月朧 廻らす因果、秘される由縁
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第45話 朧月act.3―side story「陽はまた昇る」
遭難事故も無いままに、業務は定時で終われた。
青梅署に戻り携行品を保管に預けて、登山ウェアに着替えると英二は申請書を書きだした。
書き終えた頃ちょうど部屋の扉が開かれて、雪白の顔が書面を覗き込んだ。
「もう出られる?…あれ、外泊申請書だね?って、なんでウェア着て…」
言い掛けたテノールが「意外だ」を含んで言葉を途切れさせる。
これから国村の実家で一緒に捜し物をする予定だから、確かに登山ウェアは意外だろう。
すこし驚いた細い目に笑いかけて、英二は未記入の申請書用紙を手渡した。
「はい、国村も書いてよ。訓練は全部、一緒にするんだろ、」
「それはそうだけど、ね…」
用紙を受け取り、すこし途惑ったよう見つめてくれる。
けれどお構いなしに英二はデスクを立って、代わりに国村を座らせた。
「捜し物が終わったら出よう。だから、遅くなるかもしれないけどさ。でも、行きたいだろ?」
持っていたペンを渡して笑いかけると、国村は1つ瞬いた。
そして底抜けに明るい目は嬉しそうに笑ってくれた。
「うん、だね、」
テノールの声が明るい。
愉しげに笑いながら国村も手早く申請書を書き上げて、立ち上がった。
「すぐ準備するね、これ、一緒に出しといてくれる?」
「うん、いいよ。出したら廊下にいるから、」
受け取りながら一緒に部屋を出て、扉に施錠する。
そして英二は担当窓口で2通の申請書を提出した。
「夜間訓練で雲取山1泊だね、いつも熱心だな。気をつけて行っておいで、連絡用に無線も携行してくださいね」
快く笑って、いつもどおり許可を出してくれた。
これで今夜を、雲取山頂に見つめることが出来る。
―…ウチの両親の四十九日もさ、こうして田中のじいさんと焚火したんだ。今日みたいに、この避難小屋に泊まってね…
お前の両親は奥多摩のクライマーだ、だから奥多摩の最高峰から送ってやろう…
それで俺を連れて登ってさ、この場所から送火してくれたんだ…山ヤの本望に、乾杯
田中の四十九日を送った夜に教えてくれたこと。
この話をしてくれた国村は、両親と田中への想いに安らぎ、そして思い切り泣いた。
だから今夜は国村を雲取山頂に連れて行ってやりたい、そう思って急に予定を決めた。
『ふざけるな!』
砕け散るカサブランカの花に、透明なテノールが叫んだ。
あの瞬間に見ていた涙の消えた泣顔は、あまりに辛く哀しかった。
あのあと山桜の下で涙ながし泣いて笑ってくれた、それでも涙も哀しみも詰まったままの笑顔は傷んでいた。
どうか今夜、心ごと泣いて、それから笑ってほしい。
そんな願いと佇んだ廊下の窓辺、ゆっくり夜が街を染めていく。
この急な予定を周太にメールして、そのまま奥多摩交番にいるはずの後藤副隊長へと通話を繋いだ。
「後藤だよ、どうしたんだい、宮田?」
「おつかれさまです、ちょっと急なんですけど夜間訓練で雲取山に登ります。国村も一緒です、」
「お、そうか。だったら例の件も、ついでに担当してくれるかい?」
公務に「ついで」って、良いのかな?
真面目な疑問に首傾げこみながら、英二は電話の向こうに微笑んだ。
「はい、そのつもりでご連絡しました。ご指示頂けますか、」
後藤からの指示に頷いて、短い通話を終えると英二は携帯をしまった。
ふと眺めた窓の外、街に燈火に灯りだす。この時間で夜迎える陽長に、季節の変遷が思われた。
もうすぐ初任科総合が始まる、そして本配属の夏が来る。迎える季節と廻る時に英二は、そっと覚悟に微笑んだ。
― かならず、間に合ってみせる。全てに
想いと薄暮に沈む廊下の向こう、ぱたんと扉の開いてしまる音が立った。
聞き覚えのある音にあげた視線の向うから、白いシャツ姿に登山ザック背負った笑顔が歩いてくる。
歩いてくる底抜けに明るい眼差しに、ふっと心ゆるんで英二は微笑んだ。
このパートナーが自分の隣に居てくれる。
誰より大らかで囚われない心と卓越した身体能力、そして怜悧で冷静沈着の豪胆。
この優れた男が自分と共に、この危険にも立ってくれる。
だからきっと、自分は全てに間に合うことが出来るだろう。
あの紺青色の日記に記された、哀しみの連鎖と50年の束縛から、きっと愛するひとを救うことが出来る。
そんな確信と共に、モノトーンの長身が温かな笑顔で英二の隣に立った。
「お待たせ、行こっかね?」
軽やかに笑ったテノールは、透けるほど明るい。
山っ子が聴かせる声の明るさに、なぜか希望が見えるようで英二は微笑んだ。
この今立っている現実、そこにひそむ残酷な記憶にすら希望は見いだせる。そんな気がした。
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国村の屋敷は、静かだった。
四駆を停めて降りた庭は、夜気に花の香がけぶるよう靡いていく。
まだ国村の祖母は経営する農家レストランから戻っていない、祖父も寄合で留守にしている。
この静寂の時間を利用して国村は、蔵の1つを開錠し閂を外した。
「おやじの本ね、家に入りきらない分は、ここに全部あるんだ、」
話しながら白い手がLEDランプを点けてくれる。
やわらなか明りに照らされた蔵の内部は、ひんやりと籠る空気が思ったより澄んでいる。
分厚い土蔵の壁、漆喰の白、分厚い感触の床。初めて佇む空間に英二は微笑んだ。
「俺、蔵の中って初めてはいるよ、」
「あれ、これもお初だったんだね?そりゃ光栄だな、」
からりテノールで笑いながら、奥の書棚を軽く雑巾で拭きあげてくれる。
天井近くまで大きくとられた頑丈な棚は、びっしりと書籍が並んでいく。
凄い量だな?そんな感想に見上げた英二に国村は笑いかけた。
「これとさ、あとこの木箱に入ってるんだよね。俺もまだ、全部は読み切れていないんだ、」
「凄い量だな、お父さん勉強家なんだな?」
素直な賞賛に笑いかけながら英二は書棚を覗きこんだ。
このなかでフランス語の背表紙を探していく、けれど量の多さに軽い溜息がこぼれてしまう。
けれど国村は、大きな木箱を雑巾で拭きあげ蓋を開くと言ってくれた。
「たぶんね、あるならコッチだと思うんだ。あとは書棚の最上段。この2カ所が俺のお手付き無しエリアだから、」
「え、じゃあ、他は全部読んだってことか?」
すこし驚いて英二は友人の顔を見た。
見つめた先で底抜けに明るい目は、なんでも無いよう英二を見て微笑んだ。
「うん、11年あったら、読めちゃうよね、」
国村の父が母と共に亡くなって、11年。
その時間を国村は父の蔵書たちと過ごしてきた、そう言っている。
この古いフランス文学書たちが父子の絆を繋いできた。そう思うとこの書籍たちを無礙には出来やしない。
そんな想いに英二は、大切に木箱の本を手に取った。
「この1冊ずつが、お父さんと国村の記憶を繋いでくれるんだな、」
床に広げた新聞紙へと、丁重に背表紙確かめた本を並べていく。
そんな英二の手つきと言葉に、底抜けに明るい目は笑ってくれた。
「うん、だね?…ありがと、宮田、」
今夜、この木箱を開こうと国村が想ったことは「今夜」の意味と無関係ではない。
この想いの隣に片膝ついて、英二は木箱の本を1冊ずつ眺めていった。
か、かん、か、かん、…
古い時計が時を刻む。
置かれたアンティークの時計は、見当違いの時間を示しながらも時刻音は絶やさない。
時の音とLED灯の淡いオレンジが照らす空間に、ふたり並んで1冊の本を探し求めた。
布張のハードカーバー、文庫本、新書、皮張表装。
大きな古い木箱には数多くの書籍が眠り、いま新聞紙の上に起こされていく。
けれど目当ての本にはまだ辿り着けない、それでも焦らず手に取りながらテノールが口を開いた。
「おまえさ、今朝、泣いていたよね?」
今朝、午前4時。英二は紺青色の日記帳を前に泣いた。
どうしてそれを国村は知っているのだろう?尋ねたい想いのまま英二は素直に微笑んだ。
「うん、泣いた。よく知ってるな、」
「あ、…ん、」
きまり悪げにテノールが詰まる。
すこし顔あげて笑いかけると、かすかに桜いろさす顔が観念したよう微笑んだ。
「白状しちゃうとね。ほんとは今朝、おまえのとこ行ったんだ。でも、いけない気がして、扉の前でUターンした、」
午前4時、夜明け前の時間だった。
その時間だから思うことへと、英二は問いかけた。
「ごめん、気を遣わせたな。なんか用だった?」
「ううん、用って訳じゃないけど…、」
テノールは途切れて、沈黙に古時計の音がただ響きだす。
かん、か、… かん、か、か、
蔵に籠る古い時の記憶に、時刻音が鳴っていく。
この静謐のなか白い手は古い本をとり、透明な目を表題に走らせ古新聞へ並べていく。
ゆるやかな沈黙に英二は、自分の愚問に気付いて困り顔に笑った。
「ごめん、変な訊き方したな、俺。でもさ、入ってきてくれても良かったよ?遠慮させたなら、ごめんな、」
英二の言葉に透明な目が、こちらの顔を眺めて首傾げこむ。
すぐ理解した、そんな明るい笑顔が咲いて国村は言ってくれた。
「泣いてるとこ、OKなんだ?そんな無防備を曝してイイわけ?」
「うん、別にいいよ?」
さらっと頷いて英二は、素直に答えた。
「生涯をアンザイレンザイル繋ぐんだろ?だったら泣顔だって、お互いさま見ることになるだろうし。
それにもう国村には俺、見せちゃってるから別に構わない。それよりさ、今朝、ひとりにさせたな。ごめん、」
午前4時、夜明け前の最も昏い時刻。
きっと国村は「今日」の意味に目覚め、そして温もり求めて扉の前に立った。
けれど英二の気配を察したままに扉開けず、自室へと戻ってしまったのだろう。
そのとき寂しい想いをさせた、こんな無意識の残酷に溜息吐いた隣から、透明なテノールは笑ってくれた。
「今夜、雲取に誘ってくれたからね?だから気にしないでよ、」
今夜の雲取山行は、色んな意味で良かったかもしれない。
そんな想いと手を動かすなかで、木箱の底から取りだした一冊に目が止められた。
『 La chronique de la maison 』
「…あった、」
ふるい紺青の布張表紙に、安堵の吐息がこぼれてしまう。
捜した一冊が無事に見つかった、その喜び見つめる手のなかを国村も覗きこんだ。
「Susumu Yuhara…『 La chronique de la maison 』これが、周太のじいさんの、記念本だね、」
…今年、父が還暦を迎える。
その祝いとして大学から、父の書下ろしで記念書籍が出版されることになった。
それを父は、小説で書くと言いだしている。父にしては意外な発想で面白い、だから大学側も乗り気らしい。
いつもフランス文学の「研究」一辺倒の父だから、上梓されたら話題になるだろう。
小説の内容を訊いてみたら「ある『家』をめぐる歴史を書いてみるよ、ちょっとミステリーでね」そう言って笑っている。
堅物の父に小説、それもミステリーなど書くことが出来るのだろうか?
けれど、全文をフランス語表記にするあたりは、とても父らしいなと思う。
大学2年生の春を迎えた頃、馨はこんな日記を綴った。
そして2年生後期の冬休み明け、この日記に続く記憶を書き残している。
…父の還暦記念の書籍が、無事に出版された。
驚いたことに父は、本当に小説を書きあげた。それもミステリーがらみの。
大学の購買を覗いてみたら、まだ初日なのに半数は売れてしまったと言われた。
あの湯原博士がミステリー小説を書いたのかと、やはり話題性が高かったらしい。
さっき父から贈られたから自分でも読んでみたら、意外と面白かったので驚いてしまった。
全てフランス語で表題もフランス語、そんな辺りは父らしいけれどストーリーと内容は意外性に充ちている。
『 La chronique de la maison 』ある家をめぐるミステリーの年代記、多くの伏線が事実の様に思わせて惹きこまれた。
父には意外な才能があったらしい。
この日記に書かれた晉が遺したという「記録」を、英二と国村は捜していた。
けれど大学の記念出版なだけに発行数も限られ市場に出回らず、大学や公立の図書館でも貴重書扱いで貸出不可になっている。
当然の様に購入は困難、それでも「家の謎」を解く鍵として手に入れたかった。
そして今、仏文科に在籍していた国村の父が遺した蔵書から、この1冊を発見できた。
「ほんとに、あって良かったよ。助かる、ありがとな、」
素直な感謝に英二は、隣の笑顔へと笑いかけた。
そんな英二に細い目は温かに笑んで、からりと言ってくれた。
「俺だって知りたいし、周太を護りたいからね。でも周太のじいさん、あの字で『ススム』って珍しいよな?」
「うん。湯原の家ってさ、漢字一字で3文字の訓読み、最後の子音はu音にするらしい。曾おじいさんも『あつむ』なんだよ、」
このことは日記帳の記述に馨がふれている。
英文学者を目指していた馨も、仏文学者だった晉も、文学者らしく言語には敏感だった。
それで自分たちの家の命名にも見解を述べてある。そんな話に国村は首傾げて英二に尋ねた。
「でも周太は2文字だよね?」
この疑問は当然だろうな?
軽く頷いて英二はパートナーへと、疑問を答えた。
「そうなんだ、本当は周太も『周』一文字で『あまね』だったらしい。でも、出生届を出す直前にお父さんが変えたんだ、」
「なるほどね。きっと『太』の字に、意味を籠めたかったんだろな…『あまね』だと最後はe音か、これも意味がありそうだね、」
馨が『太』とe音へ籠めた息子への想い。
それはもう答えが解かるような気がする、この推測に英二は微笑んだ。
「どちらもね、越えてほしかったんだと思う。eはuの向こう側だし、『太』の字は大きいって意味らしいから、」
あの家を縛りつける連鎖と記憶、これを越える力を息子に与えたい。
そんな祈りが『周太』と『あまね』2つの名前に切なく温かい。
この温もりを同じよう見つめたザイルパートナーは、きれいに笑って言ってくれた。
「うん、そっか…おやじさんの愛情が、解かるね、」
「だろ?」
頷いて答えながら丁寧にページを開いて見る。
開かれたまだ白あざやかなページは思ったとおり、フランス語で綴られていた。
この中身では頼らせて貰うしかないだろう、ちいさくため息吐きながら英二はザイルパートナーの顔を見た。
「すまない、国村。これの解読だけど、」
「うん、俺がやるよ、」
さらり笑って白い手は紺青色の一冊を携えてくれる。
底抜けに明るい目は英二を見、笑ってくれた。
「フランス語なら俺、わりと読めるから大丈夫だね、」
言いながら白い手は、最初の1頁を開いた。
そこに記された一文に透明な目がそそがれ、ため息にテノールが呟いた。
「…やっぱり、この本は『記録』みたいだね、」
透明な視線が英二を見、白いページをこちらに向けてくれる。
この1頁目の一文を、白い指が示した。
『Pour une infraction et punition, expiation』
「罪と罰、贖罪の為に。そう書いてある。この本は贖罪のために書かれた、ってことだね、」
罪と罰、贖罪の為に。
この一文に籠めた晉の想いと意図、起きてしまった惨劇の記憶と悔恨。
これらの全てが、この一冊には記されていると確信されてしまう。
これらは全てを知っておく必要がある。
けれど、これらを直接読んで知ることは、きっと精神的負担が大きい。
いつも英二が紺青色の日記帳から負ってしまう、哀しみと痛みの傷と同じように心軋むだろう。
それを自分は、この無垢な山っ子に背負わせてしまう。そんな罪悪感に英二は口を開いた。
「国村、この本はね…きっと、読むのは辛いだろうって思う、今の現実を知った後だと…なのに、」
「構わないね、」
透明なテノールが遮ってくれた。
そして底抜けに明るい目が英二を見つめて、温かに笑んだ。
「あの日記帳読んだ後ってね、おまえ辛そうな顔の時があってさ。見ているだけって、俺は嫌だったんだ。
だから、これがフランス語だったのはね、俺にとっちゃ好都合なんだよ。おまえと周太のサポートを、俺だけが出来る。嬉しいね、」
どうしていつも、こんなに優しい?
この山っ子の無垢で無欲な優しさが温かい、そして切ない。
この温もりの水源が離苦から生まれたと知っている今は、尚更に切なく愛おしい。
やっぱりこの「唯ひとり」をも愛している、いま深められる自覚に英二は微笑んだ。
「ありがとう、頼りにさせてもらうな、」
底抜けに明るい目が嬉しそうに笑ってくれる。
笑って透明なテノールが、からり軽やかに言ってくれた。
「うん、コッチは俺に任せな。おまえはラテン語の解読、よろしくね、」
ラテン語で綴られた周太の父、馨の日記帳。
あのページに今朝がた見つめたばかりの哀しみが、心ふれて傷んでくる。
傷みのまま英二は、素直に口を開いた。
「なあ、国村?俺が今朝、泣いていたのはね…その日記のことだよ。だから、それを読む前に話しておきたいんだ、」
今朝、読んでしまった。
あの家を50年間めぐらされる「惨劇の記憶」を知ってしまった。
あのページに綴られていた「31年前と50年前の惨劇と秘匿」この真相への告白が傷ましい。
この痛み胸に抱きながら英二は、底抜けに明るい目へと読んでしまった事実を告白をした。
「拳銃なんだ、いつも。50年前も31年前も14年前と同じだ、全員が『拳銃』で死んでいる。これが、あの家を縛る連鎖の真相だ、」
―…おまえは、拳銃を舐めてる
警察学校で周太が投げかけた言葉が、今、残酷な現実とリンクする。
あの家を哀しみの連鎖に縛り上げる、その最初を目覚めさせた『拳銃』の幻聲と共に。
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第45話 朧月act.3―side story「陽はまた昇る」
遭難事故も無いままに、業務は定時で終われた。
青梅署に戻り携行品を保管に預けて、登山ウェアに着替えると英二は申請書を書きだした。
書き終えた頃ちょうど部屋の扉が開かれて、雪白の顔が書面を覗き込んだ。
「もう出られる?…あれ、外泊申請書だね?って、なんでウェア着て…」
言い掛けたテノールが「意外だ」を含んで言葉を途切れさせる。
これから国村の実家で一緒に捜し物をする予定だから、確かに登山ウェアは意外だろう。
すこし驚いた細い目に笑いかけて、英二は未記入の申請書用紙を手渡した。
「はい、国村も書いてよ。訓練は全部、一緒にするんだろ、」
「それはそうだけど、ね…」
用紙を受け取り、すこし途惑ったよう見つめてくれる。
けれどお構いなしに英二はデスクを立って、代わりに国村を座らせた。
「捜し物が終わったら出よう。だから、遅くなるかもしれないけどさ。でも、行きたいだろ?」
持っていたペンを渡して笑いかけると、国村は1つ瞬いた。
そして底抜けに明るい目は嬉しそうに笑ってくれた。
「うん、だね、」
テノールの声が明るい。
愉しげに笑いながら国村も手早く申請書を書き上げて、立ち上がった。
「すぐ準備するね、これ、一緒に出しといてくれる?」
「うん、いいよ。出したら廊下にいるから、」
受け取りながら一緒に部屋を出て、扉に施錠する。
そして英二は担当窓口で2通の申請書を提出した。
「夜間訓練で雲取山1泊だね、いつも熱心だな。気をつけて行っておいで、連絡用に無線も携行してくださいね」
快く笑って、いつもどおり許可を出してくれた。
これで今夜を、雲取山頂に見つめることが出来る。
―…ウチの両親の四十九日もさ、こうして田中のじいさんと焚火したんだ。今日みたいに、この避難小屋に泊まってね…
お前の両親は奥多摩のクライマーだ、だから奥多摩の最高峰から送ってやろう…
それで俺を連れて登ってさ、この場所から送火してくれたんだ…山ヤの本望に、乾杯
田中の四十九日を送った夜に教えてくれたこと。
この話をしてくれた国村は、両親と田中への想いに安らぎ、そして思い切り泣いた。
だから今夜は国村を雲取山頂に連れて行ってやりたい、そう思って急に予定を決めた。
『ふざけるな!』
砕け散るカサブランカの花に、透明なテノールが叫んだ。
あの瞬間に見ていた涙の消えた泣顔は、あまりに辛く哀しかった。
あのあと山桜の下で涙ながし泣いて笑ってくれた、それでも涙も哀しみも詰まったままの笑顔は傷んでいた。
どうか今夜、心ごと泣いて、それから笑ってほしい。
そんな願いと佇んだ廊下の窓辺、ゆっくり夜が街を染めていく。
この急な予定を周太にメールして、そのまま奥多摩交番にいるはずの後藤副隊長へと通話を繋いだ。
「後藤だよ、どうしたんだい、宮田?」
「おつかれさまです、ちょっと急なんですけど夜間訓練で雲取山に登ります。国村も一緒です、」
「お、そうか。だったら例の件も、ついでに担当してくれるかい?」
公務に「ついで」って、良いのかな?
真面目な疑問に首傾げこみながら、英二は電話の向こうに微笑んだ。
「はい、そのつもりでご連絡しました。ご指示頂けますか、」
後藤からの指示に頷いて、短い通話を終えると英二は携帯をしまった。
ふと眺めた窓の外、街に燈火に灯りだす。この時間で夜迎える陽長に、季節の変遷が思われた。
もうすぐ初任科総合が始まる、そして本配属の夏が来る。迎える季節と廻る時に英二は、そっと覚悟に微笑んだ。
― かならず、間に合ってみせる。全てに
想いと薄暮に沈む廊下の向こう、ぱたんと扉の開いてしまる音が立った。
聞き覚えのある音にあげた視線の向うから、白いシャツ姿に登山ザック背負った笑顔が歩いてくる。
歩いてくる底抜けに明るい眼差しに、ふっと心ゆるんで英二は微笑んだ。
このパートナーが自分の隣に居てくれる。
誰より大らかで囚われない心と卓越した身体能力、そして怜悧で冷静沈着の豪胆。
この優れた男が自分と共に、この危険にも立ってくれる。
だからきっと、自分は全てに間に合うことが出来るだろう。
あの紺青色の日記に記された、哀しみの連鎖と50年の束縛から、きっと愛するひとを救うことが出来る。
そんな確信と共に、モノトーンの長身が温かな笑顔で英二の隣に立った。
「お待たせ、行こっかね?」
軽やかに笑ったテノールは、透けるほど明るい。
山っ子が聴かせる声の明るさに、なぜか希望が見えるようで英二は微笑んだ。
この今立っている現実、そこにひそむ残酷な記憶にすら希望は見いだせる。そんな気がした。
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国村の屋敷は、静かだった。
四駆を停めて降りた庭は、夜気に花の香がけぶるよう靡いていく。
まだ国村の祖母は経営する農家レストランから戻っていない、祖父も寄合で留守にしている。
この静寂の時間を利用して国村は、蔵の1つを開錠し閂を外した。
「おやじの本ね、家に入りきらない分は、ここに全部あるんだ、」
話しながら白い手がLEDランプを点けてくれる。
やわらなか明りに照らされた蔵の内部は、ひんやりと籠る空気が思ったより澄んでいる。
分厚い土蔵の壁、漆喰の白、分厚い感触の床。初めて佇む空間に英二は微笑んだ。
「俺、蔵の中って初めてはいるよ、」
「あれ、これもお初だったんだね?そりゃ光栄だな、」
からりテノールで笑いながら、奥の書棚を軽く雑巾で拭きあげてくれる。
天井近くまで大きくとられた頑丈な棚は、びっしりと書籍が並んでいく。
凄い量だな?そんな感想に見上げた英二に国村は笑いかけた。
「これとさ、あとこの木箱に入ってるんだよね。俺もまだ、全部は読み切れていないんだ、」
「凄い量だな、お父さん勉強家なんだな?」
素直な賞賛に笑いかけながら英二は書棚を覗きこんだ。
このなかでフランス語の背表紙を探していく、けれど量の多さに軽い溜息がこぼれてしまう。
けれど国村は、大きな木箱を雑巾で拭きあげ蓋を開くと言ってくれた。
「たぶんね、あるならコッチだと思うんだ。あとは書棚の最上段。この2カ所が俺のお手付き無しエリアだから、」
「え、じゃあ、他は全部読んだってことか?」
すこし驚いて英二は友人の顔を見た。
見つめた先で底抜けに明るい目は、なんでも無いよう英二を見て微笑んだ。
「うん、11年あったら、読めちゃうよね、」
国村の父が母と共に亡くなって、11年。
その時間を国村は父の蔵書たちと過ごしてきた、そう言っている。
この古いフランス文学書たちが父子の絆を繋いできた。そう思うとこの書籍たちを無礙には出来やしない。
そんな想いに英二は、大切に木箱の本を手に取った。
「この1冊ずつが、お父さんと国村の記憶を繋いでくれるんだな、」
床に広げた新聞紙へと、丁重に背表紙確かめた本を並べていく。
そんな英二の手つきと言葉に、底抜けに明るい目は笑ってくれた。
「うん、だね?…ありがと、宮田、」
今夜、この木箱を開こうと国村が想ったことは「今夜」の意味と無関係ではない。
この想いの隣に片膝ついて、英二は木箱の本を1冊ずつ眺めていった。
か、かん、か、かん、…
古い時計が時を刻む。
置かれたアンティークの時計は、見当違いの時間を示しながらも時刻音は絶やさない。
時の音とLED灯の淡いオレンジが照らす空間に、ふたり並んで1冊の本を探し求めた。
布張のハードカーバー、文庫本、新書、皮張表装。
大きな古い木箱には数多くの書籍が眠り、いま新聞紙の上に起こされていく。
けれど目当ての本にはまだ辿り着けない、それでも焦らず手に取りながらテノールが口を開いた。
「おまえさ、今朝、泣いていたよね?」
今朝、午前4時。英二は紺青色の日記帳を前に泣いた。
どうしてそれを国村は知っているのだろう?尋ねたい想いのまま英二は素直に微笑んだ。
「うん、泣いた。よく知ってるな、」
「あ、…ん、」
きまり悪げにテノールが詰まる。
すこし顔あげて笑いかけると、かすかに桜いろさす顔が観念したよう微笑んだ。
「白状しちゃうとね。ほんとは今朝、おまえのとこ行ったんだ。でも、いけない気がして、扉の前でUターンした、」
午前4時、夜明け前の時間だった。
その時間だから思うことへと、英二は問いかけた。
「ごめん、気を遣わせたな。なんか用だった?」
「ううん、用って訳じゃないけど…、」
テノールは途切れて、沈黙に古時計の音がただ響きだす。
かん、か、… かん、か、か、
蔵に籠る古い時の記憶に、時刻音が鳴っていく。
この静謐のなか白い手は古い本をとり、透明な目を表題に走らせ古新聞へ並べていく。
ゆるやかな沈黙に英二は、自分の愚問に気付いて困り顔に笑った。
「ごめん、変な訊き方したな、俺。でもさ、入ってきてくれても良かったよ?遠慮させたなら、ごめんな、」
英二の言葉に透明な目が、こちらの顔を眺めて首傾げこむ。
すぐ理解した、そんな明るい笑顔が咲いて国村は言ってくれた。
「泣いてるとこ、OKなんだ?そんな無防備を曝してイイわけ?」
「うん、別にいいよ?」
さらっと頷いて英二は、素直に答えた。
「生涯をアンザイレンザイル繋ぐんだろ?だったら泣顔だって、お互いさま見ることになるだろうし。
それにもう国村には俺、見せちゃってるから別に構わない。それよりさ、今朝、ひとりにさせたな。ごめん、」
午前4時、夜明け前の最も昏い時刻。
きっと国村は「今日」の意味に目覚め、そして温もり求めて扉の前に立った。
けれど英二の気配を察したままに扉開けず、自室へと戻ってしまったのだろう。
そのとき寂しい想いをさせた、こんな無意識の残酷に溜息吐いた隣から、透明なテノールは笑ってくれた。
「今夜、雲取に誘ってくれたからね?だから気にしないでよ、」
今夜の雲取山行は、色んな意味で良かったかもしれない。
そんな想いと手を動かすなかで、木箱の底から取りだした一冊に目が止められた。
『 La chronique de la maison 』
「…あった、」
ふるい紺青の布張表紙に、安堵の吐息がこぼれてしまう。
捜した一冊が無事に見つかった、その喜び見つめる手のなかを国村も覗きこんだ。
「Susumu Yuhara…『 La chronique de la maison 』これが、周太のじいさんの、記念本だね、」
…今年、父が還暦を迎える。
その祝いとして大学から、父の書下ろしで記念書籍が出版されることになった。
それを父は、小説で書くと言いだしている。父にしては意外な発想で面白い、だから大学側も乗り気らしい。
いつもフランス文学の「研究」一辺倒の父だから、上梓されたら話題になるだろう。
小説の内容を訊いてみたら「ある『家』をめぐる歴史を書いてみるよ、ちょっとミステリーでね」そう言って笑っている。
堅物の父に小説、それもミステリーなど書くことが出来るのだろうか?
けれど、全文をフランス語表記にするあたりは、とても父らしいなと思う。
大学2年生の春を迎えた頃、馨はこんな日記を綴った。
そして2年生後期の冬休み明け、この日記に続く記憶を書き残している。
…父の還暦記念の書籍が、無事に出版された。
驚いたことに父は、本当に小説を書きあげた。それもミステリーがらみの。
大学の購買を覗いてみたら、まだ初日なのに半数は売れてしまったと言われた。
あの湯原博士がミステリー小説を書いたのかと、やはり話題性が高かったらしい。
さっき父から贈られたから自分でも読んでみたら、意外と面白かったので驚いてしまった。
全てフランス語で表題もフランス語、そんな辺りは父らしいけれどストーリーと内容は意外性に充ちている。
『 La chronique de la maison 』ある家をめぐるミステリーの年代記、多くの伏線が事実の様に思わせて惹きこまれた。
父には意外な才能があったらしい。
この日記に書かれた晉が遺したという「記録」を、英二と国村は捜していた。
けれど大学の記念出版なだけに発行数も限られ市場に出回らず、大学や公立の図書館でも貴重書扱いで貸出不可になっている。
当然の様に購入は困難、それでも「家の謎」を解く鍵として手に入れたかった。
そして今、仏文科に在籍していた国村の父が遺した蔵書から、この1冊を発見できた。
「ほんとに、あって良かったよ。助かる、ありがとな、」
素直な感謝に英二は、隣の笑顔へと笑いかけた。
そんな英二に細い目は温かに笑んで、からりと言ってくれた。
「俺だって知りたいし、周太を護りたいからね。でも周太のじいさん、あの字で『ススム』って珍しいよな?」
「うん。湯原の家ってさ、漢字一字で3文字の訓読み、最後の子音はu音にするらしい。曾おじいさんも『あつむ』なんだよ、」
このことは日記帳の記述に馨がふれている。
英文学者を目指していた馨も、仏文学者だった晉も、文学者らしく言語には敏感だった。
それで自分たちの家の命名にも見解を述べてある。そんな話に国村は首傾げて英二に尋ねた。
「でも周太は2文字だよね?」
この疑問は当然だろうな?
軽く頷いて英二はパートナーへと、疑問を答えた。
「そうなんだ、本当は周太も『周』一文字で『あまね』だったらしい。でも、出生届を出す直前にお父さんが変えたんだ、」
「なるほどね。きっと『太』の字に、意味を籠めたかったんだろな…『あまね』だと最後はe音か、これも意味がありそうだね、」
馨が『太』とe音へ籠めた息子への想い。
それはもう答えが解かるような気がする、この推測に英二は微笑んだ。
「どちらもね、越えてほしかったんだと思う。eはuの向こう側だし、『太』の字は大きいって意味らしいから、」
あの家を縛りつける連鎖と記憶、これを越える力を息子に与えたい。
そんな祈りが『周太』と『あまね』2つの名前に切なく温かい。
この温もりを同じよう見つめたザイルパートナーは、きれいに笑って言ってくれた。
「うん、そっか…おやじさんの愛情が、解かるね、」
「だろ?」
頷いて答えながら丁寧にページを開いて見る。
開かれたまだ白あざやかなページは思ったとおり、フランス語で綴られていた。
この中身では頼らせて貰うしかないだろう、ちいさくため息吐きながら英二はザイルパートナーの顔を見た。
「すまない、国村。これの解読だけど、」
「うん、俺がやるよ、」
さらり笑って白い手は紺青色の一冊を携えてくれる。
底抜けに明るい目は英二を見、笑ってくれた。
「フランス語なら俺、わりと読めるから大丈夫だね、」
言いながら白い手は、最初の1頁を開いた。
そこに記された一文に透明な目がそそがれ、ため息にテノールが呟いた。
「…やっぱり、この本は『記録』みたいだね、」
透明な視線が英二を見、白いページをこちらに向けてくれる。
この1頁目の一文を、白い指が示した。
『Pour une infraction et punition, expiation』
「罪と罰、贖罪の為に。そう書いてある。この本は贖罪のために書かれた、ってことだね、」
罪と罰、贖罪の為に。
この一文に籠めた晉の想いと意図、起きてしまった惨劇の記憶と悔恨。
これらの全てが、この一冊には記されていると確信されてしまう。
これらは全てを知っておく必要がある。
けれど、これらを直接読んで知ることは、きっと精神的負担が大きい。
いつも英二が紺青色の日記帳から負ってしまう、哀しみと痛みの傷と同じように心軋むだろう。
それを自分は、この無垢な山っ子に背負わせてしまう。そんな罪悪感に英二は口を開いた。
「国村、この本はね…きっと、読むのは辛いだろうって思う、今の現実を知った後だと…なのに、」
「構わないね、」
透明なテノールが遮ってくれた。
そして底抜けに明るい目が英二を見つめて、温かに笑んだ。
「あの日記帳読んだ後ってね、おまえ辛そうな顔の時があってさ。見ているだけって、俺は嫌だったんだ。
だから、これがフランス語だったのはね、俺にとっちゃ好都合なんだよ。おまえと周太のサポートを、俺だけが出来る。嬉しいね、」
どうしていつも、こんなに優しい?
この山っ子の無垢で無欲な優しさが温かい、そして切ない。
この温もりの水源が離苦から生まれたと知っている今は、尚更に切なく愛おしい。
やっぱりこの「唯ひとり」をも愛している、いま深められる自覚に英二は微笑んだ。
「ありがとう、頼りにさせてもらうな、」
底抜けに明るい目が嬉しそうに笑ってくれる。
笑って透明なテノールが、からり軽やかに言ってくれた。
「うん、コッチは俺に任せな。おまえはラテン語の解読、よろしくね、」
ラテン語で綴られた周太の父、馨の日記帳。
あのページに今朝がた見つめたばかりの哀しみが、心ふれて傷んでくる。
傷みのまま英二は、素直に口を開いた。
「なあ、国村?俺が今朝、泣いていたのはね…その日記のことだよ。だから、それを読む前に話しておきたいんだ、」
今朝、読んでしまった。
あの家を50年間めぐらされる「惨劇の記憶」を知ってしまった。
あのページに綴られていた「31年前と50年前の惨劇と秘匿」この真相への告白が傷ましい。
この痛み胸に抱きながら英二は、底抜けに明るい目へと読んでしまった事実を告白をした。
「拳銃なんだ、いつも。50年前も31年前も14年前と同じだ、全員が『拳銃』で死んでいる。これが、あの家を縛る連鎖の真相だ、」
―…おまえは、拳銃を舐めてる
警察学校で周太が投げかけた言葉が、今、残酷な現実とリンクする。
あの家を哀しみの連鎖に縛り上げる、その最初を目覚めさせた『拳銃』の幻聲と共に。
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(to be continude)
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