新たなる時へ、
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Lettre de la memoire、新雪―side K2
ざらめ雪が車輪に軋んで、水音が鳴る。
陽光おだやかな雪の道、遅い朝にゆるまる新雪は自転車の轍を残す。
終業式の前には校庭の雪も凍っていた、けれど今は町中がざらめ雪に溶けていく。
澄みわたる青空に正月のどやかに明るんで、去年の今日と同じように見える。
けれど、もうあの人はいない。
―いや、違うね?雅樹さんはいる、俺のとこ帰ってくるね、約束したんだから
ペダルを漕ぎながら心が抵抗する、そして泣きだしていく。
それでも微笑んで光一は去年までと同じに、自転車を古い門柱の間へと乗り入れた。
そこには金柑の木も新雪の庭も去年と同じ姿で迎える、こんな同じ達が余計に落差を募らしていく。
何もかも同じ正月の風景、それなのに傍に居るべき人がいない。
「寂しいよ、雅樹さん…」
ぽつん、心が本音をつぶやき涙を流す。
けれど瞳は微笑んだまま涙は出ない、ただ心だけが秘密に泣いている。
そんな想いに自転車を停めて、白いダウンジャケットのポケットに手を入れた。
そして指先ふれたガラスの感触に、贈り主の温もりも笑顔も探して心が微笑んだ。
嬉しく微笑んで親指と人差指にとった小さなガラスを、そっと太陽に翳し笑いかけた。
―お揃いだね、雅樹さん?
繊細なガラス細工の雪、その小さく透明なきらめきが青空に映える。
これと同じものを雅樹は常携していた医療ケースに付けて、大切にしていた。
それを自分はいつも綺麗だと見つめていた、だから雅樹が同じものを探してくれてダッフルコートのポケットに入れていた。
そのコートが光一の許に形見分けとして贈られて、ポケットから見つけたのはクリスマス・イヴの夜だった。
そうして溶けること無い雪の結晶は無事、この掌に贈られて今こうして太陽と空に翳している。
―今年もクリスマスプレゼントを贈ってくれたね、雅樹さん?
きらきら光る雪の結晶、いま青空に映えて本当に雪ふるよう想えてしまう。
こんなふうガラスの雪を去年も見た、雅樹に抱き上げられ今より近い空に結晶を翳していた。
あのときの幸福を想い微笑んで、大切に雪の結晶をポケットに戻すと光一は玄関に向かい、けれど足を止めた。
「…お飾り、やっぱしないよね?」
そっと呟いた玄関先、毎年ある正月飾りが無い。
もう玄関から雅樹がいない正月なのだと知らされて、心が締められ痛みだす。
その痛み深呼吸1つに納めこんで、光一は庭を横切り縁側から居間を覗きこんだ。
「こんにちは、吉村のジイさん、バアさん、」
「あれまあ、光ちゃん?早く炬燵に入んなさい、」
呼びかけ微笑んだ先、老人が炬燵を勧めてくれる。
その笑顔に笑いかけて光一は、登山靴を脱いで縁側から上がりこんだ。
「さあジイさん、去年も言ってた金柑の酒を呑みに来たよ?バアさんのあんこ餅をツマミにほしいね、あとお年玉ちょうだいね、」
「はいはい、すぐ支度しますよ。ちょっと待っててね、」
可笑しそうに笑って雅樹の祖母は立ち、台所へと行ってくれる。
その背中が小さくなったよう見えて、哀しみの翳が滲ませてしまう。
きっと去年まで過ごした孫との正月を想っている、そんな想い見つめた光一に雅樹の祖父は笑ってくれた。
「ありがとう、光ちゃん。今年も来てくれて、」
今年も来てくれて、
この言葉に去年への愛惜が伝わってしまう。
もう雅樹が来られなくなった今年は寂しい、そんな想いが言外に伝わらす。
この想いは自分も同じ、だから今もここに自分は座っている。そんな共鳴に光一は明るく笑いかけた。
「こっちこそ、ありがとうだね?酒と餅をご馳走になって、お年玉までもらっちゃうんだからね、」
「あれまあ、なるほどなあ?」
白髪頭ゆらして愉しそうに笑ってくれる。
ふたり笑いあう炬燵へと、盆に酒と餅を載せて来た笑顔が加わってくれた。
「はい、光ちゃん。たくさん食べてね、でも金柑酒はちょっとだよ?」
嬉しそうな笑顔が山盛の餡餅と重箱と、金色の酒を3分の1ほど注いだ蕎麦猪口を並べてくれる。
ふわり柑橘の香らす黄金色に笑って光一は、雅樹の祖母へと権利を主張した。
「金柑を採る手伝いした分だけ、ちゃんと飲ませてよ?ほら、ジイさんもバアさんも一緒に飲んでよね、今日は正月だろ?」
自分はこの酒を造る手伝いをした、だから一緒に飲めるよね?
そう酒の誘いに笑いかけた先、老夫婦は愉しげに笑って頷いてくれた。
「じゃあ儂たちも、光ちゃんの酒にお相伴しようかね?」
「そうですね?お正月だものね、ちょっと待ってくださいね、」
笑ってすぐ蕎麦猪口ふたつと、黄金色の酒ゆれる保存瓶を持って来てくれる。
そうして三人一緒に柑橘の香に笑って、炬燵で宴会を始めた。
「ジイさん、バアさん。今年もよろしくね、」
「今年もよろしくね、光ちゃん。はい、お年玉、」
笑って雅樹の祖母が、半紙を折った包みを渡してくれる。
去年までは可愛いぽち袋だったのに?そう首傾げた光一に老夫婦は微笑んだ。
「ぽち袋、今年は用意していなかったんだよ。もう光ちゃんは来てくれないって思ったからね、雅樹がいないから、」
ほら、やっぱり二人はそう思っていた。
そんな諦観が哀しい、こんな寂寞が心を暗くしてしまう。
そして誰も今日は「明けましておめでとう」とは言わない、その気持ちは互いに解かる。
こんな気持ちは仕方ない、けれど老夫婦の諦観も寂しさも覆したくて光一は底抜けに明るく笑った。
「俺はお年玉って好きだしさ、こんなに旨い酒と餅を食べないのは勿体ないね?だから来年も邪魔しに来させてよ、イイでしょ?」
この金柑酒も、この餡餅も、去年までいつも雅樹と楽しんだ味。
この味まで消えてしまう正月なんて嫌だよ?そう願いに笑う光一に老夫婦は嬉しそうに笑ってくれた。
「ああ、もちろんだよ?厭きるまで来ておくれ、儂らな、光ちゃんの笑い声を聴くの好きなんだよ?」
「こんなんで良けりゃ、幾らだって聴かせてあげるよ?」
笑う口もと香らす柑橘に、逝ったひとが好んだ味があまく愛しい。
あまり酒を飲まない雅樹だったけれど、祖母が作る金柑酒だけは好んで楽しんだ。
そんな記憶に去年の正月を想い微笑んだとき、縁側から快活な深い声が笑いかけた。
「ただいま、楽しそうだね?俺も交ぜてよ、」
声にふり向いた視線の先、明朗な笑顔が笑いかけてくれる。
その笑顔に大切な俤を微かに認めながら、光一は明るく笑った。
「お帰りなさい、雅人さん、」
「うん、ただいま光ちゃん。また背が伸びたかな?」
雅樹の兄、雅人が正月の奥多摩に帰ってきた。
この珍しいことに驚きながらも嬉しくて笑った隣、雅人が座ってくれる。
2つ上の兄は弟と風貌はあまり似ていない、その実直で明るい笑顔に老夫婦は尋ねた。
「お帰り、雅人。正月に帰って来られるなんて、珍しいな?」
「うん、今年は仕事も休めてね。今夜は泊めてもらって良いかな、」
「もちろんだよ、幾つでものんびりしていくと良い、」
嬉しそうに笑う老夫婦の笑顔に、ほっと嬉しくなる。
もう1人の孫が帰ってきて一緒に正月を過ごしてくれる、それなら寂しさも消えやすい。
―雅人さん、それを解かって帰ってきたんだね?雅樹さんの代わりをしようって、
雅人が帰ってきてくれて良かった、そう心から嬉しい。
嬉しく箸を動かしながら微笑んだ隣、快活な雅人の声が笑いかけてくれた。
「光ちゃん、御嶽神社にお参りいくの付きあってくれるかな?俺、もう何年もお参り行ってないんだ、」
「うん、イイよ?コレ食べ終わったらね、」
気軽に応えて頷くと、光一は皿の餡餅と栗きんとんに箸を動かした。
そんな光一に笑って雅人もお節料理をつまみ、小腹を充たすと二人連れ立ち出掛けた。
「昨夜は雪だったんだな、新宿は雨だったけど、」
「ふうん、暖かいね、ソッチはさ、」
車窓に御岳の町は白銀まばゆい、タイヤの轍が霙雪に多く描かれている。
チェーンの音聴きながら座っていると、運転席から雅人が笑いかけてくれた。
「あのね、光ちゃんにだけ話しておきたいんだ。それでね、俺が挫けそうになったら怒ってくれるかな?」
「イイよ、なに?」
なんの話だろうな?
そう見た先で明朗な貌は笑って、率直に言った。
「俺ね、医者になろうと思うんだ、」
雅人が医者になる?
その意外な提案にひとつ瞬いて、光一は訊いてみた。
「雅人さんって、医者が読む本とか雑誌を作る仕事をしてるんだよね?そういう人も、医者になれんの?」
「ちゃんと医者の大学に行って、医者になるテストを受けて合格すればね、誰でもなれるんだよ、」
「じゃあ雅人さん、雅樹さんみたいに医者の大学に行くってワケ?」
「うん、来年ね、大学に入るテストを受けようって思うんだ。雅樹が行っていたのと同じ大学に、俺も次の次の春から行くよ、」
会話に見つめた運転席、快活な貌は笑って瞳は真摯に明るい。
雅人は本気で今、進路について話してくれる。そう信じた隣から明るく深い声は言ってくれた。
「それでね、卒業したら此処で開業医になりたいんだ。雅樹の夢を1つでも俺が叶えたいんだよ、全く同じには出来ないけどね、」
雅樹の夢を、兄の雅人が継いでくれる。
いつも医療セットと白衣を常携し山岳医療に見つめた雅樹の「医師」である夢。
あの夢を雅人が繋いで生かしてくれる、嬉しくて笑って光一は思った通りに生意気を言った。
「うん、雅樹さんと同じになんて無理だね?だって雅樹さんは特別だからね、雅人さんには悪いけど、」
「ああ、俺も光ちゃんと同じ意見だよ?雅樹は特別だった、兄貴である俺から見たって凄い男だよ。でも俺なりに頑張るよ、」
明るく笑って答えながら、神社近くの駐車場に四駆は停まった。
シートベルトを外して外へ出る、そして雪の御岳山を仰ぎ見ながら雅人は笑って光一に告げた。
「光ちゃん、俺も山は好きだけどさ?雅樹みたいには登れないよ、八千メートル峰とか三大北壁なんて俺には無理だ。だからさ、
光ちゃんが雅樹のクライマーとしての夢、叶えてやってくれないかな?きっと光ちゃん自身もそうするって決めてるだろうけどね、」
雅樹のもう1つの夢は「最高峰」この自分とアンザイレンザイルを組むこと。
この夢を叶えてほしいと雅樹の兄が告げてくれる、その笑顔は弟の無垢な俤が温かい。
―ね、雅樹さん?もしかして今、雅人さんの口を借りて言ってくれてる?
そっと愛しい俤に問いかける、その問いに記憶の笑顔は幸せに笑ってくれる。
この笑顔のために自分も生きたい、あの美しい山ヤの意志を自分こそ抱きたくて光一は誇らかに笑った。
「うんっ、当たり前だね?俺しか雅樹さんの山ヤの夢は叶えられないよ、あと山のレスキューだって俺は出来るね、」
この今、君の故郷の山で君に約束したい。
いつも君とに笑ったこの場所で、君の夢はこの自分こそが叶えると誓いたい。
この誓いをすることは「君自身が夢を叶えられない」と認めること、そして君が消えた時が始まってしまう。
その哀しみは深くなるばかりで苦しいけれど、それでも明日へ進みたいと今、この新しい年を迎える日に約束したい。
だって君の夢を叶えるためには、この自分が大人に成長する「明日」新しい時が必要だから。
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Lettre de la memoire、新雪―side K2
ざらめ雪が車輪に軋んで、水音が鳴る。
陽光おだやかな雪の道、遅い朝にゆるまる新雪は自転車の轍を残す。
終業式の前には校庭の雪も凍っていた、けれど今は町中がざらめ雪に溶けていく。
澄みわたる青空に正月のどやかに明るんで、去年の今日と同じように見える。
けれど、もうあの人はいない。
―いや、違うね?雅樹さんはいる、俺のとこ帰ってくるね、約束したんだから
ペダルを漕ぎながら心が抵抗する、そして泣きだしていく。
それでも微笑んで光一は去年までと同じに、自転車を古い門柱の間へと乗り入れた。
そこには金柑の木も新雪の庭も去年と同じ姿で迎える、こんな同じ達が余計に落差を募らしていく。
何もかも同じ正月の風景、それなのに傍に居るべき人がいない。
「寂しいよ、雅樹さん…」
ぽつん、心が本音をつぶやき涙を流す。
けれど瞳は微笑んだまま涙は出ない、ただ心だけが秘密に泣いている。
そんな想いに自転車を停めて、白いダウンジャケットのポケットに手を入れた。
そして指先ふれたガラスの感触に、贈り主の温もりも笑顔も探して心が微笑んだ。
嬉しく微笑んで親指と人差指にとった小さなガラスを、そっと太陽に翳し笑いかけた。
―お揃いだね、雅樹さん?
繊細なガラス細工の雪、その小さく透明なきらめきが青空に映える。
これと同じものを雅樹は常携していた医療ケースに付けて、大切にしていた。
それを自分はいつも綺麗だと見つめていた、だから雅樹が同じものを探してくれてダッフルコートのポケットに入れていた。
そのコートが光一の許に形見分けとして贈られて、ポケットから見つけたのはクリスマス・イヴの夜だった。
そうして溶けること無い雪の結晶は無事、この掌に贈られて今こうして太陽と空に翳している。
―今年もクリスマスプレゼントを贈ってくれたね、雅樹さん?
きらきら光る雪の結晶、いま青空に映えて本当に雪ふるよう想えてしまう。
こんなふうガラスの雪を去年も見た、雅樹に抱き上げられ今より近い空に結晶を翳していた。
あのときの幸福を想い微笑んで、大切に雪の結晶をポケットに戻すと光一は玄関に向かい、けれど足を止めた。
「…お飾り、やっぱしないよね?」
そっと呟いた玄関先、毎年ある正月飾りが無い。
もう玄関から雅樹がいない正月なのだと知らされて、心が締められ痛みだす。
その痛み深呼吸1つに納めこんで、光一は庭を横切り縁側から居間を覗きこんだ。
「こんにちは、吉村のジイさん、バアさん、」
「あれまあ、光ちゃん?早く炬燵に入んなさい、」
呼びかけ微笑んだ先、老人が炬燵を勧めてくれる。
その笑顔に笑いかけて光一は、登山靴を脱いで縁側から上がりこんだ。
「さあジイさん、去年も言ってた金柑の酒を呑みに来たよ?バアさんのあんこ餅をツマミにほしいね、あとお年玉ちょうだいね、」
「はいはい、すぐ支度しますよ。ちょっと待っててね、」
可笑しそうに笑って雅樹の祖母は立ち、台所へと行ってくれる。
その背中が小さくなったよう見えて、哀しみの翳が滲ませてしまう。
きっと去年まで過ごした孫との正月を想っている、そんな想い見つめた光一に雅樹の祖父は笑ってくれた。
「ありがとう、光ちゃん。今年も来てくれて、」
今年も来てくれて、
この言葉に去年への愛惜が伝わってしまう。
もう雅樹が来られなくなった今年は寂しい、そんな想いが言外に伝わらす。
この想いは自分も同じ、だから今もここに自分は座っている。そんな共鳴に光一は明るく笑いかけた。
「こっちこそ、ありがとうだね?酒と餅をご馳走になって、お年玉までもらっちゃうんだからね、」
「あれまあ、なるほどなあ?」
白髪頭ゆらして愉しそうに笑ってくれる。
ふたり笑いあう炬燵へと、盆に酒と餅を載せて来た笑顔が加わってくれた。
「はい、光ちゃん。たくさん食べてね、でも金柑酒はちょっとだよ?」
嬉しそうな笑顔が山盛の餡餅と重箱と、金色の酒を3分の1ほど注いだ蕎麦猪口を並べてくれる。
ふわり柑橘の香らす黄金色に笑って光一は、雅樹の祖母へと権利を主張した。
「金柑を採る手伝いした分だけ、ちゃんと飲ませてよ?ほら、ジイさんもバアさんも一緒に飲んでよね、今日は正月だろ?」
自分はこの酒を造る手伝いをした、だから一緒に飲めるよね?
そう酒の誘いに笑いかけた先、老夫婦は愉しげに笑って頷いてくれた。
「じゃあ儂たちも、光ちゃんの酒にお相伴しようかね?」
「そうですね?お正月だものね、ちょっと待ってくださいね、」
笑ってすぐ蕎麦猪口ふたつと、黄金色の酒ゆれる保存瓶を持って来てくれる。
そうして三人一緒に柑橘の香に笑って、炬燵で宴会を始めた。
「ジイさん、バアさん。今年もよろしくね、」
「今年もよろしくね、光ちゃん。はい、お年玉、」
笑って雅樹の祖母が、半紙を折った包みを渡してくれる。
去年までは可愛いぽち袋だったのに?そう首傾げた光一に老夫婦は微笑んだ。
「ぽち袋、今年は用意していなかったんだよ。もう光ちゃんは来てくれないって思ったからね、雅樹がいないから、」
ほら、やっぱり二人はそう思っていた。
そんな諦観が哀しい、こんな寂寞が心を暗くしてしまう。
そして誰も今日は「明けましておめでとう」とは言わない、その気持ちは互いに解かる。
こんな気持ちは仕方ない、けれど老夫婦の諦観も寂しさも覆したくて光一は底抜けに明るく笑った。
「俺はお年玉って好きだしさ、こんなに旨い酒と餅を食べないのは勿体ないね?だから来年も邪魔しに来させてよ、イイでしょ?」
この金柑酒も、この餡餅も、去年までいつも雅樹と楽しんだ味。
この味まで消えてしまう正月なんて嫌だよ?そう願いに笑う光一に老夫婦は嬉しそうに笑ってくれた。
「ああ、もちろんだよ?厭きるまで来ておくれ、儂らな、光ちゃんの笑い声を聴くの好きなんだよ?」
「こんなんで良けりゃ、幾らだって聴かせてあげるよ?」
笑う口もと香らす柑橘に、逝ったひとが好んだ味があまく愛しい。
あまり酒を飲まない雅樹だったけれど、祖母が作る金柑酒だけは好んで楽しんだ。
そんな記憶に去年の正月を想い微笑んだとき、縁側から快活な深い声が笑いかけた。
「ただいま、楽しそうだね?俺も交ぜてよ、」
声にふり向いた視線の先、明朗な笑顔が笑いかけてくれる。
その笑顔に大切な俤を微かに認めながら、光一は明るく笑った。
「お帰りなさい、雅人さん、」
「うん、ただいま光ちゃん。また背が伸びたかな?」
雅樹の兄、雅人が正月の奥多摩に帰ってきた。
この珍しいことに驚きながらも嬉しくて笑った隣、雅人が座ってくれる。
2つ上の兄は弟と風貌はあまり似ていない、その実直で明るい笑顔に老夫婦は尋ねた。
「お帰り、雅人。正月に帰って来られるなんて、珍しいな?」
「うん、今年は仕事も休めてね。今夜は泊めてもらって良いかな、」
「もちろんだよ、幾つでものんびりしていくと良い、」
嬉しそうに笑う老夫婦の笑顔に、ほっと嬉しくなる。
もう1人の孫が帰ってきて一緒に正月を過ごしてくれる、それなら寂しさも消えやすい。
―雅人さん、それを解かって帰ってきたんだね?雅樹さんの代わりをしようって、
雅人が帰ってきてくれて良かった、そう心から嬉しい。
嬉しく箸を動かしながら微笑んだ隣、快活な雅人の声が笑いかけてくれた。
「光ちゃん、御嶽神社にお参りいくの付きあってくれるかな?俺、もう何年もお参り行ってないんだ、」
「うん、イイよ?コレ食べ終わったらね、」
気軽に応えて頷くと、光一は皿の餡餅と栗きんとんに箸を動かした。
そんな光一に笑って雅人もお節料理をつまみ、小腹を充たすと二人連れ立ち出掛けた。
「昨夜は雪だったんだな、新宿は雨だったけど、」
「ふうん、暖かいね、ソッチはさ、」
車窓に御岳の町は白銀まばゆい、タイヤの轍が霙雪に多く描かれている。
チェーンの音聴きながら座っていると、運転席から雅人が笑いかけてくれた。
「あのね、光ちゃんにだけ話しておきたいんだ。それでね、俺が挫けそうになったら怒ってくれるかな?」
「イイよ、なに?」
なんの話だろうな?
そう見た先で明朗な貌は笑って、率直に言った。
「俺ね、医者になろうと思うんだ、」
雅人が医者になる?
その意外な提案にひとつ瞬いて、光一は訊いてみた。
「雅人さんって、医者が読む本とか雑誌を作る仕事をしてるんだよね?そういう人も、医者になれんの?」
「ちゃんと医者の大学に行って、医者になるテストを受けて合格すればね、誰でもなれるんだよ、」
「じゃあ雅人さん、雅樹さんみたいに医者の大学に行くってワケ?」
「うん、来年ね、大学に入るテストを受けようって思うんだ。雅樹が行っていたのと同じ大学に、俺も次の次の春から行くよ、」
会話に見つめた運転席、快活な貌は笑って瞳は真摯に明るい。
雅人は本気で今、進路について話してくれる。そう信じた隣から明るく深い声は言ってくれた。
「それでね、卒業したら此処で開業医になりたいんだ。雅樹の夢を1つでも俺が叶えたいんだよ、全く同じには出来ないけどね、」
雅樹の夢を、兄の雅人が継いでくれる。
いつも医療セットと白衣を常携し山岳医療に見つめた雅樹の「医師」である夢。
あの夢を雅人が繋いで生かしてくれる、嬉しくて笑って光一は思った通りに生意気を言った。
「うん、雅樹さんと同じになんて無理だね?だって雅樹さんは特別だからね、雅人さんには悪いけど、」
「ああ、俺も光ちゃんと同じ意見だよ?雅樹は特別だった、兄貴である俺から見たって凄い男だよ。でも俺なりに頑張るよ、」
明るく笑って答えながら、神社近くの駐車場に四駆は停まった。
シートベルトを外して外へ出る、そして雪の御岳山を仰ぎ見ながら雅人は笑って光一に告げた。
「光ちゃん、俺も山は好きだけどさ?雅樹みたいには登れないよ、八千メートル峰とか三大北壁なんて俺には無理だ。だからさ、
光ちゃんが雅樹のクライマーとしての夢、叶えてやってくれないかな?きっと光ちゃん自身もそうするって決めてるだろうけどね、」
雅樹のもう1つの夢は「最高峰」この自分とアンザイレンザイルを組むこと。
この夢を叶えてほしいと雅樹の兄が告げてくれる、その笑顔は弟の無垢な俤が温かい。
―ね、雅樹さん?もしかして今、雅人さんの口を借りて言ってくれてる?
そっと愛しい俤に問いかける、その問いに記憶の笑顔は幸せに笑ってくれる。
この笑顔のために自分も生きたい、あの美しい山ヤの意志を自分こそ抱きたくて光一は誇らかに笑った。
「うんっ、当たり前だね?俺しか雅樹さんの山ヤの夢は叶えられないよ、あと山のレスキューだって俺は出来るね、」
この今、君の故郷の山で君に約束したい。
いつも君とに笑ったこの場所で、君の夢はこの自分こそが叶えると誓いたい。
この誓いをすることは「君自身が夢を叶えられない」と認めること、そして君が消えた時が始まってしまう。
その哀しみは深くなるばかりで苦しいけれど、それでも明日へ進みたいと今、この新しい年を迎える日に約束したい。
だって君の夢を叶えるためには、この自分が大人に成長する「明日」新しい時が必要だから。
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