんです。学びたいと望む方なら、どなたにも機会があるようにしたくて。
それで学校や仕事のお休みが多い、土曜日にしました。森林科学ですから、実地のフィールドワークにも行く予定ですし。
それには丸一日使える土曜日の方が、私にとっても好都合なんですよ。平日だと他の講義も担当していますし、ゼミもあるので、」
この先生らしい動機だな?
なんだか嬉しくて周太は微笑んだ、隣でも美代も嬉しそうに笑っている。
きっと美代も同じ考えなのだろう、この「同じ」も嬉しいと思いながら、周太は懸念に口を開いた。
「嬉しいです。僕たち聴講生には、とても助かります。でも、大学は大丈夫なのでしょうか?…差し出がましい質問ですみません、」
さすがに出過ぎた質問だろうか?
そんな心配と見た向こうで、まだ若い准教授は嬉しそうに笑ってくれた。
「いいえ、心配して貰うのは嬉しいですよ?湯原くんは公立の大学だったから、状況も解かってしまいますよね、」
「はい。僕の母校では、シンポジウムとかの単発なら許可が貰えました。でも、定期的に毎週というのは無くて、」
国公立大学は、運営母体の自治体官公庁と同じカレンダーで原則は運営される。
それから外れることは所謂「お役所」なだけに容易くは無いだろうな?そう思って土曜の定期開講が不思議だった。
この疑問へと、青木准教授は悪戯っ子に微笑んだ。
「そうです、本当は休講日ですからね?大学にはご迷惑でしょう。でも『国立』の意味を、私なりの解釈で主張したんです。
皆さんの税金を使わせて頂く公共の学校である以上、皆さんに学問の利益を還元するのが、国立大学の本来の姿であるはずです。
ですから、誰もが学ぶ機会を得やすいように開講すべきだって、堂々わがまま通させて頂きました。恩師からの後押しも頂いてね、」
国立大学の教員であることの誇りと自由、そして責務。
その全てが、若く頼もしい学者にまばゆい。その姿はどこか山ヤの警察官や警察医たちと似ていた。
そして、山で見る英二や光一の姿に重なっていく。いつも見惚れる夢と誇りに生きる姿が、ここにもある。
こんなふうに自分も誇りを持てたら、どんなに嬉しいだろう?
…やっぱり、学問の世界でも出来るんだ。誇りと夢に生きられる、英二のように
そんな可能性が今、自分の前で1人の学者の姿を象って示されていく。
もちろん学問の道でも性格や体力的な適性があるし、専門的能力と知識欲の深度が問われる。
そして、学者の世界でも「運」が大きく関わることを経験から知っている。
この2年前ほんとうは、大学が応募してくれた研究論文が切欠で、留学の話が周太に提示されていた。
そこは機械工学の最高峰で、普通なら望めない留学先だった。けれど父の軌跡を追うことを選んで断ってしまった。
あんなふうに話を貰えるのかは「運」の力も大きくて、それを掴めば学者の道は大きく広がっていける。
あの「運」は心から感謝している、こんな自分に声をかけて貰えただけでも本当は嬉しかった。
あの留学を断り「運」を見送った、あの瞬間に自分は機械工学の世界を捨てた。
そのことに後悔は無い。あのとき父の軌跡と警察官の道を選んだからこそ、この幸せな「今」があるのだから。
それに、元々が父の進路では有利になると選択した学科だったから、本心から好きで望んだのでもなかった。
けれど今は、子供のとき大好きだった植物学の世界で、再び学問の道に立ちたいと願い始めている。
もう学問の「運」を自分は一度見送ってしまった。
それでも赦されるなら、もう一度だけ「運」のチャンスが欲しい。
これから夏を迎え本配属になったら、もう、いつ命終わっても不思議はない部署に行くだろう。
だから努力しても、この植物学への夢は途中に終わってしまうかもしれない。なにも残せないかもしれない。
それでも与えられるなら「運」が欲しい。たとえ途中で斃れることになっても、自分も夢に生きてみたい。
もし自分が斃れても、きっと今この隣で笑っている友達が自分の夢も抱いて、真直ぐ歩き続けてくれる。
望んで立った夢の世界で、誇りと自由と責務に自分を輝かせて生きること。
これは、人として生まれたら望みたい姿ではないだろうか。
ましてや自分は男、男として人生を歩むなら、自分だけが成し遂げられる仕事をしてみたい。
本来が華奢で小柄な体格、好みも中性的で小さい頃は女の子にも間違えられた。今も年齢より幼く見られてしまう。
そして依存心が高い甘えん坊の弱虫で泣き虫、本質も内向的過ぎるから、女性を守り家庭の柱になる生き方は難しい。
こんな自分は頼もしい懐を求めがちで、女性に憧れても年上だし、初恋と恋愛の相手は2人とも男性だった。
こういう自分は女の子と変わらないかもしれないと、自分でも想う。
…年上の女の人に憧れるのって、女の子同士は多いよね?しかも、かっこいい男の人にばっかり俺、恋してる
高校時代に、同性の先輩を慕う女の子を見たことがある。
いつも周太は花屋の女主人に見惚れるけれど、あの感覚と似ているかもしれない?
それに英二も光一も女性から憧れられ恋されることが多い、彼女たちの気持ちが自分は解かる気がする。
こういう恋愛傾向だから、美代と恋愛の話をしても解かりやすいのかもしれない。
それでも自分は、やっぱり男でいる。
だから父の軌跡を追うことも止められない、そのための努力も負けん気も強い。
そして今、心がもう望んでいる。男に生まれたのなら、夢と誇りに生きて何かを成し遂げてみたい。
たとえ途中で斃れても良いから、すこしの時間でも夢に生きてみたい、何かを少しでも遺したい。
そんな想いも自分は強いのだと、英二が夢を追う姿に気付かされた。
植物学の道でなら自分も、あんなふうに生きられるかもしれない。
可能性を今、目の前の教師の姿に周太は見つめてしまう。
この可能性が明るい光になって、迎える夏からの本配属にも心挫けないでいられる。
もし「運」が与えられるなら、自分は本来学問の道に立つべきなのだと、ここが正しい居場所と信じよう。
この国で森林科学の最高峰と言われる学府が、本当に自分の立つべき場所ならば、必ず自分は生きて無事に帰る。
この植物学の道が、自分の運命になってくれる?
この明るい光への想いに微笑んで、周太は自分の夢の先生へと笑いかけた。
「先生。この間、僕たちは川苔谷に行ったんです。百尋ノ滝と水源林を見てきました、」
「お、フィールドワークですね、」
楽しげに快活な眼差しは眼鏡の奥で微笑んでくれる。
丼を持ったまま美代と周太を見、青木樹医は嬉しそうに促してくれた。
「あの本に書いてあるのとは、変化もあったでしょう?お話、聴かせてくれますか?」
「はい、」
つい、ふたり一緒に頷いてしまった。
それが可笑しくて嬉しくて、友達と自分の先生と一緒に周太は声をあげて笑った。
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キャンパスを出たのは14時前だった。
最寄りの地下鉄に乗ってシートに落ち着くと、美代が微笑んだ。
「今日ね?光ちゃんのご両親の、お墓参りに朝は行ってきたの、」
今日。
この日の意味に自分も、記憶と共に心傷む。
いま胸締める切なさを見つめながら、おだかに周太は微笑んだ。
「ん、…今日、ご命日だね?」
11年前の今日、光一の両親は8,000m峰マナスルで亡くなった。
この日を今、英二と光一は2人で見つめているだろう。
…どうか光一のこと、笑わせてあげてほしい。英二…
昨夜の電話で自分は、今日のことを英二に願った。
なるべく光一と過ごしてあげてほしい、泣きたい時は抱きとめて安らぎの涙にしてあげて?
そんなふうに自分は、大好きな婚約者にお願いした。
この「今日」に光一が見つめる痛みを、解かり過ぎるほど知っているから願いたかった。
『行ってらっしゃい』
そう言って誰もが、大切な家族を見送るだろう。
この言葉を言うとき誰もが、きっと帰ってくると信じている。
『ただいま』
そう言ってもらえると信じている。
帰ってきてからの幸せな時間を信じて、この幸せは続くと思っている。
信じている、だからこそ、叶えられなかった「ただいま」に心は砕かれ傷んでしまう。
自分の父は、コンクリートジャングルと呼ばれる街のアスファルトの上で亡くなった。
父は山の時間を愛するひとだった、けれど警察官として都会の真中に一発の銃弾で斃された。
あの日だって自分と母は、父を「行ってらっしゃい」と見送って「ただいま」が聴けると信じていた。
それは光一も、同じだったろう。都会と山と、送りだす場所は違っていても、想いは変わらない。
山ヤなら、山で死ぬこともある。
そう誰もが言うだろう、その覚悟を山ヤの誰も抱いているだろう。
あのとき光一は13歳を迎える直前だったけれど、既に光一自身が山ヤだった。
だから当然あのときも、山ヤの覚悟を光一は抱いていただろう。もう8歳で大切なパートナーを山に逝かせた光一だから、尚更に。
それでも。どんなに覚悟していても、現実に自分の大切なひとが消えたなら、心痛まない人などいない。
…英二なら、出来るよね…光一の傷を癒すことも
きっと英二になら出来る、そんな信頼がある。
この自分も負っている傷を、英二は癒してくれるから。
信頼する婚約者への願いを祈りながら、いま隣に座る友人に周太は微笑んだ。
「美代さんは、光一のご両親とも仲良かった、って言ってたね、」
「うん、焚火でごはん作ったりしてくれたの。地元だけど山に連れて行ってくれて、キャンプしたりね。すごく楽しかった、」
楽しい想い出に微笑んで美代は教えてくれる。
きっと、あの光一の両親なら楽しいひと達だったろうな?この温かな印象に周太は微笑んだ。
「光一のご両親、すてきな人達だね。お会いしてみたかったな、」
「うん、とっても素敵よ、ふたりとも。…でも、ね、」
笑顔で相槌を打った後、ふっと美代は寂しげな顔になってしまった。
なにか話し難いことがあるのかもしれない、そんな空気に周太は笑いかけた。
「無理には、話さないでいいよ?…美代さんが話したいことだけ、話して?」
「ありがとう、じゃあ、話したいな。ほんとはね…ずっと抱え込んでるの、ちょっと哀しかったの、」
きれいな明るい目が笑ってくれる。
そして胸につかえていたことに美代は口を開いた。
「あのね、お葬式の日はお手伝いしていたの、私。そのときに弔問客で、ちょっと目立つ3人組がいたの。
同じ喪服でも、すごく贅沢な感じなのを着ていて。すらっとした六十位のご夫婦と、大学生くらいの綺麗な男の人で。
その人達をね、光ちゃんのお祖父さん達は母屋にお招きしたの。だから私だけ台所で、お茶を出す支度をしていたのね。
支度が出来て、お盆を持とうとしたら。急に光ちゃんが台所に来て、塩の壺を持って行っちゃったの、無表情で…無言のまんまで、」
ゆっくり1つ、きれいな明るい目が瞬いた。
そのときの途惑い写すよう困った顔で、美代は言葉を続けてくれた。
「びっくりして、私。どうして良いか解らなくて台所にいたら、玄関が開いて閉まる音がして…お祖母さんが台所に来てくれて。
お祖母さんが持ってきた塩の壺は、空っぽだったの。お祖母さん、笑って『ありがとうね、帰って良いよ』って、言ってくれて。
このこと、光ちゃんも、お祖父さんも、お祖母さんも、何も言わないの…でも、なにがあったのか、なんとなく解かるから…ね?」
言葉をきると、ほっと息吐いて、美代は周太に微笑んだ。
その微笑はどこか寂しげなまま、教えてくれえた。
「このこと話したの、今が初めてよ?なんか触れちゃいけない気がして、ずっと黙っていたから…湯原くんだから、話せるの、」
触れてはいけない、そんな気持ちは解かる。
その「3人組」は、かけおち同然で結婚したと言う光一の母の、家族だろう。
この3人組について国村家では、たぶん塩壺の記憶と一緒に禁忌となっている。
それを唯ひとり秘密に口閉ざしてきた美代は、本当は辛かったろう。この理解と共感に周太は笑いかけた。
「ん、そうだね…美代さん、11年間ずっと黙っていたの、おつかれさま、」
「あ、なんかそう言われると、面白いね?」
きれいな明るい目が笑ってくれる。
けれど、どこか寂しげな笑顔のまま美代は周太に言ってくれた。
「光ちゃんってね、私と幼馴染で、赤ちゃんの時からのつきあいでしょう?お互い、きょうだいみたいで。
けれど、話してくれないことって多いのね。この事もそうだし…黙っているには、理由があるって解っているのよ?
でも寂しいなって想うし、光ちゃんが溜込むのも心配。だけど光ちゃんにとって私は、話す相手じゃない。これって、仕方ないね?」
ほんとうに仕方のないことだろう。
全てを話せると相手を想う、それは限られていることだから。
それは付き合いの長さすら関係ない、ただそう想えるのか、どうかだろう。
まして男女では感覚の相違も多い。男倫理の強い光一からすれば、聡明でも女性の美代には話せないかもしれない。
そんな「仕方ない」に周太は微笑んだ。
「でも、俺にとっては美代さんが、話せる相手だよ。英二にも言っていないこと、美代さんには話してるよ?」
これは本当のこと。
もちろん父の軌跡の謎は美代には絶対話せない、危険が及ぶ可能性が怖いから。
けれど植物学のことや夢のこと、自分のコンプレックスまでも美代には素直に話せてしまう。
自分にとっては、あなただよ?そう素直に微笑んだ周太に、美代は嬉しそうに笑ってくれた。
「私もね、湯原くんだけに話してること、いっぱいよ?私、光ちゃん以外の男の人と、こんなに話したこと無かったの。
でも、湯原くんには女の子の友達よりも、もっと色んなこと話しちゃうの。隠れ家も教えたいし。なんか不思議だけど、自然にそうなの、」
同じように想って貰えている。
こういう同じが嬉しい、嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「ん、俺もそうだよ?…女の人と、こんなに話せるのって美代さんが初めてだし、こういう友達も初めてだから、」
周太と美代が男女でも、こうも互いに解かりあう友人でいることは稀有だろう。
こんなふうに「話せる相手」は、いつどこで、どんな相手と出会うのか解からない。会えないこともあるだろう。
けれど自分は出会えている。この感謝と見つめる真中で、美代は笑顔で話を続けてくれた。
「光ちゃんは気難し屋で、なかなか人に話せないでしょ?でも光ちゃん、宮田くんには何でも話せているみたい。
田中のおじいさんにも色々話していたけど、それよりずっと。だから、光ちゃんが宮田くんに恋するとしても、納得かな?でね、」
きれいな明るい目が可笑しそうに笑んでいる。
温かに目を笑ませたまま、すこし悪戯っ子のトーンで美代は言ってくれた。
「あの気難しい光ちゃんすら信頼させて、好かれちゃう宮田くんにね、私は惚れちゃうわけです。困った片想いよね?」
からり明るく言って美代はきれいに笑った。
こんなことも明るく言って周太と笑おうとしてくれる、この大らかな友達が周太は好きだ。
この明るさに自分も応えたいな?微笑んで周太も口を開いた。
「ん。英二は、かっこいいからね?でも、俺の婚約者だから。ごめんね?」
「あ、ちょっと憎らしいね、」
口では憎らしいと言っている、けれど美代の目は「大好きよ」と温かに笑っていた。
(to be continued)
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